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第二話・「愛情貯金なら無尽蔵です」

 制服に着替えたハルが階段を下りていくと、キッチンの方からいい匂いが漂ってくる。食卓にはすでに朝食が並んでいた。キュウリの浅漬け、大根の味噌汁という割と手間のかかる料理を鼻歌交じりに作ってのけるマキに、ハルは心の中だけで感心した。


「おはよー、お兄ちゃん」

「ふーん、その様子だとサンマを焼いてるのか。進歩はしているみたいだな」

「オフコース! いつまでも電子レンジで卵を温めるマキだと思ったら大間違いです! 大間違いったら、OH MUCH GUY!」


 いらっと来る感じだ。


「そ、れ、に! 成長しているのは料理の腕だけではありませんよ? 大事なところもきっちり女らしくなっていますし! 今のマキならお兄ちゃんのハートに火をつけることなんておちゃのこ……わわっ! 火が! 火が! サンマのハートに火がついたっ!?」


 キッチンの方から聞こえた悲鳴にだけ、そっと耳を閉じるハル。

 テレビでは人気キャスターの苦々しい表情と、コメンテーターのまくし立てる声がニュースの重大さを伝えていた。どうやら、都市郊外で発見された有名な遺跡で大規模なテロ行為があったらしい。

 事件の映像が断片的に放映され、大げさなテロップが画面上に現れては消えていく。


 ――そもそも政府の遺跡問題に対する楽観的な見方に問題があるのです。年間あれだけの予算をつぎ込んでいながら、今回の大規模な事件……国民に対して不信感を抱かせるには十分です。政府にはもっと毅然とした安全対策と、危機管理を望みますね。


 ――そうですね。今回の被害額は数十億円とも言われています。加えて、遺跡の管理に当たっていた警備員と、現場作業員、鎮圧にあたっていた特別編成部隊にも多数の死傷者が出ています。これに対して、今回の事件に対する遺跡管理局のコメントです。


 特に好奇心が沸くわけでもない。

 右耳から入ってきた情報が、左耳からすり抜けていく。

 ハルはイスを引くと、朝のけだるさと一緒に腰を落ち着けた。

 湯気が立ち上るつややかな白米の隣には、白いパックに入っている納豆。

 伊達兄妹の一日の始まりを告げる定番の献立。


「ふっふ~ん、兄ちゃん、おまたせっ」


 鼻歌交じりにことりとサラダボールを置くマキ。

 最後に食卓に上った一品は、新鮮な生野菜と、二種類のドレッシング。


「いただきます」


 息のあった声が二人だけの食卓に広がる。

 サラダはマヨネーズで食べるも、イタリアンで食べるもお好みで。最近のハルはもっぱらイタリアン。今日も今日とてお気に入りのイタリアンドレッシングを手に取った。自分の取り皿にサラダを盛りつけながら、どぼどぼとドレッシングを注いでいく。一方のマキはマヨネーズだった。


「なんか、最近は物騒なニュースばっかりだね」


 テレビを見ながら話しかけるマキに対して、ほどよく焼けたサンマの身を口の中に入れるハル。大根おろしと醤油が奏でる豊潤なハーモニーに、頬が喜び出すのが分かった。


「みたいだな」

「この事件、結構近く場所で起こってるんだよね?」

「ああ」


 頬が自然に喜びだしてしまうので、なんとか表情を押さえるのに必死になるハル。

 嬉しそうな顔をしたら、この妹は絶対に調子に乗るだろう。

 ハルはそんな危機感を持って、なるべく無表情を装い続けた。


「遺跡を狙った犯罪なら、マキの町も世界遺産級の遺跡がごろごろしてるし、大丈夫かな?」


 毎朝の牛乳にのどを潤して、ハルもマキの視線を追いかけた。

 荒れ果てた事件現場では、遺跡の復旧作業のめども立たないらしい。現地のレポーターがキープアウトと書かれたビニルテープの外で現地報告をしている。切り替わった映像には、横倒しのクレーン車や、倒壊した遺跡群が無惨な傷跡を残していた。


「まぁ、なんとか大丈夫だろ。俺たちが住む町は、政府直々に特別政令指定都市に認可されてる。何たって世界に誇る発掘都市だぞ」

「うん。……あ、綺麗な人がいる」


 ――邪魔、どきなさいよ。死体に群がるハイエナじゃあるまいし。


 テレビからの耳を疑う発言。いきなりの暴言に紛糾する現場。ハルがテレビに目を向けたときには、すでに声の張本人はフレームアウトしてしまっていたが、金色の髪が残り香のように映像の隅にかすめるのが見えた。


「むぅ……。お兄ちゃん、綺麗な人ってところに反応したでしょ?」

「してない」

「ねぇ、お兄ちゃん、金髪が好きなのっ!? お嬢様風味っ!? 気の強そうな子が好みなのっ!? さっきのテレビの子みたいなっ!? ねぇねぇねぇっ!」


 ヤカンのように沸騰したマキが、ばんばんと食卓を叩く。


「……(無視)」


 ニュースが伝える、遺跡を狙った原因不明のテロ事件。

 いまだ犯人が特定されているわけではないらしく、番組が元刑事をゲストに犯人のプロファイリングを始めていた。それによると、動機は近く開かれる遺跡に関するサミットを妨害、牽制するためらしい。近年活動を活発化するテロ組織の犯行である可能性が高い、と元刑事は目星をつけていた。


「誰が犯人であるにせよ、わざわざ捕まる危険を冒してまで、厳重なこの町の遺跡を狙ったりはしないだろうな」

「ああっ! お兄ちゃん、ずるい! 話を逸らした!」


 テレビに興味をなくして朝食を再開する。


(……俺たちがこうして呑気に暮らせるのも、親父達が頑張ってくれたおかげか。色々、大変な目にも遭わされたけどな……)


 小さい頃に父親に連れられて各国の遺跡を回った思い出が蘇る。

 白米から立ち上る湯気の向こうには、大けがをして大手術まで経験したハル自身がベッドに横たわっていた。

 毎日お見舞いに来てくれた妹の笑顔が、何よりも心強かった。

 口には出さずとも嬉しかった思い出がある。


「この町の施設はどれも最先端。年に一度にお金は振り込まれるし、観光名所にも娯楽にも事欠かない……なにより安全対策もばっちりだ」

「そうそう、あとはお兄ちゃんさえ私に愛を誓ってくれれば言うことなし、オールオッケー、万事順調、母体健康、生後良好だよ」


 向かい側から聞こえた明るい声が、ハルの思い出と、湯気を吹き飛ばした。


「子供の名前は何がいいかな? マキは男だったらハルキ、女だったらマキコが良いと思うのですがっ!」

「あり得なさすぎて、もはやどうでもいいんだが……」


 前言撤回。納豆をぐるぐる乱暴にかき混ぜながら、ハルは誓った。


「あ、ありえなっ……!? 淡泊すぎますっ! 二人の子供でしょう!?」


 納豆に付いている醤油のパックが思うように開けられず、少しこぼした。加えて、妹の納豆の糸のようなしつこさに、ハルの怒りのボルテージが上昇を始める。


「そうなんですね、そういうことなんですね? 認知しない気なんですね! 最低です! マキとのことは遊びだったんですね! 人でなし! ろくでなし! 意気地なし! 甲斐性な」

「死人に口なし」

「ぎゃうん!」


 直下型のチョップで黙らせる。あまりの勢いに、マキはテーブルに頭をぶつけている。


「い、いつからなのでしょう……この痛みが快感に変わったのは……マキってばなんてマゾヒスト……。あ、このキュウリよく漬かっていて美味しいです」


 テーブルに涙の川を作りなら、キュウリの浅漬けを頬張っている。


「そうです、言い忘れていましたが、共用のパソコンが壊れました」


 数秒前の涙はどこへやら。

 兄が相手をしてくれなくなると、とたんに別の話題を探し始める。


「……壊れた?」


 茶碗をとんと置いて渋い表情のハル。


「そうです。壊れました。使っていたら壊れたんです」

「壊したんじゃなくてか? 使っていたら壊したんじゃなくて?」

「日本語って難しいですね、マキもまだまだ勉強不足です、うんうん」


 まるで他人事。腕を組んでうなづく。何ともわざとらしい。


「マキ、貯金いくらあったっけ?」

「愛情貯金なら無尽蔵です。年中無休で引き落とし可能です。あ、もちろん振り込んでくれるのも歓迎です。手数料は少しだけマキのお願いを聞いてくれるだけでオーケーですよ」

「……」


 ハルは何も言わずに目をつぶって大きく深呼吸をした。まるで戦の前に精神統一をするように。目を開けたハルの瞳の中には、青く揺らめく炎。もちろん、それは妹マキにだけ分かる特大の怒りだ。


「あー、あー、なんというか……壊れたんじゃありませんね、壊したんでした。あはは~……マキってばうっかり。もちろんお金は責任を持ってマキが出します。いや、出させてください」


 血の気の引いたマキが、ネズミのように体を小さくさせてしっぽを巻く。


「よろしい、正直なのはいいことだぞ」

「当然です! マキは正直です! 素直です! だ、だからお兄ちゃん、放課後……放課後にマキと一緒に電気街で、デ、デート――」


 指と指をくっつけたり離したりしながら、体をもじもじさせる。愛玩動物のように上目遣いで兄を見やると、兄がちょうど箸を置くところだった。


「ごちそうさま」


 食べ終わった自分の食器を流し台で洗い始めるハルを見て、マキはハンカチで目元を拭う。


「うう……そんなリアクションの薄いクールなお兄ちゃんに、今日もマキは容赦なく惹かれていくのだった……まる」


 独白のような言葉を繰り返しながらも、マキは今日も兄が朝食を残さず食べてくれたことに胸を温める。

 無表情だけれど、一定のペースで黙々と手料理を食べてくれる。好き嫌いなく、バランス良く箸をつけてくれる。マキだけに任せず、洗い物を手伝ってくれる。時々見せてくれる照れた表情がとても嬉しくて。怒られると分かっていても、痛い目に遭うと分かっていても、あえてドジを踏んだり、悪いことをしてみたくなってしまう。

 マキは悪い子だけれど、それはお兄ちゃんのせいだ……なんて言ったらまた怒られるかな、えへへ。


「……って、あれ? お兄ちゃん? お兄ちゃ~ん?」


 洗い場でぼけっと妄想と現実の狭間を漂っていると、隣にいたはずの兄がいない。マキはきょろきょろと首を回す。

 どうやら兄はすでに玄関口に行ってしまったようだ。


「待ってください! 忘れ物ならぬ忘れ者がありますよ! お兄ちゃんの愛する妹、マキが忘れ物にされています!」


 鞄を手に取ると一直線に兄の元へ。テーブルを音もなく飛び越えて最大跳躍。

 ダイニングを最大速で抜けて、愛しの兄に向かってヘッドスライディングを敢行。

 どがらがっしゃ~ん、という文字で形容できそうな派手な音が響き渡る。


「マキって、お茶目?」

「疑問形で言うほど不安なら、最初からするんじゃない!」


 盛大な音と共に壊した靴箱から体を出すと、兄が口のはしを引きつらせていた。靴箱を大破させて傷ひとつない妹。赤ん坊は痛みで危険を学習するが、痛みを感じなかったら一体何で学習するのだろう。加えて言えば、頭が赤ん坊の場合はどうすればいいのだろうか。

 人間離れして蘇った妹に眉をしかめる。


「うう……また怒られた」


 ゾンビのように靴箱の中から体をはい出すマキ。


「それはそれとして、お兄ちゃん、いつものやってください。マキを惜しみなく貸しますので」


 何の反省もなく、玄関を開けようとする兄の前に立ちふさがる。

怒られることに慣れすぎて、怒られた気まずさも何もあったものではない。


「なぜそこで目をつぶる。つま先立ちで唇をとがらせる必要がある」

「はうあっ! ついつい練習の癖が!?」


 胸を押さえて、玄関の扉に背中をぶつけるほどに後ずさる。


「練習?」


 兄の疑問に、両手を目の前でぶんぶんと振り回すマキ。


「あわわ、何でもないですよ? お兄ちゃんといつどこでそういう状況になってもおかしくないように、むしろその確率が非常に高い昨今、キスの一つや二つで緊張していたらキスの先に進めるものも進めなくなってしまう。それでは駄目。男はオオカミと、桃色の女性達も歌ってました。乙女ピンチだエス、オー、エス! 思春期は発情期! 早きかな猿のごとし! こうなったら女は度胸! マキ頑張る! というような、けなげな感じで毎日鏡の前で理想のファーストキスの練習をしているだなんて、そんなこと……お兄ちゃんの前で恥ずかしくて言えるわけないじゃないですかっ! って何を言わせるんですかっ!?」

「……」


 本日二度目の兄の無表情な沈黙に、マキの額からは汗がだらだらと流れ落ちる。


「あー、えーと、ほ、ほら、お兄ちゃん、今がまさにチャンス到来ですよ。自分で言ってるだろうが! っていう王道漫才です。つっこむチャンスですよ? びしっ、ばしっ」


 身振り手振りで何とか兄の興味を引こうと必死だ。


「……あ、それとも確率が高いわけないだろう! って方でつっこもうとしているのですか? でも、どちらにせよ妹の胸を貸します。さぁ、このマキの形のいい胸に容赦なくつっこみを入れちゃってください。マキはいつまでも形のいいまま待ってますので! ……あ、それとも、つっこむのは別の場所ですか? もうっ! お兄ちゃんのえっちっ!」


 ハルがゆっくりとマキの両肩に手を置く。


「はうぅ……心の琴線をつま弾くお兄ちゃんのしびれるような真剣なまなざし……どこか危ない香りが漂っていますが、甘んじて受けるこの寛容さ、懐の広さ、胸と器の大きさ」


 胸をときめかせながら乙女を捨てる覚悟を決める。すると、兄の両手が包み込むように頬にあてがわれた。撫でられるような感触に、マキは胸が高鳴り出す。

 これは、本当に本当に。もしかして。もしかするかも。

 マキはピンク色の妄想に頬を染めた。


「マキ――」


 どきん。どきん。どきん。

 胸の鼓動が最高潮を迎えていた。


「少し黙ろうな」


 こめかみで兄の拳ドリルが始動する。


「痛い痛い痛い! 頭がぐちゃって! ぐちゃってなります! ……うう、どうせこうなることは分かっていましたよ、分かっていましたけど、王道で鉄板過ぎて、ぐすん」


 頭蓋骨に亀裂が入るかとさえ思える攻撃に、マキは玄関にぺたんと崩れ落ちた。ハンカチも顔も、すでに涙でぐしょぐしょだ。

 ハルはマキにため息をつきながらも、心の中でかすかに微笑んでしまう。

 世話が焼けるけれど、どこか憎めない妹。いなくなったときは胸が張り裂けそうだったが、いざいるとなるといじめたくなってしまう妹。一度は失われた日常が、また戻ってきた。だからなのか、ひどく新鮮に思える。

 ハルは、そんな自分に気がついてすぐさま咳払い。


「……ったく、ほら、その、あれだ」


 頬をぽりぽりとかいて、バツが悪そうなハル。


「いつものやってやるから」


 鼻先に手がさしのべられると、マキはしばらくその兄の行為が信じられないように目をぱちくりさせていた。


「あ、うんっ!」


 鞄から大事そうに取り出した真っ赤な髪留めを、ハルの手のひらに載せた。

 ハルは座り込んだままのマキの右前髪をかき上げて、髪の根本で留めてやる。そのときのマキは、普段の落ち着きがないマキとは思えないくらいにおとなしく、兄にされるがまま。まるで顎下をなでられる猫のよう。


「今日もばっちり、いつものマキの完成ですね」


 右から、左から。鏡で確認し、にっこりと笑う。小さな太陽が照り輝くよう。


「えへへ……」


 鏡で何度も確認しては、顔がだらしなく崩れていく。

 左の前髪は垂れたまま。右の前髪だけがかき上げられ、赤い髪留めで留められている。

 マキの髪型は幼い頃から変わらない。使っている髪留めも、昔と同じ。


「じゃあ、お兄ちゃんはっと……制服オッケー、寝癖オッケー、最後にいつもの猫ハンカチです。今日は、ニャン太をモチーフにしたマキの手作りハンカチです!」


 かつて寝食を共にした愛猫がワッペン化され、丁寧に縫いつけられていた。数ある猫ハンカチの中でも、ハルの一番のお気に入りだった。

無愛想で鋭い目を持つハルも、このときだけはたれ目で無防備になってしまう。

 マキは兄の顔をちらりと盗み見た。

 ワッペン同様、ほころんだ顔をしっかりと心の中に縫いつける。


「さっ! 張り切っていきましょー!」


 出発の玄関を開け放つと、朝の強い光が二人を包み込んだ。


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