第二十八話・「あのときのように」
瞳の表面は、湖面のように濡れそぼっている。
「マキは……お兄ちゃんが……」
湿気を帯びたマキの髪の毛から立ち上る香り。鎖のように心臓を縛り付ける。足早に駆ける心臓が、身動きをとれずに締め付けられた。今すぐにでもその鎖を引きちぎってしまいたいという衝動が、ハルの中で沸々とたぎっていく。それはハルがそうしたいと望む意思よりももっと奥、男という生き物に帰属する感覚であった。本能、そう言い換えられたかもしれない。ハルは兄である自分に危機感を抱き始めていた。
胸の中のマキは風呂上がりで、いつもよりも温かく、柔らかく、それでいて綺麗だった。赤い髪留めを握りしめたまま、ハルの胸で震えている。小さな双肩。長いまつげ。黒曜石のような瞳。そのどれもが妹の枠を越えようとしている。
「マキは欲張りで、わがままで」
妹である以上に少女だった。
「やきもちやきで、こらえ性がなくて……」
少女である以上に女性だった。
「寂しがり屋で、独占欲が強くて……」
女性である以上に女だった。
思わずマキの背中に回しかける両手。マキの熱が伝わってくるからなのか、思考回路がオーバーヒートしているのか、はたまた緊張しているからなのか。そのどれであるにせよ、ハルには理解できなかった。もしも、腕を回し、マキを抱きしめ、体と体をもっと密着させてしまったら。きっと連鎖反応が起こる。肌と肌を触れあわせること。それが意味するところ。
「お兄ちゃんがそばにいてくれないと」
あと五センチで、マキの柔肌に届く。
「お兄ちゃんがずっと望んでいてくれないと……」
ハルは兄で。
「きっときっと……!」
あと三センチで、マキの体温に届く。
「きっとマキは、消えてしまうんです……」
マキは妹で。
「お兄ちゃんの視界の中にマキがいない……そう考えただけでざわざわするんですよ……?」
あと一センチで、マキの心に届く。
「マキも分からないくらい、焦っちゃうんですよ……?」
二人は兄妹で。
「どうしようもなく気持ちが揺れるんですよ……?」
……ハルの手が止まった。
触れそうなマキの肌からゆっくりと離れ、強く拳を握りしめる。
感情の起伏をひと思いに絞め殺すように、握力を振り絞った。
葛藤をひと思いにかみ殺すように、下唇をかみしめた。
やがて双方を殺したのか、ハルの手、あごから、力が消失していった。
「お兄ちゃんが――」
言いかけるマキの両肩をつかみ、やんわりと引きはがした。
「もう、寝ろ」
ハルは自分の中で鍵の閉まる音を聞いた。
「……ったく、まじめな顔して来たからなんだと思えば、そんな馬鹿話を聞かせに来たのか? お前はいつもそうだ。自分勝手だとか、わがままだとか分かっているんなら、少しは意識して改善しろっていうんだ」
壊れかけたガラス細工を思わせるマキの姿を、ハルは直視できなかった。
「……お兄ちゃ……」
焦点が定まらない目と、戸惑う姿、脆弱な声。
ハルは逃げるように持ち前の長い前髪で自分の視界を隠す。自分の表情を隠す。
「……えへへ、そう……だよね。お兄ちゃんは……手厳しいなぁ……」
明らかな空元気。今にも泣き出しそうな感情を、無理矢理に元気へ変換している。
「分かったら、さっさと出てけ。俺は疲れてるんだよ」
人払いをするように手を振った。
「ごめんね、お兄ちゃん……ごめんね」
立ち上がるマキの頬から何かが滑り落ちた。
「ああ、気にするな」
ハルはベッドに腰を預け、うつむき、虚空を見続ける。
「お兄ちゃん」
ノブを回す音。
「……おやすみなさい」
ドアが開く音。
「お兄ちゃん……」
ドアの閉まる音は、しなかった。
「……マキ?」
「……だいすき」
ドアの閉まる音がマキの声を相殺した。
マキの裸足の足音が自室へと遠ざかっていくのに耳をすませながら、ハルは大きなため息をつく。肺の中に染みついてしまった香りを、ありったけの肺活量を使って吐き出す。頭を強く小突き、痛みで思考を乱そうとする。
「マキにはマキの生活がある。いままでも、これからも。俺がそれを左右するなんて馬鹿らしいにも程がある。間違っているんだ。そうするべきじゃないんだ……! だから、俺は兄としてマキを見守らなきゃいけない。しっかりとした目で、強い意志を持って、断固として……」
それでマキが悲しむことになっても、結果的にそれが正しい方向に傾いてくれるはずだから。一時的に悪い方向に向かってしまっても、最後に軌道を修正することができれば。
マキが、最後の最後で、兄が伝えようとした正しさに気がついてくれれば。
きっと丸く収まるはずだから。
「あのときのように。マキのいなくなった……一人になってしまったときのように……俺は気持ちを強く持たなければいけないんだ。気持ちを強く……」
強く思い込む。
『俺はマキと距離を置かなきゃいけないんだ』
強く頭を小突いてしまったせいか、頭痛が引いていかない。それどころか、痛みが増していくようだった。自分でも強くやりすぎたかなと、ハルは後悔する。
「…………――ぎにゃっ!?」
「お、目が覚めたか」
突然、布団を跳ねとばして起き上がったナナが、なにやら口から灰色の煙を出して、再びばたりと倒れる。小さな破裂音がしたかと思えば、今度はシステムを起動するような音。何が何やら分からず、ハルは目をぱちくりさせてナナを見ていた。
「……システム使用を感知……《人機》自動起動シークエンス開始……記憶領域ローディング開始……記憶領域破損率八十パーセント……《人機》構成部品破損率六十パーセント……自動起動不可……修復処理開始……記憶破損部消去中、新規領域変換処理開始……修復処理終了……構成部品破損部確認、自動修復処理開始……修復処理終了……記憶領域ローディング再開……成功……《人機》再起動処理実行……バイオス起動……バージョン認識……総修復状況六十パーセント……通常起動不可……《人機》ナナ、セーフモード起動……起動終了……持主認識作業開始」
意味不明の声を漏らした後に、ナナの瞳が開かれた。
「……にゃ……?」
「お……き、気がついたか?」
眠たげな瞳がハルの目をとらえた。しばしの間、無言で見つめ合い続けるハルとナナ。平行線をたどるにらめっこに負けたのはハルで、慌てて前髪で表情を隠した。
「…………パパ?」
「…………は?」
聞き慣れない単語に、耳をそばだてる。
「パパ!」
きらきらと目を輝かせるナナ。
「パ……パパ?」
ハルがオウム返しにつぶやくと、ナナはうんうんと嬉しそうにうなずいた。
確認のために、恐る恐るハルが自分自身を指さす。
「……パパ?」
すると、先ほどとまったく同じ調子で、ナナは首を上下に振って見せるのだった。