第四十一話・「うるわ」・後
目を閉じて、恐怖心と戦う。そうでもしなければ、今にも発狂してしまいそうだった。
何の確証があったわけでもない。自信があったわけでも、兆候があったわけでもない。ただ、ハルはこれ以上うるわが傷つくのを見ていられなかった。
ビルの十階。落ちれば命はない。
機械蜘蛛との戦闘が行われた、朽ちた地面への着地を試みるしかない。
……もしも。もしも《彼岸》が使用者全ての願いを聞き届けるのならば、今すぐこの願いを聞いて欲しい。やり方なんて分からない。どう願いばいいのかなんて分からない。本当に自分が持っているかすら分からない。
……でも、目の前で傷ついている人がいる。
自分の力ではどうしようもない。
山よりも高い自責の念がある。
海よりも深い悔しさがある。
ハルは助かりたいという思いをもって強く念じる。
どんな形でもいい、この高さから落下して助かる方法を……。
体中を雨の冷たさが打ち付ける。耳元を抜けていく風の音。迫り来る地面。人間なら命はない高さ。恐怖に身体をつぶされ、思わずうるわを強く抱きしめていた。ハルは迫り来る地面を見る。スピードは増すばかりだ。助かる気配なんてどこにもない。重力と、死に引かれる。
願いは届かなかった。《彼岸》は発動しなかった。
ハルの心が絶望に占められていく。
「……無茶をしますね……ハル」
――主人を守らなければ。
その責任感、使命感が、うるわの体にスズメの涙ほどの力を呼び戻すのか。
血だらけのうるわはハルの胸の中から逃れ、二人が空中を落下していることを確認すると、逆にハルの肩を抱えた。血を振りまくことを厭わず、うるわはハルの驚きの目に気がつかないまま壁を蹴る。ハルの判断が必ずしも正しかったとは言えない。それでも、うるわの身体に染みついたメイドとしての本能が、現状を打破しようと動き出す。
生死を問う重傷でも、迷い無く自分の身を酷使する。それがうるわ。
対峙した敵が強大でも、迷い無く自分の心を犠牲にする。それがうるわ。
それが間違っていたとしても、迷い無く自分の信念に殉ずる。それがうるわ。
壁を蹴り、落下のスピードを減退させた上で、乱暴ではあるが、かろうじて地面に着地することに成功する。着地の衝撃を緩和しきれなかったのか、地面にうつぶせに倒れ込んでしまう。おかっぱの髪は乾いた血液でばりばりになっていた。
「うるわ! ……うるわ!」
仰向けに抱き起こし、閉じかけたまぶたに呼びかける。着地の際、うるわは細心の注意を払って、ハルへの衝撃を最小限に抑えていた。自分の命すら簡単に投げ出してしまえる自己犠牲精神は、他人から見れば病気であると思えたかもしれない。
「ちくしょう……俺は……っ!」
歩み寄ってくる人影をにらみ付けた。ハルの切れ長の目が憎悪につり上がる。
「あらら、だいぶやられちゃったね」
ポケットに手を突っ込みながら、ハチが壊れた玄関口から歩いてくる。背後に従わせるのは、情報ソフトフェア第四事業部でも戦った鋼の狂戦士達。その内の一人の兵士が、肩にぼろぼろのナナを抱えていた。ハルが貸した服装のまま、ぴくりとも動かない。満面の笑みも、楽しそうな笑い声も聞こえない。そぼ降る雨に傷ついた身体を濡らすだけ。
歯ぎしりするハルを楽しそうに見つめる目。
「ああ、ナナ? ナナは僕に刃向かってきたんだ。だから、もう一度、起動できないようにするしかなかった。本人も自覚していたはずなのに。自己修復中で戦闘行為不可な状態……セーフモードで起動してるってさ。まったく、ナナは何を考えているんだろ?」
戦闘服である黒いレザースーツ。それに変身することすら出来ないナナ。確かにハチの言葉は正しいようだった。
「《人機》同士で争うなんて、お父さんも望まないのにさ」
ハルが傷ついたうるわを背後に隠す様を、紅い瞳で微笑みながら見つめる。
「それはそうと……結局、僕の言ったとおりになったね。やっぱりうるわでは僕には勝てないよ。当然、賭けも僕の勝ち。うるわの刃はもう折れているからね」
「ハルは……下がっていてください……」
いつの間に立ち上がったのか、血を滴らせたままハルの前に回り込む。
立ち上がるうるわには悲壮感すら漂う。
「まだやるの? 結果は同じだよ?」
「たとえ……私の剣……身体が折れたとしても、心が折れることは決してありません……あなたの賭けが勝つことは絶対にないのです」
「う~ん、それって屁理屈だよね? それともイカサマかな?」
ハチが困ったように頭をぽりぽりとかく。
「なんで……そこまでして……」
震える足で立つうるわ。
「私は……メイド・イン・ジャパンなのです……。専守防衛を己の流儀とする……。国際家政婦協会にも誓いました……『いかなる時も、冷静・笑顔・優雅であれ。かつ、最大の犠牲心を持って奉仕せよ』……と」
右足を引きずりながら、ハチに向かっていく。
ハルはうるわの覚悟を前に追いかけることが出来ない。引き留めようと伸ばす手があっても、うるわをつかむことは出来ない。小さく、貫き通せるかも分からない感情で、うるわを止められるはずなんてなかった。
「うるわ……駄目だ……」
背中を剣で切り裂かれようとも、ボウガンの矢が貫いた太ももを引きずっても。
戦闘不能の右腕を垂れ下げても、腹部をナイフが貫いても。
全身血だらけでも、うるわは立ち上がろうとする。戦おうとする。
強き瞳。気高き眼差し。少女のどこにこれほどの意思が宿るのか。
小さな身体。大きな誇り。
雨に濡れても、風が吹いても、決して消えることのないかがり火。
「私は……メイド・イン・ジャパン……! 世界に誇らなくてはいけない日本のメイドです……! 愛する国を……愛する主人を守りたいんです……!」
「困ったね、これは」
嘲笑するように唇を歪める。雨に濡れた銀色の髪をかきあげると、背後に控えた鋼鉄の戦士達がハチの前へ出た。ハチと同様の紅い目をぎらぎらとたぎらせる。ひざをつきそうになる身体を何とか支えながら、戦闘態勢を取るうるわ。雨の中、一触即発の雰囲気ができあがる。けれど、決着は直ぐにつくだろう。
そう……最悪の形で。
ハルの脳裏に耐え難い苦痛の未来図が描かれる。
「ああ、そう言えば……ハル、買い物がまだでしたね」
再び敵に囲まれ、殴り飛ばされる主人とメイド。地面に叩きふせられながら、ハルはカチューシャを落とすうるわを見上げた。鋼の拳がうるわの傷ついた腹部をとらえ、うるわは身体をくの字に曲げる。
「うるわ……何を言って……!」
うるわは倒れなかった。傷ついた右足で無理に身体を支えると、太ももの出血が倍加した。その背中に襲いかかる棍棒。硬質な音にハルは耳をふさぎたくなる。
「出来るならば……ハルには荷物持ちをお願いしたかったのですが」
うるわがどうしてこんなことを言い出すのかは分からない。肩越しに語りかける様は、なぜか行方不明になる前の両親の姿に似ていた。
「仮にも主人を小間使いにするなんて、とんだメイドですよね……」
出発の前日。その日も、今日と同じ雨だった。
二度と戻ることのなかった両親の微笑みに。
飛行機に乗り込む父と母が振った手のひらに。
「本当は、私などは……メイド・イン・ジャパン失格なのかもしれません」
父と母に行くなと言いたかった。一度旅立てば何ヶ月と帰って来ない。
本当は……寂しかった。広い家で妹と二人。ふいに訪れる寂しさに布団の中でうずくまる。マキもそれを分かっていたのか、当時はやたらと明るく振る舞おうとしていた。
でも、両親にとっての仕事がそれで、それが家族を支えるために仕方がないことだったから。自分一人が我慢すればすむことだったから。
「なんで、今更なんだ……」
……なぜ、今そのことが思い出されたのか。
ハルは敵に踏みつけにされながらも、力を振り絞って立ち上がる。
「確かに、メイド・イン・ジャパンは失格なのかもしれない」
寂しさを我慢して。つらさを耐えて。常に顔を強ばらせて。
それが、今の俺自身を支えるもの。今の俺自身を構成するもの。
でも、必ずしもそれである必要があるのだろうか。
「でもな……誓ってもいい。俺はうるわをメイドとして失格だなんて思わない……!」
ハルは心の奥に転がる宝石のようなものを見つける。
手は届かないけれど、その宝石は暗闇の中できらきらと輝いていた。
「……うるわがいなかったら、俺は多分、こんなふうに走ることも出来なかっただろうから……。マキを探そうとすることも、きっと決断できなかっただろうから……」
「カレンにも……同じことを言われました」
「あいつと同じなんて……なんか嫌だな」
「カレンが聞いたら……怒りますね……きっと」
「ああ……ふざけるんじゃないわよ……って怒鳴り散らすんだろうな」
会話の合間にも鋼鉄の戦士達が殺到する。うるわのカチューシャは地面に落ち、迫り来る狂戦士に踏みつぶされていた。エプロンドレスは切り裂かれ、柔肌も容赦なく赤に染まる。
避けきれなかった剣閃。
肩口を切り裂かれたところで、うるわの足がくずれ落ちた。
うつろな目。定まらない焦点。
身体は泥にまみれ、死人のように冷たい。眠るように瞳を閉じるうるわ。血を洗い流すように雨が降る。
止まない雨。太陽は遙か遠い雲の向こう。
ハルは、身体が、心が震えるのが理解できた。
「……く……あ……う、る…………」
倒れるのが理解できた。
「これで終わりだね。残るは《彼岸》を持つ者、伊達ハル、君だけだよ」
腕を組んで鑑賞していたハチが、楽しげに指を鳴らす。すると、破壊された玄関口から、首が無くなっていたはずの鋼の巨人が這い出てきた。やがて首もないまま立ち上がり、大きく足を持ち上げる。鉄の足の質量を持ってすれば、車ですら一瞬でぺしゃんこになるだろう。車から立ち上る炎が、雨によって鎮火していく。その煙を突き抜けて、巨人の足がハルを踏みつけにする。
雨に頬を打たれながら、ハルはうるわの側に寄り、しっかりと抱える。
長い前髪から落ちる雫。うつむくハルの表情は見えない。ただ、つぶやくように口元が動くのだけが見えるだけだった。
(…………マキ、こんなお兄ちゃんでごめんな)
まるで遺言でも残すように、ハルは小さくつぶやいた。
「ふざけるんじゃないわよ」
――風切り音が、雨の中に響き渡る。