第三話・「測定不能!」
「怒ってるよな?」
「ああ、怒ってる」
昼休みを迎えるころには、ハルの機嫌は最悪を迎えようとしていた。頬杖をつき、眉根を寄せて、メトロノームのように指でとんとんと机を叩いている。
「間違いない、背後に鬼が見えるぞ」
「犯人はやっぱり……」
「前の時間であんなことをしたらさすがのハルでも……な」
遠巻きに観察するクラスメイト達。窓際最後尾に座るハルの机から、半径十メートル以内に着席している生徒はいない。つまり、ほとんどの生徒が教室の外。皆がドアの外に退避し、廊下側の窓やドアの隙間から恐る恐るハルをうかがっている。
「何とかしてよ、男子」
「こ、こういうときこそ女らしさの見せ場だろうが」
「あー、そういうの男尊女卑だー」
「最近はもっぱら女尊男卑と聞いているぞ」
教室の外で会議するクラスメイトを無視して、ハルは空中をにらみ付ける。伸びた前髪が今にも逆立ってしまいそうだ。目つきのせいで普段から機嫌が悪いと勘違いされているハル。そのハルが実際に頬を強ばらせて、体中に怒りをみなぎらせている。
「仕方がないわね、ここは私が行けばいいんでしょ?」
クラスメイトでさえ簡単には近付けない状況の中で、クラス委員長である南条こずえが大股でハルに向かっていった。
「さすがクラス委員長様!」
「南条大明神!」
口々に歓声を上げる男子。しかし、声量は虫が鳴くようにとても小さい。
「こずえ……アンタの骨は私が残さず拾ってあげるからね」
「あなたの背中、あなたの勇気、私、一生忘れない」
目元を拭う女子多数。両手を合わせて祈るものもいる。
「ハル、ちょっといいかな?」
外巻きの髪を揺らしてハルの前に立ったこずえが、ハルの机に手をついた。
「ハルが怒るのも無理はないと思う。私だって、いきなりあんなものを見せられたら、怒りたくなるよ。まさに青天の霹靂。あ、私ね、一度でいいから日常会話で青天の霹靂って使ってみたかったんだよね。理知的な感じがするでしょ? するよねー……ははは」
委員長の言葉にリアクション一つ見せず、怒りをみなぎらせるハル。
「ハル、その……あれよ、あれ! 一事が万事塞翁が馬って感じ。実はこの言葉も言ってみたかったんだー……というわけで、人生の幸とか不幸とか、明日雨が降るとか槍が降るとか、そういうことは予測不能なの。誰にも止められなかったし、予知できなかったってわけ。ハルが怒るのは無理もない。無理もないんだけど、そこはほら、兄の兄たる寛大さというか何というかでね……」
委員長は言葉の先を見失って、思わず教室の外で様子をうかがっているクラスメイトを顧みる。
た、す、け、て。
視線と、口をぱくぱくさせる二つの手段で救援を要請した。それを見たクラスメイトは、一糸乱れず全員で大きなバツ印を作っていた。とんだマスゲームである。
こんな時だけ協調性があるんだから!
委員長は思わず中指を突き上げたくなるのをこらえた。
息を大きく吸い込んでハルに向き直る。
「ええと、ハル? ハルが怒っているのは私にも分かるわけで、私が分かっているってことはクラスのみんなも分かっているわけで。……えーと、確かに、確かにマキはやりすぎたと思うよ? やり過ぎというか、まさかあんな風になるとは思っていなかったというか……」
腕を組んで考え込むこずえ。肺の奥から自然にため息がこみ上げる。
こずえ自身もいまだに信じられない。
思い出せば思い出すほど夢であったのではないかと思えてしまう。
昼休みを控えた四時間目の体育の時間。
そこで事件は起こった。
○○○
本日の体育は体力測定。
全員がジャージに着替えてグラウンドに集合、わいわいがやがやと談笑しながら準備運動、柔軟体操をする。体育教師のホイッスルで測定場所に呼び寄せられ、測定の仕方が説明されていく。体育教師のデモンストレーションを終え、いざ測定開始。
最初の測定はハンドボール投げだった。
出席番号順につつがなく測定が進み、マキの番。
「ふふ~ん、お兄ちゃん、見ててねーっ!」
ボール投げのサークルに入り、ぐるぐると腕を回している。
「思いっきり投げるからねー!」
元気いっぱいなマキ。
彼女が死んでしまったというニュースは、学校中に深い衝撃を与えたが、蘇ったというニュースは死んだというニュースほど衝撃を与えたりはしなかった。世の中は意外に鈍感で、簡単にマキの復活を受け入れている。
最近、世界中から集められた奇跡映像をオンエアする番組が増えているせいだろうか。
こずえは帰ってきたマキを見て何気なくそう思った。クラスメイトのみんなも、そんな感じに捉えているのかもしれない。両手でメガホンを作って、マキの背中に思い思いの声援を送っている。
「マキー、張り切りすぎて転ぶんじゃないよー!」
「マキちゃん頑張ってね!」
体育教師から手のひら大のボールを受け取ると、高らかにホイッスルが鳴る。マキは真剣な表情で大きく振りかぶった。
……そこまではよかった。そこまでは。
ボールをリリースする瞬間、ボールを持ったマキの腕がクラスメイト全員の視界から消えた。次いで訪れるのは、マキを中心にして発生した突風。
グラウンドの砂埃が巻き上げられ、周囲で足をたたんで座る生徒達の顔にたたきつけられる。
砂埃の中でマキを見れば、投球動作を終えて満足そうに胸を張っていた。手でサンバイザーを作って、呑気にボールの行方を見守っている。
ボールはといえば、遙か向こうに見える校舎の屋上、貯水タンクを突き抜けて、どこか遠くへ消えてしまったようだ。こずえは我が目を疑いながら、ヒーローに殴り飛ばされた悪役が星のようにきらりと輝いて消えていくアニメを思い出していた。
貯水タンクから大量の水がこぼれ出す光景。
体育教師の口から、くわえていたホイッスルがぽとりと落ちた。
「そ、測定不能!」
大声で競技終了を告げる体育教師の声と、頭痛のあまり頭を抱えるハルの顔が印象的だった。
次の測定種目は、五十メートル走。
四人一組で並び、ホイッスルと共に全力疾走というシンプルな測定方法。いまだクラスはざわめきの中だ。誰もが口々に先ほどの大遠投に目を丸くし、身振り手振りで興奮を伝えあっている。
「信じられないのは私の方よ……でも、負けられない」
こずえは五十メートル走には自信があり、常にクラスでは一番だった。実はハンドボール投げも、その他の測定もクラスでは一番。今回も去年の自分を越えて、なおかつクラス一番が目標だった。圧倒的な大差で出鼻をくじかれたにもかかわらず、こずえの瞳からはやる気は失われていない。
意気込むこずえの隣では、先ほど測定不能の大投擲を見せたマキが、ハルに手を振っていた。
「お兄ちゃ~ん、マキは頑張ります!」
手を振る先を見れば、ハルが眉をぴくぴくさせている。かなりいらだっているのは端から見ても明らかだった。
そんなハルには失礼だとは分かっていたが、こずえはなんだかくすりと笑ってしまいそうになる。
「位置について!」
体育教師が白い旗を頭上に掲げた。気持ちを引き締める。白い旗が振り下ろされたときがスタート。こずえらスタートラインに立つ四人に緊張が走る。ちらりと隣をうかがえば、真っ直ぐな目でゴールを見据えるマキがいる。
負けられない。
こずえは力をみなぎらせ、爆発の時を待つ。
「――スタート!」
振り下ろされる白旗。戦いの幕開け。
こずえは思い切り腕を振る。加速への第一歩を踏み出したとき、隣で何かが砕ける音がした。こずえが音の正体を探るよりも先に、体の側面を横殴りの風が襲った。転んでしまうかと思うほどの強風の中でも、こずえは何とか耐えて走り続ける。
「ゴール!」
まだ半分も走らないうちに、ゴールからあがるマキの勝利宣言。腰に左手を当てて、右手には大きなVサイン。クラスメイトの視線のほとんどが、スタートしたばかりのこずえ達を眺めていた。しかし、マキの声が信じられない方向から聞こえてきたので、クラスメイトは一斉にゴール地点を見る。まるでホームストレートを駆け抜けるレーシングカーと、それを目で追う観客の構図。
「お兄ちゃん! 見ててくれましたか? マキの活躍っ!」
ウサギのようにぴょんぴょんと跳びはねながらハルに大手を振っている。タイムを計っていた生徒は開いた口がふさがらないようで、今頃あわててストップウォッチを押していた。走るのを止めたこずえが、ふとスタート直後に気になった音を思い出して振り返れば、マキが立っていたスタートラインには、第一歩を記す足形が残っている。それはまるで固まる前のコンクリートを踏んでしまったように、あるいは月に足跡を記したアームストロング船長のそれのように、くっきりとへこんでいた。
体育教師が、持っていた白旗をぽとりと地面に落とす。
「そ、測定不能!」
それからも、目を疑うような光景は続いた。
持久走では非公式ながら世界新記録を軽々と更新し、空を飛ぶような走りを見せたかと思えば、懸垂では授業が終わるまで延々と続けようとし、幅跳びでは砂場を軽々と越えて体育用具室の屋根に着地してしまった。
「そ、測定不能!」
なにか人間という枠を軽々と超えてしまったマキの測定結果に、こずえは笑うしかなかった。授業が終わる頃にはなぜかクラス中がそんな違和感に慣れ始めてしまって、まるで手品でも見せられているように、拍手喝采の嵐。
次は何が飛び出すのか。
マキの測定にわくわくどきどきして、順番を譲るものまで現れてしまう始末。
「マキちゃん! 握力測定しようよ!」
「やめとけ、握力計がつぶれるだけだぞ。ここはやっぱり地味に立位体前屈だろ? どうなるか気になってしかたがない」
「体力測定はやめて、陸上十種競技なんかどうかな? 全種目で世界新記録を樹立したりして」
「お、それナイス!」
授業はそうして脱線し、思ったよりも楽観的に自然消滅していったのだった。
たった一人、怒りで我を失いそうになる人物をのぞいては。