第四十四話・「カレン」
カレンの身体は時間の経過を如実に感じ取っていた。
横倒しに崩れていくビルの下をくぐり抜けながら、カレンは身体を押そう倦怠感や激痛に耐えるしかない。
煙を吹き出しながら傾くビル。カレンの頭上めがけてビルの窓が迫ってくる。窓から降り注ぐのはデスク、パソコン、プリンター、名も知らぬOA器機。曇り空に向かって手を突き上げると、袖が激しくはためいた。黒い軌跡が風切り音を放ちながらひるがえる。袖の隙間から飛び出してくるのは《千手》だ。解き放たれた暴力は、倒れてくるビルを豪快にはじき飛ばす。瓦礫が飛び散り、カレンの身の安全を確保する。
「あと……三分!」
戦闘終結までの時間を五分と設定した。
もちろんそれは、病み上がりの身体で《遺片》を使った場合に、考えられる限界までのタイムリミット。時間の経過と共にカレンの動きは精細が欠いていく。早期決着がカレンにとっての理想の筋道だった。
「にしても、疲れるわね……!」
日頃から体力がないとうるわに言われ続けているつけが、どうやらこういうときになって回ってくるようだ。時間さえ敵に回すカレンの思考回路では、焦りが徐々に占めつつある。汗を振り乱し、嘔吐感と戦い、ハチの動きを追い続ける。《遺片》の副作用に悩まされながらも、カレンはハチを追いかけた。
「僕と戦う以前に、自分とも戦わなくちゃいけないなんて、難儀だねぇ……」
「ふん、アンタ相手にはちょうどいいハンデよ」
隆起したハチの背中には巨大な鋼の翼が広がっている。
キャタピラ、戦闘機の翼、戦艦の砲塔、サブマシンガン……その全てをミックスした無骨な翼だ。両翼を羽ばたかせれば、金属のこすれ合う耳障りな音が広がる。
「ハンデ? もらった覚えはないけど?」
腕を組んで余裕の構え。地面を蹴って空中に滞空する。
「知らなかった? ガキ相手には暗黙の了解なのよ。大人として当然だわ」
「大人? どこにいるのかな、その大人っていうのは」
遠くを眺めるように目の上に手のひらを添えるハチ。カレンはそれに舌打ちで応え、言葉は不要とばかりに《千手》を繰り出す。
……戦闘開始直後からすでに二分が経過した。
いまだカレンがハチに与えた有効打はゼロ。
カレンが必勝とばかりに繰り出した《千手》での攻撃は、背中から生えたハチの巨大な翼によってことごとく受けられている。金属同士がぶつかる甲高い音の後に、激突の衝撃波が瓦礫や煙を吹き飛ばす。翼は《千手》を受ける度にへこみ、いびつに歪むものの、突き破るまでには至らない。しかも、水のように形を変えて、すぐさま元に戻ってしまう。誰もが考えつくであろう常套手段は、一点集中。
しかし、ここにきて性格が大雑把なカレンは、攻撃を集中させることが出来ないでいる。《千手》が大規模な戦略兵器であるという特性も、この状況では不利に働いていた。何十、何百と攻撃を繰り出せど、破壊するのはハチの周囲ばかり。
「けどさ、見た目だけは派手だよね、その武器」
身体をひねって黒の旋風をかわした。行き場を失った《千手》は、背後にあったトラックをいとも簡単に空中に跳ね上げる。窓を割り、ビルの五階に突っ込むトラック。
「派手で結構。私は派手好きなの」
「蓼食う虫も好き好きだから、とやかくはいわないけど……前にも言ったはずだよね? 害虫一匹殺すのにガトリングガンを持ち出すのはナンセンスだってさ」
「だとしたら、害虫はアンタよ。そして私は害虫が大嫌い。相手がそれだけ憎いんだもの、ガトリングガンだって持ち出すわよ。出来るなら核兵器で一掃したいぐらい」
「ま、言いたいことは分かるよ。でも、狙いも大雑把だから、ほら、この通り」
言葉通り、軽く身体をスウェーするだけでカレンの放つ攻撃をかわしてみせる。かわされた《千手》はビルの外壁をごっそり削り取った。
「威力は申し分なしだね。……でも、当たらなければ意味がない」
仕方ないなと、肩をすくめる。
「……イライラするわ。特にその顔、その口調、その余裕が!」
カレンの怒鳴り声と共に、袖の中から《千手》の力がほとばしる。
《遺片》の副作用と戦いながらの集中力の維持は、困難を極めた。一点集中はカレンにとっては至難の業。向いていないと言えば、一番表現が単純だろうか。それでもカレンは力任せに数を繰り出す。一撃一撃は車を真っ二つにするほどの破壊力を有している。当たれば必殺の攻撃だ。
……そう、当てるのは一撃で十分。
それ故、数で圧倒し、退路を執拗にふさいでいく。前後左右の攻撃に、たまらずハチは跳躍する。ビルの壁を蹴り、空中に身を投げたハチ。不敵に微笑み、カレンは両手を突き出した。身体の力を解放、《千手》に伝達する。周囲で動き回る《千手》の一本一本に意識を通していく感覚。袖が裂けんばかりにはためき、波動が大気を揺らした。
カレンの力を得た《千手》は、水を得た魚のように暴れ回る。
空中で身動きの取れないハチに三百六十度方向から襲いかかる。風切り音が取り囲み、したたかに打ちつけられる鞭の音が続く。
攻撃はハチを確実に痛めつけたはずだった。
だが、煙の中から悠々と落下してくるのは、鋼の翼に覆われたハチ。
「本当、うっとうしいわね……そのポンコツの翼……!」
まるで鋼の翼は生き物。背後からの攻撃、あるいは、前方からの攻撃。左右同時の波状攻撃。それら隙のないカレンの攻撃を、鋼の翼はきっちりと受けきってみせる。カレンには、ハチの意思の外で動いているようにも見えた。自動迎撃機能、とでも言えばいいのだろうか。ハチを包み込むようにして翼は動く。カレンの《千手》がハチを四方八方から食らいつくが、カレンの意思を読み取るように、《千手》の攻撃の先に回り込むのだ。
体力のない身体で地面を蹴り、カレンはハチに接近する。瓦礫と瓦礫の間を駆け抜け、車のボンネットからジャンプしながら、ハチに右手を突き出す。カレンの意志に従い、黒い軌跡がハチの翼を打ち付ける。
「無駄だね」
右翼だけで攻撃を受けきられてしまう。そして、広げた左翼からは、何十丁というマシンガンが生え、銃口をのぞかせた。ハチが指を鳴らすと同時に、一斉掃射。緋色の銃弾が次々にカレンの足下に着弾した。接近を中断し、慌てて車の陰に身を隠す。車のシャーシに穴を空け、フロントガラスを粉々にする。タイヤがパンクし、車高が下がった。カレンはトランクの後ろからわずかに顔を出し、ハチの姿を探す。
翼の中に銃を吸い込み、ハチは瓦礫の上に着地した。車の後ろに身を隠すカレンに声をかける。
「そろそろハンデはいらないよ?」
肺は悲鳴を上げていた。走った距離はそれほど多くない。それでも身体は休ませろと叫び続けている。口から酸素を吸い込む度に、空気がのどに引っかかり、思わず咳き込んでしまう。肺の痛みがカレンの視界をぼやけさせる。
「あと二分だよ? そろそろラストスパートが必要じゃない?」
「いちいちうるさいわね……言われなくても分かってるわ。自分を皮肉るわけじゃないけど、身に染みる程ね……!」
握りしめた拳で、カレンが自動車のドアを叩く。
八つ当たりの音が楽しいのか、ハチがけらけらと笑った。
「時間が無い中で、底力、見せて欲しいな」
カレンに巣くう悪寒と、気だるさ。ひび割れたような気管の痛み。咳が止まらなくなり思わず口元に手を持っていくと、手のひらには赤い液体が付着していた。
指の隙間から地面にしたたっていく血。のどの奥からこみ上げる鉄の味。あまりの不味さにカレンはその場で嘔吐した。
「確かに……時間は無いみたいね……」
力はみなぎっているのに、身体がついていかない。痛みにその場でのたうち回りたくなる衝動を抑え込むのがやっと。なのに《千手》はもっと破壊させろとせがみ続ける。カレンもそのわがままを聞いてやりたいのに、力を伝達できないでいる。完全な集中力不足。乱れる視界に、途切れる思考。脳に配線があれば、きっとずたずただろう。
「これじゃ、あいつに笑われるわね……強くなりなさいなんて言った手前、負けてなんからんないってのに……」
カレンの脳裏にハルの仏頂面が思い出される。
不器用で一見、人付き合いが嫌いかと思えば、その実、誰より人恋しい節がある。長年共に死線をくぐり抜けてきたメイドと似て、頑固であり、不器用。そのくせ、強さすらないのに自分を押し通そうとするのには、本当に頭に来た。はらわたが煮えくりかえった。言い訳も含め、自分を主張できるのは、それ相応の力も持った者だけだ。それがカレンの主義であり、自分自身が心がけてきたことでもある。
しかし、カレンはなぜかハルの背中を押してみたくなってしまった。うるわがあそこまで気にかける存在が気になってしまった。《彼岸》を持つ以外に何の取り柄もない主人。実の妹ですら簡単に見失う主人。
情けない。男のくせに、本当に情けない。
……でも、それでも期待したくなってしまう。頑張ろうとする姿を、もがき苦しむ姿を応援したくなってしまう。強くなって欲しいと願ってしまう。妹を見つけてあげたいと思ってしまう。
……らしくない。かなり、らしくない。
カレンは自嘲し、こみ上げてきた咳をこらえる。血の味が、のど元までせり上がってきたが、すんでの所で飲み込んだ。
「うるわも、何であんな奴のことを……」
そのとき、カレンはうるわの微笑みを思い浮かべ、ハルの笑顔が想像できないことに気がついた。
「そういえば……私……あいつの笑った顔見たことないわね……」
直ぐに長い前髪で表情を隠し、そっぽを向くハルの姿。何か心くすぐられてしまうものがあった。追い求めたくなってしまうものがあった。
「何を考えてるのかしらね、私……この期に及んで血迷ってるわ……あいつの笑顔を見てみたいなんて」
袖で口元を拭い、立ち上がる。
「ラスト一分、万策尽きた? それとも最後の賭けでも始める?」
鋼の翼を広げながら、瓦礫に腰掛けている。余裕綽々といった体だ。カレンは口内にたまった血塊を吐き捨て、両手をだらりと下げる。大きく深呼吸をし、最大限の集中力をかき集める。周囲に停滞していた風切り音が鋭さを増し、地面や床に鋭利な軌跡を作り出す。
それを不気味に感じたのか、ハチは立ち上がり、翼をさらに大きく広げた。両翼からは数え切れない小型ミサイルが突き出され、弾頭があらわになっている。撃滅必死の状況。
「――乗るわ、その最後の賭ってやつに」
血の味は、いい気付け薬だ。
いつになく研ぎ澄まされていく意識の中で、カレンは足を引っ張り続けていた激痛や悪寒を身体の中に押しとどめることに成功する。精神が身体を凌駕する感覚。《千手》の中に心を入れ込む感覚。一体感。自らが兵器となった感覚。《千手》が通る筋道をきっちりと感覚で感じ取れる。武器ではなく、自分の手足のように。まるで針の穴を通すような。
「あの黒チビの真似するようで嫌だけど……」
カレンの中に一本のシナリオができあがる。
「やってやるわよ!」
カレンが自動車のボンネットを足場にして飛び出す。今までにない加速度に、ハチの頬が強ばった。今度は指を鳴らさず、眉毛の動きだけでミサイルを乱射する。
全弾発射。
白煙を噴いてハチの両翼から飛び立ったいくつものそれは、空へ上る途中で弾頭が分裂する。ミサイルの胴体が割れたかと思うと、その中からさらに小型のミサイルが出現。まもなく推進剤に点火する。花火のように周囲に散りながらも、狙う目標は全て同じ。カレンの行き場を無くすほど、小型のミサイルは空を埋め尽くした。
――多弾頭ミサイル。
カレンの脳裏に警告音が鳴り響く。身をひねりながら回避するカレンの周囲に、次々に着弾。背中や髪の毛が炎の渦にさらされる。全身が炎になったような錯覚を感じながら、カレンは炎の中から《千手》を繰り出す。風切り音は、その名の通り風を切る。真空すら作り出す旋風は、炎を切り裂き、カレンの道を切り開いた。
すすけた姿で炎から飛び出し、低い体勢のまま疾走。さらに右手を横に突き出す。
カレンの周囲で滞空していた風切り音が、カレンの命を受け、一斉にミサイルを迎撃し始めた。敵の攻撃が多弾頭であるからこそ、千の攻撃を繰り出す《千手》が生かされる。カレンの周囲に黒いカーブが描かれると、そこを通るミサイルが破裂する。
カレンを中心に外に広がっていく高速の軌跡。漆黒の鞭の曲線。一本はかすめ、一本はへし折り、一本は正面から激突する。いくつもの弾頭が空中で炸裂し、ミサイルの残骸がぱらぱらとカレンの頭上に降り注ぐ。
カレンは右手だけで《千手》を操り、爆発の中をかいくぐる。ハチとの距離はみるみる縮まっていく。中距離を利とする《千手》では、あまりにも近い距離。もう一息加速すれば、ハチに殴りかかれるだろう。カレンは地面を蹴飛ばしながら、口角から血をこぼす。こみ上げる赤い嘔吐感。鉄の味。それでもカレンは不敵に笑う。
自らの力を信じ、自らの勝利を疑わない。
それがカレンをカレンたらしめる要素だった。
「接近戦? けどそれは僕も望むところだよ!」
自らの胸に手を突っ込むと、心臓を引きずり出すようにして大鎌を引き出す。横様に構え、身体をひねって力を溜める。鋼の翼は素早い動きには不向きなのか、一瞬で背中にたたんでみせた。
カレンとの距離はまもなく十メートルを切る。瞬き一つ許さない時間のせめぎ合い。ハチの視覚が情報を即座に読み取った。
大鎌の攻撃範囲内。
確信を得て、ハチは大鎌を横になぐ。刹那、カレンの身体がさらに沈み込む。その動きはナナのしなやかさを連想させた。ハチの大鎌に頬を切られながらも、刃をやり過ごすカレン。
今、死神はその手に命を握りしめ損ねた。
そこに現れる光明。
カレンはスローモーションにさえ見えた刹那の中で、冷静に攻撃を実行してみせる。
一太刀をかわしたカレンは、温存していた左手を字面につけ、力を送り込む。すると、地面の中に潜り込んだ《千手》が次々に地面から飛び出してくる。周囲からカレンとハチを包むように暴れ回る《千手》。
爆砕する地面。舞い上がる破片。巻き上がる噴煙。
まるで煙幕だ。その中に姿を隠し、カレンはハチの背後を取る。それは、マルチメディアビルで見せたナナの戦い方に酷似していた。
最初で最後の最接近。
攻撃を加えず、後ろからハチを羽交い締めにする。まさにそれが鋼の翼をたたんだハチの誤算でもあり、翼をたたませたカレンの勝算でもあった。
羽交い締めの力をさらに強くしながら、カレンはハチの耳元でささやく。
「これなら……避けきれないでしょ?」
羽交い締めにしたまま、カレンの袖が激しくはためいた。二人の周囲で風切り音が舌なめずりをする。激しく、鋭く。一方で、追撃のミサイルは四方にそれていく。流石にハチごと攻撃する意思はないようだった。
「馬鹿でしょ? ただでさえ正確な攻撃は出来ないのに」
「……そうね」
カレンの口元からは血が滴り、金色の髪が暴風域の中でしなやかに揺れる。黄金の瞳はいっそう美麗に輝き、カレンの意思が偽りではないことを体現していた。
「これじゃ、カレンもただでは済まない――」
カレンが笑う。
何かに気がついたハチの目が見開かれる。
「まさか! 僕と心中する気……!?」
「感謝――しなさいよね」
思いの中で浮かべた顔と、カレンの言葉の行き先。
周囲に広がっていた《千手》の攻撃が二人に集束する。
最後の力を振り絞るカレンの攻撃。操りきれずに身勝手にビルを倒壊させていた《千手》までも呼び寄せる。体中から激痛が飛び出してくる。臓器が爆発するような痛み。あるいは、体中の骨という骨にひびが入ってしまったかのような。とうとう抑えきれなくなった《遺片》の副作用。
……でも、関係ない。
カレンは意識を集中させる。
――五分、経過。
次の瞬間、二人は果てしない爆発の中に飲み込まれていった。