第四十二話・「うるわを頼むわね」
「ふざけるんじゃないわよ」
――風切り音が、雨の中に響き渡る。
巨人の足をなぎ払い、ビルの谷間に舞い踊る。車を空中に跳ね上げ、ハチが作り出した鋼の戦士達をビルの壁に叩きつけた。大気が震え、雨がはじき飛ばされる。すでに半径百メートル以内はハリケーンに飲み込まれた。風切り音は容赦なくビルの窓を叩き、削り取り、ガラスを割り、外壁を散らす。雨あられと路上に落ちてくる瓦礫とガラス片。まるで戦争でも始まったかのよう。無差別に炸裂する力の行使は、悠々と歩いてくる一人の少女によって巻き起こされている。裂けんばかりにはためくロングコートの袖もと。黄金の髪、黄金の瞳。雨に濡れた眼鏡を投げ捨てる。
「……ったく、どこまで買い物に行ってるのよ」
カレンは、ハルの隣に並ぶと、うるわの頬に優しく手を添えた。
ハチとその鋼の軍団は、うるわの《千手》を受けて、煙の中に消えた。
立ち上る大きな噴煙が邪魔をして、中の様子はうかがえない。それをインターバルと見たのか、カレンは敵から目をそらし、ハルを、そして、うるわを見た。
「カレン……お前……どうやって」
「古代兵器同士は引かれあう。それがナナ、そして私をここまで導いたのよ」
うるわの冷たい頬に触れ、カレンはそっと微笑む。
自信と傲慢が入り交じったいつもの表情とは打って変わって、穏や過ぎるくらい。我が子が頑張る様子を草葉の陰から温かく見守る……そんなカレンの穏やかさ。もちろん、そんな感想を抱いてしまうにはカレンは若すぎるだろうし、言ったところでカレンも激怒するだろう。
ハルは頭の中で完結する。
「この子は……うるわは馬鹿なのよ。自分のことは二の次で、メイドである信念を優先してばっかり。うるわはよく言うでしょ? 最大の犠牲心を持って……とかなんとかって」
頬に添えた手を引いて、握り拳を作る。
「私からすれば、クソ食らえ、よ」
唾棄するような頬の強ばりの後に、カレンは傷ついたうるわの髪を優しく撫でる。
「うるわにはうるわの幸せを見つけて欲しい。わがままでもいい、自分勝手でもいい。人として生まれたからには、犠牲なんて考えなくていい幸せを手に入れてもいいはずよ。メイド・イン・ジャパンとか、国際家政婦条項とかにとらわれないでね。エゴだって時には必要」
小降りになってきた雨の中、カレンはうるわの頬の泥を拭う。
「馬鹿なうるわにはそれが分からないの。表情からは読み取れないくらい、純粋な心を持っているから。これと思いこんだら真っ直ぐ……たまたまうるわにとってはそれがメイドであっただけ。本当に頑固者で、礼儀にうるさくて、説教屋で……本当に愛らしい」
うるわの綺麗な顔立ちが戻ってくる。汚れはカレンによってぬぐい取られた。
「――だからこそ、私は許せない」
ハチをにらみ付けた目が振り返り、ハルをとらえる。
うるわのそばに立っていたハルの胸ぐらをつかんで、顔を近付ける。
「ハル……あんたがうるわをこんな風にしたのよ。私から言わせれば、あのポンコツがうるわをこんなふうにしたんじゃないわ!」
ぶつけられる言葉のつぶてに、ハルはうちひしがれる。
「アンタがあまりにも弱いから! 男のくせに笑っちゃうぐらいに弱すぎるから、うるわが自分を犠牲にするしかなかったのよ! それがうるわを苦しめた!」
うるわを心強く感じていた。うるわの言葉を頼もしく感じていた。うるわの華麗な殺陣を見ているだけで、強くなれるような気がしていた。しかし、それはまやかしだ。なぎ倒してきた鋼鉄の兵士達。倒れ伏した鎧の数を数える度、強くなったような気がしていた。あたかも死線をくぐり抜けた気になっていた。
「アンタは、それを分かってるの……?」
うるわが、弱い俺に変わり、何倍も身を粉にしていた。俺が見ていないところで、ずっとカバーしていてくれた。俺が敵と一対一で戦える環境を作り出してくれていた。敵を引きつけていてくれたんだ。
ハルは歯ぎしりする。心臓をわしづかみにされたような感覚に、思わず唾を飛ばしていた。
「できるなら……俺にその力があるのならとっくにやってるさ! それでも! どうにもならないことだってある! うるわを守りたかったのは本当だ! 傷ついていく姿を見たくなんてなかった! それでも……!」
「……もう一度言うわ――」
肺活量の限界まで息を吸い込み、解き放つ。
「――ふざけるんじゃないわよ!」
締め上げた胸ぐらごと、ハルを揺り動かす。
「それでも、何よ? それでも駄目だったからあきらめるの? 頑張ったけど駄目でした? 思ったけど出来ませんでした? 現実主義も結構なものね! そういうのが私は一番嫌いなの。負け犬がよく言うのよ、そういうことを!」
強烈な眼差し。ハルは思わずその眼差しから逃げて、前髪で表情を隠す。
「カレンには分からないだろ。《千手》とかいう古代兵器を使えるんだからな……!」
思わず出た言葉を取り消すことは出来なかった。
負け惜しみ。完全なる逃避。醜い言い訳。言葉が浮かんでは消える。
「そうね、ハルの言う通りよ。私は強いから、ハルの言っていることは分からない。弱い人間の言うことなんてこれっぽっちも分からないわよ!」
張り詰めたカレンの声が、次の瞬間には幾分か和らぐ。
「……でも、どんなに弱いアンタでも……うるわの気持ちくらいは分かるんじゃないの?」
「…………」
分かる。分からないはずがない。
自己を犠牲にしても主人に尽くそうとすること。痛いはずだ。苦しいはずだ。それでも、厭わず助けに駆けつけ、いつもと変わらぬ平静な態度で奉仕する。主人が不安にならないように、傷ついても変わらぬ言葉遣いで奉仕する。
分かる。分からないはずがない。
「だからこそ、これは簡単にあきらめていいことじゃない。いい、ハル……アンタは、うるわがこんなに傷つかなくてもいいように、強くなりなさい。うるわの仕事が無くなるくらいにね。うるわが仕事を欲しがるくらいにね!」
つかんでいた胸ぐらを離すと、カレンは不敵に笑った。
ハルは表情を前髪で隠したまま。沸々と煮えたぎる思いがのどの奥からこみ上げる。
殻があるのならば破りたかった。怒りではない、ほとばしるような気持ちを叫びたかった。それは産声に近いのかもしれない。
うるわの行動が、カレンの言葉が、ハルの硬質な殻にひびを入れた。
ハルは思う。
前髪がこんなにうっとうしいと思えたことはない。
「あのポンコツとは私がやる」
晴れていく煙の中にハチの姿。瓦礫の上に超然と立っている。
ほこり一つ無いスーツ姿が、何よりも不気味だ。
カレンは恐れることなく、無風の中で袖をなびかせ始める。
「一つ言い忘れていたけど、マキの居場所、心当たりがあるわ」
準備運動をするように首や腕をぐるぐると回すカレン。
「もしも、私の推測通りなら……多分、直ぐ近くにいるわよ。びっくりするぐらい近くにね。でも、近いと言ってもここではない」
指を振り子のように揺らし、ニヤリ。
自信でもあるのか、カレンはあえて意味深な言葉を選んでいるようだった。
「マキは消えたんじゃなくて、消した。私はそう考えてる」
「消しただって? いったい……一体誰がそんなことを……」
「さぁね。……さ、話は終わりよ。私は忙しいの。病み上がりなんだし、早く終わらせてさっさと帰らなきゃ。ナナとのゲームの決着だって残ってるしね。私の真の実力をあの黒チビに知らしめてやるんだから。それに、ハルも知っているだろうけど、夕食はカレーよ。うるわのカレーは絶品なんだから」
名残惜しむようにうるわのそばにひざをつく。小雨に変わった灰色の雲の下、カレンはうるわのポケットに手を入れる。血と泥で汚れたポケットの中を探れば、血で染まった乾燥梅と白いカプセルが出てきた。
「うるわを頼むわね」
「カレンはどうするんだ」
「うるわを頼むわね」
最初に触れたのは、血でぬれた乾燥干し梅のパッケージ。だが、手の中に握りしめたのは白いカプセルの方だった。白いカプセルとは言っても、今はうるわの血で染まっているので赤い。
――悪いけど、勝手にもらうわよ。
カレンは声には出さず口だけで謝罪した。
ハルは自分のポケットに手を当てて思い出す。
記憶が正しければ、それは《遺片》という古代兵器だったはずだ。限界を引き出す代わりに人としての営みを奪う諸刃の剣。中毒性を有し、どちらかというと効能よりも代償のほうが勝る薬物……否、麻薬。
「カレンは……どうするんだ」
馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。
「何回も言わせないで。言っているでしょ? うるわを、頼むって」
うるわの名前だけをあえて強調する。
「まったくもう……もう少しおしとやかに出来ないのかな?」
カレンは愚痴を漏らすハチの声を聞き、うるわから離れた。
「悪いわね、私はもともとこういう質なの」
「見れば分かるよ」
「そう?」
肩をすくめながら、ハチと対峙する。
「手加減はなし。五分で片をつけるつもりだから」
手のひらを広げ、うるわの血で赤く染まったカプセルをつまむ。口を上に向け、舌の上にカプセルをのせる。妖艶ささえ感じさせる鷹揚な仕草で、ごくんとカプセルを飲み下した。喉元が、嫌らしくくうごめく。
「――うるわの味がするわ」
恍惚感を得るような、カレンの声だった。
「《遺片》ね……。前も言ったけど、無理はいけないよ? 人用の兵器ではないからね」
「見せてあげるわ、私の本気。真の実力ってやつをね」
「一度見たような気がするけど?」
「気のせいよ」
小雨に変わった雨が、カレンのまとう気迫だけで吹き飛ばされていく。
大地が振動し、カレンの両袖がばたばたと暴れ出す。ハチの銀髪がなびき、赤い瞳に好奇心がともる。
「確かに。気のせいかもしれないね」
風切り音の数は増し、ビルを容赦なく削り取る。看板が剥がれ落ち、車のルーフを貫く。吹き荒れる暴風は、全てが風の刃。
「僕も見せようか? 実力の片鱗をね」
スーツの下、背中を隆起させるハチ。鋼の巨人も、無限に増える鉄の狂戦士もいつの間にかいなくなっている。
「片鱗……? 馬鹿にするんじゃないわよ!」
世界で一番長い五分間。
時計の針は、今、刻み始めた。