第三十二話・「心の隙間」
マルチメディアビル崩壊事件から、一週間が経った。
紙面もその事件ばかりで削っていられなくなり、日を増すごとに減っていった。今ではほとんどのメディアが大物政治家の収賄事件をトップニュースにしている。
「……何をやってるんだ、俺は……分かっているのに」
ハルはマキの部屋の前に立ち、扉をノックしようとする手を止めていた。自嘲するようにきびすを返し、階段を下りていく。
「あいつ……もう一週間だぞ……どこにいったんだよ」
マルチメディアビル崩壊事件は、崩壊の規模に反して、けが人が数人という奇跡的なものだった。もしこれで何百人という人命が失われていれば、もう少し事件は長引いたのかもしれない。
加え、おそらくはカレンやうるわがしばしば口にする、上層部、とやらが沈静化をはかったのだろう。事件は驚くほど簡単に原因究明がなされ、あっと言う間に集束していった。
「ハルー、ハルー」
事件の当事者の一人が、ぱたぱたとかけてきて、ハルの懐に飛び込んでくる。
「ナナね、カレンに勝ったの!」
ティーシャツに短パンという活発的な出で立ちがハルの胸の中ではしゃぎ出す。
「……そうか、それは良かったな」
花咲くような笑みをたたえて見上げられるが、ハルはその喜びを分かち合う気にはなれない。ナナの喜びとは別の次元で、心の奥に何かが引っかかっているようで気持ちが悪かった。
「待ちなさい! このポンコツ兵器! いい? 手加減してやったのよ! アンタの勝ちじゃないんだからね!」
勢いよく客間から飛び出してくる。
フリルのついた黒ワイシャツと白いレースが縁取る黒のミニスカート。相変わらずのゴシックロリータはカレンだ。手には無線のコントローラーが握られており、慌てていたのか眼鏡がずり落ちている。カレンはブリッジを持ち上げて焦点を正すと、コントローラーをナナに突きつけた。よく見れば、ナナの手にも同様のコントローラーが握られていた。
「勝ったのは一回じゃないもん! 三連勝だもん!」
「ふん、私が本気になればアンタなんて、こてんぱんのけちょんけちょんでスクラップで粗大ゴミ送りなんだから、身の程を知りなさいよ、身の程を!」
耳をすませば客間からはスタジアムの歓声がもれ聞こえてくる。どうやら流行のサッカーゲームに興じていたようだ。試合後の実況によると五点差をつけられての大敗らしい。
「それに、チームによって力の差があるんだから。ポンコツ、アンタは手加減されているってこと自覚しなさいよ」
「それでもナナの勝ちだもん! 三連勝したもん! ハルー、カレンが見苦しい言い訳するよー、大人げないよねー?」
「ああ、悔しがってるんだろ? カレンは負けず嫌いだからな」
「ばっ、馬鹿言ってるんじゃないわよ! アンタ私の、真の、実力を知らないわね?」
真の、にアクセント。
「それなら、知ってる。ナナより弱いんだろ? うるわは一番上手いし、俺はその次だ。一番弱いのはカレン。改めて勝負するまでもないな」
「ふふ……ふふふっ……アンタ達まとめてあの世に送ってやるわよ」
スタジアムの歓声に混じって、壁をひっかくような風切り音が聞こえ始める。カレンの髪の毛がふわりと揺れ、肌をぴりぴりとした緊張が包み始める。
「にゃ? カレン、やる気? だったらナナも負けないもんねっ!」
ハルをかばうようにして前に出ると、くるりと一回転。モザイク画像のようにナナの服装が乱れたかと思うと、直ぐに黒いレザースーツ姿に変身……はできなかった。
「にゃ? ……セーフモードで起動してるの忘れてた」
「やっぱりポンコツね」
「むむぅ……ドーピングしなきゃ勝てないくせに~っ!」
牙をむき出しにして、挑発しあう二人。カレンに熱がこもる度、風切り音は加速し、フローリングがへこみ、壁にかすり傷をつける。
「まだ体調は万全とはいかないけど、このままでも十分余裕よ」
「にゃっ! それは負けたときの言い訳だねっ!」
カレンが巻き起こす風の余波が、ハルの前髪を巻き上げる。ハルはそれをまるで他人事のように黙って眺めている。家の内装が傷つこうが、汚れようが、特に気にならない。
それは、不思議なことだった。
「――馬鹿ですか、あなたたちは」
炸裂したのはげんこつだった。木魚を叩くような二回の盛大な音のあとには、屍が二人。カレンは頭を抑えてうずくまり、ナナは頭から煙をあげて伸びている。
「……メイドが主人に暴力振るうわけ?」
「何度言っても聞かない主人には愛の鞭というものです」
「……ふにゃあ……ハルが二人に見える……視覚が故障したかも……」
「ナナもカレンを挑発するのは止めてください」
無表情のまま腕を組んで、はいつくばる二人を見下ろす。これでは誰が主人で誰がメイドなのか分からない。
「ハルも……二人を止めていただかないと困ります」
「悪い、うるわ……」
うるわの目に、どこか寂しそうに謝るハルが映り込む。上層部の特命で取り付けられた一時的な主人は、どこか不器用でぶっきらぼうな反面、小さな優しさに溢れていることを知った。ただ彼は、それを素直に表に現せないでいるだけ。
「俺がそうしなくても、うるわが止めてくれると思ってた」
そんなハルが、ふいに寂しそうな一面を見せるときがある。今がそうだ。長い前髪の隙間からのぞく、曇った瞳。まるで彼自身、過去に大事な物を置き忘れてしまったかのように。うるわはときどきハルの寂しそうな姿を見つけるにつけ、自身でも不明の衝動に駆られてしまうのを感じていた。外敵からハルを守る以外、何ができるかも分からないのに。
その度にうるわは戸惑う。
「……わ、私は忙しいのです。余計なことで労力を使わせないでいただきたいものです」
無表情がかすかに崩れる。うるわはその場から逃げるように話を中断させた。
「掃除の邪魔です、お二人とも。こちらで納得がいくまで勝負なさって下さい」
エプロンドレスにはかすかな汚れ。ポケットにはたき、廊下にぞうきんが置いてあることからも、どうやら掃除中だったようだ。
うるわはカレンとナナの首根っこをむんずとつかんで、荷物よろしく客間に引きずっていく。うるわに乱暴に引きずられながらもいがみ合う二人は、結局最後までコントローラーを手放さなかった。
「ちょっとナナ! そのチーム使うの反則よ!」
「いいんだもん! ナナが使いたいんだもん! カレンはナナに負けるのが怖いからそんなこと言うんだ」
「ば、馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ! そんな金満主義チームなんてね、格下のチームで葬ってやるわよ。時代は生え抜き、たたき上げ! 後で吠え面かくんじゃないわよ!」
客間からは騒々しい声の応酬が聞こえ始める。
「今のどう見てもファウルでしょ!? 何で流すの審判っ! レッドカード出しなさいよ! レッド!」
「……ニヤ。……ナナの時代――にゃ!」
客間から、ゴールを告げる高らかな実況の声。
「馬鹿じゃないの!? キーパー! それぐらい死守して見せなさいよ! 男でしょ!? 私だったら止めてるわよ! そんなへなちょこシュート!」
ハルは客間の喧騒にため息をつきながら、自室に戻ろうとする。
「ハル」
客間から出てきたうるわがハルを呼び止めた。ハルはうるわを振り返り、無表情を見つめる。
「マキと何かあったのですか? この家に来てから、彼女の姿を見ていません」
「別に、何もない」
話は終わりとばかりに、階段を上ろうとする。
「ハル……お許し下さい。私はあなたのことを色々と調べなければなりませんでした。現状、過去……その他色々なことを」
うるわの平板な声が揺らぎを伴う。それは表情にも現れ、無感情に苦しさという歪みが生じた。
「マキは、一度この世を去っているのですね」
「……」
「ハルが《彼岸》を起動させたのは、マキを――」
「うるわ」
そのあまりにも冷たい声に、うるわの肩が震えた。ハルと一つ屋根の下で生活を共にするようになってから、一番温度の低い声だった。
「うるわには、関係ないだろ」
築き上げてきたと思った物が全てかりそめのもので、それがかりそめであると白日の下にさらされ、挙げ句の果てには瓦解していく。うるわが感じた冷たさは、拒絶と言えるものだった。
「ナナの勝ちー! 四連勝!」
「て、手加減! 手加減したのよ! 私は大人なの、アンタなんかに負けたって、ポンコツなんかに負けたって……悔しくなんか、悔しくなんか……!」
「にゃ、ハルに報告しに行こうっと!」
「……待ちなさいポンコツ。黙ってコントローラーを握りなさい。今からアンタが待ちに待った私の隠された力を見せてやるわよ!」
「にゃう……カレンは、もう何も隠してないような気がする」
別世界のように明るい風が、凍り付くようなハルとうるわの間を流れていく。あまりにも対照的な世界だった。うるわには、二人の間を流れる嬉々とした風が、そのまま二人を分かつ絶壁になっているようにさえ感じられていた。
「ハル……私はメイドです」
「ああ」
背中を向けたハルが、前髪で目元を隠す。
「メイド・イン・ジャパンという肩書きの無力さを今日ほど痛感したことはありません。私は、主を……ハルを助けられないでいる。それどころかハルを不快な気分にさえ」
「うるわには助けてもらってる。感謝をするのはこっちのほうだ」
階段を一歩、また一歩と上がり、ハルの体が遠ざかる。
……会話はそれで終わりかと思われた。
「ハルの心の隙間を埋めることはできないのですか?」
うるわは自分でも信じられないほど強く、エプロンドレスのスカートを握りしめていた。
うつむいたままのうるわの声。
切実に、真摯に。
二つの思いがハルを引き留めようとする。
ハルには、はっきりとその感情が聞こえていた。
「――待つのはもう止めましょう」
決意表明をするかのようにうるわが顔を上げた。
勇ましい足取りで、階段に足をかける。
「マキのことを考えているのでしょう?」
「……関係ないだろ」
階段をハルのいる高さまで上って来ると、ハルの手を取る。
「いいえ、あります、ハル」
「……」
「受け身ではいけないのです。少なくとも私はそう思えるのです」
おかっぱの髪を揺らして告げる。
「マキを探しに行きましょう。待っていても戻って来ないのなら、こちらから探しに行きましょう」
心の奥に引っかかっていたもの。引っかかったまま、いつかはそれが取れるだろうと待ち続けること。
確かにいつかは取れるのかもしれない。
……でも、取れないかもしれない。
マキが帰ってくることを待ち続けること。
やがては帰ってくるかもしれない。
……でも、帰ってこないかもしれない。
父と母が発掘調査で行方不明になり、愛猫のニャン太を失い、一度はマキさえも失った。幾度も訪れた悲しみ。それらをこらえ続けること。
いつかは悲しみも消え去るのかもしれない。
……でも、消えないかもしれない。
「行きましょう、ハル」
「メイドとしての義務感でそう言っているのなら――」
「違います。これは、うるわとして、です」
うるわの一途な瞳が鮮烈な光を蓄えていた。
そのまぶしさに、ハルは思わず前髪で表情を隠す。
昔からの悪癖。気がつけばそうしてしまう、都合が悪ければそうしてしまう悪習だった。
「さ、ハル」
うるわはそのハルの前髪を細い指で優しくかきあげ、頬に手を添える。
隠さないで、ハルはそう言われた気がした。
押さえ込まないで、抱え込まないで、そう言われた気もした。
勘違いかもしれない。勘違いだろう。
しかし、ハルはそれでもいいような気がしていた。
「行きましょう、ハル」
うるわの堅固な意思の瞳は、蒼穹に輝く太陽の如く。
「探しましょう、ハル」
まるでハルの瞳をおおっていた曇天を晴らすかのように。
「さぁ」
ハルを見つめ続けていた。




