第三十八話・「会いたい」
鋼の巨人が、音階の低い汽笛のような咆哮を上げた。大気が震え、周囲のビルが振動する。周囲のビルに及ぶかというほどの巨人。その雄叫びは、まるで衝撃波だ。
と、同時に体に見合わない素早い動きで、拳が振り下ろされる。
「うるわ!」
直後に体に見合う轟然たる力が、地面をとらえた。
地面に巨大な拳がめり込む。攻撃は避けたものの地面が上下に振動し、体が跳ね上がる。ハルとうるわは、足下をもつれさせながら、近くの新築ビルの中に転がり込む。中央が吹き抜けになっていて、そこにエスカレーターが交互に敷設された作りになっている。エレベーターは向かって正面。ハルは、うるわ同様、構造を頭にたたき込もうとする。
「ハル、こっちです!」
うるわに腕を引かれて、走り出す。背後では、巨人の足が正面玄関に入り込んでくるところだった。
自動ドアが左右に開く。
それを無視して、巨体はガラス張りの玄関口ごと破壊して侵入してくる。
「……礼儀知らずだな」
「ええ、まったくです」
その巨体のせいで、立ったままビルの内部に侵入できず、四つんばいになって迫り来る。エスカレーターに向かう二人を捕まえようと、鋼の手のひらが突き出された。捕まったらひとたまりもないだろう。ミニトマトを握りつぶすように、鋼の拳から体液がしみ出すのがオチだ。うるわとハル、左右によけることで手のひらから難を逃れた。
ハルは背筋がぞっとする想像を抑えて、エスカレーターを駆け上り始める。しかし、ハルはちっとも上には行けないでいる。
「ハル! そちらは下りです!」
「そう言うことは、早く――!」
肩越し。ハルは、巨人と目があった気がした。
恐怖にすくみ上がる足を叱咤して、上り始めて間もないエレベーターの手すりを飛び越える。背後では今いたエレベーターが、手すりごとたたきつぶされていた。配置された観葉植物がぺしゃんこになり、ごみくずへ。ハルはうるわが待つ上りのエレベーターに足をかけると一気に二階へ到達する。
「どうするんだ!? これから!?」
「ゲリラ戦です」
鋼の巨人が体を玄関ホールに押し込んでくる。凶悪なまなざしがハルとうるわの背中をとらえた。逃げる獲物を悔しがるように、ひときわ高い雄叫びを上げる。
叫びの波動が玄関ホールのガラスにひびを入れた。悔しさを力に変換するように、二階から非常階段を駆け上ろうとする二人を、巨大な拳でつぶしにかかる。
「二人とも逃げるつもり? でもそうはいかないんだよね」
四つんばいになって玄関ホールを占拠する巨人。その肩の上で、ハチが笑う。そして、楽しそうに巨人の顔に手を触れたとたん、巨人の首の関節がよじれ、玄関ホールに落下した。巨大な鉄仮面は床にめり込み、受付カウンターを圧壊する。内線電話の受話器が、ぶらぶらと鉄仮面の隙間にぶら下がっていた。
……しかし、受話器は何者かによって握りつぶされてしまう。
「よっと」
ハルが首を失った巨人の肩から飛び降りると、ホールにはすでに百を超える鋼の兵士達がふらふらとたたずんでいる。鋼の巨人をそのまま小さくしたような姿の兵士達だ。その内の一人が握りつぶした受話器の破片をつまらなさそうに地面に捨てていた。加えて、兵士全員が手に手に武器をたずさえている。ある者は剣、ある者は戦斧、ある者は長槍、ある者はボウガン、銃剣、ショーテル(湾曲刀)、日本刀、そしてまたある者はモーニングスター(殴打用の棍棒で、鎖でつながれた球状の先に棘を付加させたもの)という特殊な武器すら持っている。その武器形態はやはり古今東西に渡り、何らの統一性も見いだすことは出来ない。彼らは亡者のように上体を揺らして、武器だけをしっかりと握りしめている。いつのまにか巨人の首はなくなっていた。どうやら、巨大な鉄仮面が液体金属に還元され、分裂し、再構成した果てが兵士達らしかった。
「大は小を兼ねる……よく言ったものだよね」
酷薄な笑みを浮かべるハチ。数え切れないほどの兵士達が、我先にと階段やエレベーター、エスカレーターに殺到していく。おぞましい光景だった。敵味方の概念もなく、味方を踏みつぶしてでも我先にとハルとうるわを追っていくのだ。生者を食らおうとする亡者の群れ。それは三流映画で見る生ける屍、ゾンビのようであった。血みどろに黒ずんだ鋼の鎧を鳴らしながら、階段を上っていく。ハルとうるわを食らわんとする亡者の包囲網が完成しつつあった。
「早く、お父さんに会いたいなぁ……。この目でお父さんを見たいよ」
血なまぐさい機械仕掛けの兵士達を横目に、ハチは割れた床に未来図を投影した。瓦礫が積もった玄関ホールに入り込んでくる風が、スーツの裾を、えりが立ったワイシャツを揺らす。未来図を思い描きながら、透き通る銀色の髪をそよ風と遊ばせる。
それだけを見れば、甘えた盛りの少年そのもの。
「声でしか知らないお父さん……僕を作ってくれた人……会いたいよ」
瞳に憧憬を宿し、軽やかに舞い上がる。四つんばいになったまま活動を停止している巨人の肩に座り込み、拳を握りしめる。
興奮。
もうすぐ手にはいるという興奮。
夢を見ない古代兵器でさえ夢に見た。本来の、プログラムされた《彼岸》の守護という責務を放棄してまで、自分の存在証明を捨ててまで、ハチは記憶領域に抱き続ける。
声でしか知らない父への思慕。
「《彼岸》があれば、《彼岸》さえあればそれが叶うんだ!」
強く、さらに強く、拳を握りしめる。
「そのためにはまず、ハルから《彼岸》を引きずり出さなきゃ。まずはそれから。誰にも邪魔はさせないんだ。そのための力もある。お父さんが、僕のためだけにくれた、この力が。会いたいよ……僕は誰よりも、お父さんに会って、そして――」
瓦礫の山から小石が転がり落ちる音。
ハチのセンサーが移動物体を感知する。
「……パパに会いたいの? ハチ」
「ん?」
巨人の肩から見下ろすハチ。
「パパはもういないよ?」
声の主は、スパッツに、ジャージの上着という出で立ち。ラフな姿は瓦礫が積もるこの場所には不釣り合いだ。ショートボブほどの短い黒髪と、小さな背丈。くりくりとした黒い瞳が、ハチの紅い瞳を見上げている。
「そうだね、確かにそうだよ。でもね、僕はそれでもお父さんに会いたいんだ。それが例え《彼岸》を使うことになろうとも。君も会いたいよね? ……ナナ?」
ハチの言葉に、こくりと頷く。
八番目の《人機》ハチに賛同するのは、七番目の《人機》ナナ。
「ナナも、会いたい」
壊れた玄関ホールに差す光が弱まり始める。
逃げ場を失った太陽が、雲に遮られる。鈍色に汚れた雲が泣いていた。内部で雷が発生し、雲の表面から飛び出す。
雷鳴と電光。ヨハン・シュトラウス2世が作曲したそれのように激しく、それでいてけたたましく、世界に轟音をとどろかす。
「ナナも、パパ、好きだった」
「そっか、よかったよ」
町中が闇に包まれた。今、太陽はあるべき場所にはない。分厚い雲の裏側に幽閉されている。
再びの雷鳴。まるで赤ん坊のように、轟音に驚いた空が泣き始める。
――ぽつり、ぽつり。
二人の古代兵器が見つめ合う中で、雨はゆっくりと世界を濡らし出した。