第四十話・「うるわ」・前
世界を垂直に切り裂く大粒の雨が、大地に降り注ぐ。
ブラインドごとガラスを突破った兵士が、大地に降り注ぐ。
空気を大きく吸い込むと、うるわは一つ大きく気合いを入れた。切り裂かれ、血の流れ落ちる背中の傷を背負ったまま、敵の猛攻を一心に受け止める。先頭で飛び込んできた兵士をかわしざまの掌底で吹き飛ばす。床を滑っていく兵士を踏み越えて、敵はさらに左右から斬りかかってきた。裾の長いエプロンドレスが切り裂かれる。響く裁断の音。しかし、それはうるわの予測範囲内。ぎりぎりの隙間に体を通すように舞い上がると、空中で兵士の顔面を蹴り上げた。両足を百八十度開くことで、左右の兵士は撃退される。のけぞる兵士の兜が吹き飛んでいく。着地際はさらに鮮やかだ。のけぞる兵士の肩を利用して跳躍。次なる兵士の頭頂部にかかとを落とす。崩れ落ちる兵士をサッカーボールのように蹴り上げると、得意の掌底が息の根を止める。壁にひびを入れるほどの衝撃は、流石SAMといったところか。
「うるわ! ゲリラ戦どころじゃなくなったな!」
「申し訳ありません。敵のバリエーションがこれほど豊かだとは思いませんでしたので」
言葉の意味とは裏腹に、うるわの視線は冷徹そのもの。周囲を凍らせる無情の雰囲気をまとい、兵士に囲まれる中で奮闘する。敵の群れにもみくちゃにされながらも自由に動き回るうるわは、まるで水のようだった。どんなに瓦礫が積み重なっていようと、砂利が密集していようと、水はしみ出してくる。その隙間をすいすいと抜けて、敵を蹴散らしていく。無理にこじ開けようとするのではなく、その流れに従って。
……困難な状況下で実力を発揮しようとするには、二つの手段がある。
――一つは状況を強引にねじ曲げてしまう手段。
ハルは力任せに敵の攻撃を受け止める。火花散る剣。紅い目を兜の間からちらつかせてハルに生暖かい息を吹きかける。ハルはそれに顔をしかめて、力任せにぶつかっていく。筋肉の疲労。腕を棒にしながらも敵の鎧に剣を突き入れる。仰向けに倒れていく兵士に安堵する間もなく、頭上から小柄な兵士が飛びかかってきた。手には短剣が握りしめられ、ハルの首もとを狙いすましている。ハルは感覚のなくなりつつある手をとっさに構え直して、兵士の手首をつかみ取った。もつれ込むように、飛びかかってきた兵士と地面に転がる。
二転。三転。
攻めと受けが入れ替わる。悲鳴を上げる筋肉。やむなく受けに回ったハル。
敵の刃とハルの首までの距離は一センチ。
唾を飲み込めば、切っ先がのど仏に突き刺さるだろう。血管がちぎれそうになるほど、力で対抗する。噴き出す汗と、気合いの声。ハルは足をめいっぱいに振り上げた。反動でさらに体を一回転させることに成功する。
攻守交代。
短剣を我がものとしたハルは、思いっきり兵士の胸に短剣を突き立てた。何とも言われぬ感触の後に、鋼の兵士はどろどろと溶けいていった。
これでやっと倒した兵士は二体。
激しく息をしながら、休みたいと訴えかける体に鞭をいれる。立ち上がり際、もつれた足。揺らめく体を鋼の兵士は目ざとくとらえる。飛んできた分銅。何事かと目を見張るハルの右足を、分銅がぐるぐると回る。
締め付けられる痛みに顔をしかめると、右足に鎖が巻き付いているではないか。
外しにかかろうにも鎖ががっちりと右足を絡め取ってしまっている。分銅、そして鎖の先には刃渡り三十センチほどの鎌。俗に言う鎖鎌。サイレンが頭の中で鳴り響く。ハルがまずいと思ったときには手遅れだった。鎖鎌を持った兵士が、鎖をぐいと引っ張ると、ハルの体が地面に叩きつけられた。足を引っ張られ、後頭部が床を打つ。脳が破裂するほどの痛み。意識が遠くへ飛ばされそうになる。ぐらぐらと揺れる視界の彼方から、うるわが駆けつけた。駆けつけついでにうるわを圧殺しようと襲いかかる狂戦士。手に持ったモーニングスターが炸裂する。受ければ鉄球に突いた棘が体を突き刺し、その質量が骨を粉砕するだろう。だが、うるわはまるで薄い紙のように、ゆらりとその攻撃を受け流す。腕を取ると、兵士の力を逆手に取って軽くひねる。
するとどうだろう。巨体を揺らしていた兵士が鎧ごと宙を舞ったのだ。柔よく剛を制するように、地面に叩きつけられる。
最小限の力で、最大限の目的を達する。
溶けていく兵士の手からモーニングスターを奪取し、ハルの下に駆けつけようとする。舞い上がるエプロンドレス。散る汗。輝くカチューシャ。次々に兵士の肩を踏み台とし、空中を舞い続ける。兵士は空を舞ううるわを引きずり落とそうと、手を伸ばす。その光景は生を求める亡者の構図によく似ていた。
飛び降りた先では、ハルが意識を失いかけている。その痛みを与える兵士を素早く発見すると、モーニングスターを、文字通り流星の如く振り下ろした。鎧から吹き出す鉛色の液体。兵士を前蹴りで遠ざけ、ハルの足に巻き付いたままの鎖にモーニングスターを叩きつけた。
ハルが拘束から解き放たれる。そのままハルをかばうようにして、うるわは絶望的なまでの数と向き合った。
……困難な状況下で実力を発揮しようとするには、二つの手段がある。
――もう一つは状況に順応すること。
状況に自分自身を適応させて、その中で最大限発揮する。つまりは柔軟になれということ。ハルは強引に状況に逆らおうとし、うるわは状況に柔軟に対応していた。敵の力を利用し、最小限の力で敵をなぎ倒す。
前者が悪いというわけではなく、後者が良いというわけではない。
ただ、その時と場合による。その見極めが出来るかどうかがハルとうるわの決定的な違いだった。そして、その二つが二人の疲弊の差である……はずだった。
「ハル、夕食までにはまだ時間があります。大変申し訳ないのですが、もう少し付き合ってはいただけませんか」
無感情で機械的声。
「……当たり前だろ。まだ空腹にはほど遠いんだ……!」
激痛が走る体を起こし、声を振り絞る。
「ハルの言うことは理にかなっています。空腹は最大の調味料ですから」
やせ我慢が、軽口を叩かせる。しっかりと床を踏ん張らなければ、立つことも厳しい状況。数を増す敵を見定められない。分泌されるアドレナリンが一時的な麻酔薬と化しているため、痛みは何とか抑えられる。一方で、感覚はそうはいかない。ぶれる焦点の中で、うるわは何とか気力だけでハルを守ろうとする。攻撃のイメージにだんだんと追いつかなくなっていく体が、余力のなさを歯ぎしりするほどに示している。いくら己を水と見立て、幾百の敵を撃退したとしても、体力に限りはある。敵が数で制してくる限り、限界はいつか必ず訪れる。それでも、うるわは自分を奮い立たせた。
掌底、一閃。
鎧を破壊し、余波は敵の体を吹き飛ばす。さらに、槍で突きかかってきた敵の懐に体を滑り込ませると、体重をのせた裏拳を胴体に見舞う。入り込んだ衝撃は、敵の腹部から抜けて背へ至る。背を覆う鎧が割れ、内側から灰色の液体が飛び出した。
「ハル、まだ走れますね?」
背後で敵の足を切り払うハルを振り返る。
「うるわこそ、走れるのか……?」
「ええ。愚問です、ハル」
ハルはそのうるわの背中を見失わないように体を動かし続ける。うるわの動きを少しでも真似ようと、それらしい動きを心がける。
無我夢中だった。
自然に熱を帯びる。興奮で、頭に血が上っていく。
視界が狭まる。
でも、ふいに話しかけられる頼もしい声に体を叱咤されるようで、戦闘を教授されるようで、ハルは冷静に、熱くなることが出来た。最適な精神状態。痛みを抱えながらでも、体は言うことを聞いてくれていた。
「ハル! そちらに行きました!」
「ああ!」
落ちていた十手を拾うと、情報ソフトフェア第四事業部からなだれ込んできた兵士と矛を交える。十手独特のかぎの部分で、兵士の振り下ろす刃を防ぐ。力比べでは不利。ハルの判断は、うるわが抱いていたものより数段速い。思わずセンスがあるとうなりそうになる。力を入れるべきところは入れ、そうでないところは極力受け流す。先ほどまでは出来ていなかった水のような戦い方が出来るようになっているのだ。
「俺は走る……探さなきゃいけないんだ……だから俺の邪魔をするな!」
ハルは十手で引っかけた剣の力をうけながし、兵士の体勢に揺らぎを生じさせる。そのまま足払いをかけて敵を転ばせる。
ハルはとどめを刺すことをしなかった。
今は時間が惜しい。無限に敵が増え続けるのならば、本体を倒さなければ意味はない。
それはうるわも分かっているようだった。ハルは戦いの合間に気にかけてくれるうるわと視線を交錯させる。二人同時にうなずき、意思を確認しあう。
「だというのに、この数は……!」
情報ソフトフェア第四事業部の中央までこぎ着けるが、そこからが遠い。事業部内の通路という通路が敵の群れで埋め尽くされていた。四面楚歌。受け流すだけでは突破できない。うるわはそう判断した。
判断が早くても、実行が伴わなければ意味がない。片足で立つうるわが、自由になる右足で敵を次々に蹴り倒す。柔軟なひざの動きがそれを可能にさせる。往復の平手打ちを連想させる蹴り。足の甲で振り抜けば、今度はかかとが戻ってくる。強靱な軸足と、バランス感覚がその技に切れを生む。倒された兵士がデスクの上に突っ伏して、ディスプレイに頭を突っ込んだ。配線が悲鳴を上げて、光と共にちぎれる。机上のフィギュアは兵士の下敷きになり、お菓子は踏みつぶされて粉々だ。書類の山はまるで雪のようにうるわの頭上に舞い、ひらひらと舞い落ちてくる。その下で踊るように回転。渾身の回転力を込めた回し蹴りを放つ。
鉄板を打ち据える轟音。
鋼の体はへこみ、遠く離れたプリンターに激突。兵士はプリンターを抱え込むように力を失う。するとどういう具合か、開いたプリンターのスキャン部が光り、兵士の顔を読み取っていく。排出口からはカラーコピーされた醜い兜の絵が吐き出されていた。
「資源の無駄ですね。カラーコピーは高いのです」
無情な言葉を残す。回転技の代償が、ここに来て突然うるわを襲うもう一つの敵。
貧血に似ためまい。知らずひざが折れてしまう。
不覚にも再度力を入れるのに時間を要してしまった。
「うるわ!」
ハルの声が早いか、敵が早いか。
その判断は意味をなさない。デスクの上に駆け上り、そこから三体の兵士が続けざまに飛びかかってきた。
声より早く、うるわの傷ついた背に棍棒での一撃が加えられる。
ごすん。
背骨を折るような鈍い音。肺の空気と、胃液。うるわの口から、同時に吐き出される。
床に顔をこすりつけるうるわ。そこに追撃。
二体目の兵士が首を落とすべく斧を振りかぶっていた。うるわは苦悶の表情で床を転がってやり過ごす。切り落とされたおかっぱの黒髪。斧にこびりつく黒髪。三体目はさらにその上から強襲してきた。三連射式のオートボウガン。兵士が紅蓮に燃える目でうるわに照準を定める。
「……くそっ!」
分断されてしまったハルが、うるわのピンチを悟りデスクによじ登る。しかし、途中で電話のコードに足を取られ、前のめりに倒れてしまう。頭をノートパソコンにぶつけて、血がにじんだ。紅く染まる視界の先で、床を転がって避けようとするうるわがいる。
「うるわ、駄目だ!」
辛くも逃れようとするうるわ。転がった先には兵士。太い鋼の腕がうるわの体を羽交い締めにした。額の汗がうるわの動きで飛び散る。背後の兵士にひじうちを入れ、逃れようとする。何とか羽交い締めから脱するも、照準を定める兵士にはそれで十分だった。一瞬でも停止してしまったうるわ。放たれる矢。
……後は悪あがきでしかなかった。僅かな時間の中で体をひねる。
一本目。羽交い締めにしていた兵士の顔面に突き刺さる。
二本目。うるわの二の腕を突き抜ける。
三本目。うるわの太ももに突き刺さる。
うるわの苦悶の声に間に合わず、ハルがオートボウガンを放った兵士に跳び蹴りを放っていた。デスクを駆けた勢いを利用しての蹴りに、兵士は武器を手放して吹っ飛ぶ。ガラス張りの事業部を突き抜けて、ビルの外へ飛び出す。兵士はなすすべ無く雨の中を落下していった。
「うるわ!」
敵の生死を確認せず、ハルは真っ先にうるわに駆け寄った。
「私は大丈夫ですから……お気に……なさらず」
うるわの血の気が引いている。無表情でも、顔色だけは隠しようがない。震える手が、心配するハルを押しとどめる。
「私はあなたのメイドです。……最大の犠牲心を持って奉仕する以上……これぐらいはあって然るべきなのです」
ハルが歯ぎしりする中で、会話は遮られる。敵は二人の会話を待ってはくれない。
最大の好機と見て、俄然勢いを増す。
投げナイフが、うるわを抱き起こすハルの背中へ。うるわはそれを見るにつけ、ハルを突き飛ばした。加減の伴わない突き飛ばし方だ。痛みに視界が明滅する。イスに背をぶつけ、キャスター付きのイスは滑っていく。ハルが背の痛みを忘れてうるわを見れば、うるわの腹部には一本の投げナイフが入り込んでいた。あふれ出す血液。床を赤で汚れていく。それでもうるわは立ち上がろうとする。
どれほどの精神力。
どれほどの使命感。
腹部に刺さったナイフを抜くと、そこから血が飛び出る。真っ赤なエプロンドレスは見る影もない。まるで貴婦人がまとうナイトドレスのように深紅。垂れ下がった右腕には血が伝う。指先にまで到達した血が床に滴っていた。矢を抜き、震える足に力を入れれば、傷口からさらなる赤があふれ出る。
迫り来る敵の刃に体を傾け、唯一動く左腕で敵の顔面をわしづかみにする。そのまま床に後頭部をめり込ませ、息の根を止める。自らの血で作った紅い水たまりの中で、うるわはなおも戦い続けようとする。
「止めろうるわ! これ以上は止めてくれ!」
「何を……言うのですか? ……カレン? あなたはそんなことを言わないはずです……」
明らかに瞳はハルを映しているのに、うるわはハルをカレンと呼ぶ。
意識がもうろうとしているのだろうか。
感情の光を灯さない瞳が、まぶたにふさがれそうになる。ふらふらの体をそれでも戦いに駆り立て、敵をなぎ倒していくうるわ。周囲で亡者のように迫る敵と似た揺らめく動きで、敵に迫っていく。ハルは攻撃も回避もないがしろにして、うるわに走り寄る。
兵士に殴られようが、蹴られようが、構わない。血を流すメイドの下へ。一歩でも、一秒でも早く。
「うるわ、もういい! もう止めてくれ! これ以上は……!」
うるわの腕を取り、先ほど兵士を蹴り落とした窓際に退避する。うるわをかばうように抱きしめ、覚悟を決めた。
その感触をわずかだが感じ取ったうるわが、顔を上げる。淀んだ瞳がうるわの力の限界を如実に表していた。
「カレン……あなたらしくありませんと先程も……あ、いえ……ハル?」
淀んだ瞳が一瞬だけ晴れ、ハルであることを認識する。いまだ戦おうとするうるわが身じろぐ。
そのうるわの意志には従わず、ハルはうるわを抱え、雨の空に身を投げた。