第三十七話・「私の主人に仇なすものは」
とっさに体が動いたのは奇跡といっていい。
目がくらむような光に遅れて、音が届く。銃弾、銃弾、絶え間ない銃弾。薬莢を噴水のようにまき散らしながら、蜘蛛が砲台に変わる。四本の足を地面にしっかりと固定し、発射の反動に耐える。照準は、ぶれるどころかハルの背中をとらえつつある。緋色の弾丸が、アスファルトを蜂の巣にした。命を削り取られるような錯覚。死が迫ってくる恐怖。ハルは通りを駆け抜ける。ハルの走った後は惨憺たるもの。ハルが街路樹の脇を通り過ぎれば、街路樹が銃痕でなぎ倒され、車の隣を通り抜ければ、給油口を直撃して爆発炎上する。
コンビニの自動ドア。
不動産屋の自動ドア。
旅行代理店の自動ドア。
ガラスは共に粉々。中では伏せておびえるツアーコンダクター。
「……っ、くそっ!」
なおも、銃弾の斉射はとどまるところを知らない。正確性を増す銃弾がハルの脇腹をかすめた。ハルの脳裏に絶望の二文字が浮き上がる。
「私の主人に仇なすものは」
救いは天空から現れた。
「――壊れなさい」
表現としては単純明快。エプロンドレスが、高空から落ちてきた。隕石のような加速を伴ったそれは、跳躍力と重力加速度を味方につけている。
ハチの追撃をかわしながら、ハルとの距離を目測で判断する。足下にした自動車が爆発する煙に紛れて、一息で跳躍。ガードレールを歪ませる跳躍力は、常人の蚊帳の外に位置する。ビルの壁沿いに舞い上がり、さらに看板を手がかりにして腕力だけで体を空に舞いあがる。舞い上がったまま体勢を逆さまにし、今度はビルの強化ガラスを蹴って直下へ。ガラスに蜘蛛の巣状のひびを走らせながら、そのままの勢いで蜘蛛の背中に強烈な打撃をたたき込む。
蜘蛛の背中がくの字に折れ曲がった。
さらにうるわは、無表情のまま、蜘蛛の背中についていた銃砲を力任せに引きずり出す。配線がちぎれる音、鉄板が曲がる音、あるいは裂ける耳障りな音。それにもうるわは眉一つ動かさず、引きはがした銃砲を乱暴に捨て去る。油圧式だったのだろうか。蜘蛛の駆動部から真っ黒な油が噴出する。それはまさに蜘蛛の鮮血だ。蜘蛛が発する断末魔。
それはハチの一言によって遮られる。
「あはは、強い強い! 人間にしてはやるよね!」
両手に持っていた大鎌を体内に戻して、両手を大きく横に広げる。
「それは負け惜しみですか?」
「何を言ってるの? まだ、うるわの剣は折れていないでしょ?」
「ええ、折れるどころか研ぎ澄まされていますが」
蜘蛛の背中の上で大胆に宣言する。
「そうこなくっちゃね。この戦いが終わったとき、その研ぎ澄まされた剣が折れたとき……うるわは一体どんな顔をするんだろうね? 無表情でいられるのかな? 悲しみに歪むのかな? 命乞いをするように媚びるのかな? それともやっぱり最後まで無表情のままかな?」
「答えましょう、ハチ。あなたが倒れた後の私は、無表情です。主を守護することが最優先、そこには勝利の余韻すらありません」
頬に付いた油を丁寧にハンカチで拭う。
「これは、ただ単に、主に降りかかる火の粉を払うだけの作業です。肩についたゴミを払うことと同等。それ以上でも、それ以下でも――」
「いや、違う……」
ハルが折れた街路樹に手をついている。
「笑顔だ。うるわは笑う。笑わせてみせる」
うるわが無表情と言われるのが悔しくて、ハルは声を振り絞っていた。悔しさがそうさせるのか。息を切らしていた体が活力を取り戻していく。
「決まりだね。うるわの表情を賭けたゲームの始まりだよ」
手を広げたまま、ハチが大きく息を吸い込んだ。ハチを取り巻く周囲が震え出すのが分かる。スーツの裾が揺れ、立てたシャツのえりが揺れる。銀髪は波打ち、紅い目は爛々と輝く。地面に散らばった破片が震え出している。
「ハル、賭はあなたの負けかもしれませんね」
蜘蛛の背中から飛び降りたうるわが、ハルの隣に並ぶ。
「私は表情審査で零点だったのです」
自嘲するような無表情。そこには自慢など無い。
「…………このカレンダーを破ったのは誰だ。カレンだー」
「……」
「うるわ、俺このいらなくなった本、売るわ」
「……」
「マキが、薪割りをする」
「……」
うるわがあっけにとられた顔でハルを見た。
ハルは鼻をかきながら頬を強ばらせている。
「笑えよ」
「笑えません」
「……面白いだろ」
「面白くありません。ハルは面白いと思うのですか?」
「……いいや、ちっとも」
二人が見つめる先は、共に敵である《人機》。ハチが吸い込んだ息を吐くと、大地が共鳴するように揺れ出した。少年のような体躯とは見合わない力の胎動。それを目の当たりにしながらも、ハルとうるわは静かに冗談を交える。
「そうです。面白くありません。それどころか、カレンの怒る様子が目に浮かびます。……でも、不思議です。なんだか、笑えそうな気分です」
うるわが隣にいることで頼もしさを感じるハル。カレンも、いつもこんな感覚を味わっているのだろうか。マルチメディアビルで自分の後先を考えないで力を駆使したのも、こんな感覚が日々の自分をおおっていることを知っているからではないのか。
ハルは未知の恐怖に震える体を押さえつけた。
ならば、なおさらだ。格好悪い自分を、メイドであるうるわに見せたくない。
そんな上辺だけの見栄でも、力に出来そうだった。
「笑えそうな気分……か。だったら賭は俺の勝ちだな」
「ええ、そうかもしれませんね。でも、そのときは……あなたも笑ってください、ハル」
二人の前方。力尽きようとしていた機械蜘蛛が液体金属に戻っていく。それに連動するように、うるわによって引き裂かれ、投げ捨てられた配線、砲門、その他部品の数々も液体に戻っていく。それは素早く互いに寄り合わさり、溶岩のように気泡を発し始めた。
「それこそ、賭は俺の勝ちだ。俺に笑顔なんか作れるか」
力をみなぎらせたまま、ハチが銀色の溶岩に近づいていく。炎をまとうようにハチの周囲に陽炎が発声する。一歩一歩、歩く度に景色が乱れた。
「……でも、不思議だ。俺も……なんだか笑えそうな気がする」
虫の鳴くようなハルの声を、うるわは心に刻む。
メイドである以上、主の微笑みほど嬉しいものはない。カレンの笑顔も、ハルの笑顔もそう。ハルに話した昔話。そこに登場する少女が出会った一人のメイドのように、主の微笑みを自らの嬉しさに変えること。
それが、うるわのメイドとしての原点。
「ふふん、行くよ二人とも? 今度のはさらに難易度が高いからね。おしゃべりしている暇なんてないよ?」
唇をつり上げて、美少年は笑った。
「行くよ、僕の欠片。今度はもっと強くなるんだ」
少年が溶岩に触れた瞬間、まるで間欠泉ように溶岩が天へ吹き上がった。少年の袖もとから大量の金属が流れ込んでいる。
ずるずる、ずりずり。
スーツの袖は裂け、そこから古今東西の武器や兵器、機構が溶岩に飲み込まれていく。
びちゃびちゃ、ぐちゃぐちゃ。
壮大な擬音とともに液体金属が成長していく。
まるで食べ物を与えて太らせるように。蜘蛛のなれの果ては、その巨体をさらに増長させていった。銀色の巨体が作り出す影が、ハルとうるわをおおっていく。
影は恐怖を萌芽させるための栄養分。さらに大きさは増していく。
「上手くできた方かな」
指を鳴らしたハチが、二十メートル以上はあろうかという銀色の巨体に手をついて、誇らしげに見上げる。両手、両足、その他全身は鈍色の鉄骨に鎧われ、頭はフルフェイスの鉄仮面をかぶっている。仮面の中には紅い光がたたえられており、口元からは生暖かい吐息。それはまるで血を求める狂戦士。古代中世、戦場で朽ち果てた騎士を思わせる風体は、禍々しさに溢れている。威風堂々とはほど遠い粗野な鎧と、精神を病むような低い呼吸音が駆動音に混じりながら、ハルの鼓膜を刻んでいく。
「ハル、合図と同時にビルの中へ。相手に真正面からぶつかるのは愚の骨頂です。本体はハチなのですから」
「ああ、指示は頼む」
「分かりました、ハル。最大の犠牲心を持ってその期待に応えます」
構えた体は動かさず、口だけでやりとりする。
「さ、第二ラウンドの始まり」
ハチが楽しそうに主とメイドを指し示す。