第二十七話・「お願い、お兄ちゃん……」
ナナが眠るベッドに寄りかかって、ハルはずっと考えていた。
新聞を届ける軽排気量バイクの音が、朝の訪れが近いことを告げている。
「体は疲れているのに眠れないってのは、なんだか嫌な感じだ……」
ちらと振り返れば、どこかかつての愛猫に似たナナの寝顔がある。
「《彼岸》……か」
欲しいなどと願ったことはない。持っていると実感したこともない。使おうとしたこともない。第一どこにあるのかも分からない。持っていると言われても、あまりにも漠然としすぎている。
「でも、俺は願ったと……うるわもカレンも、俺は願ったと……そう言ってた」
自分が意識していなくとも、発動していたとしたら。
ふとした瞬間に、願っているとしたら。ハルが確信の持てる範囲外において。
……頭痛がする。よぎるのは白と黒。場景が次々に反転し、記憶が錯綜する。
「くそ……!」
怒りを床に叩きつける寸前。
ノックの音が拳を留めた。
「誰だ?」
「お兄ちゃん、マキだよ」
「……なんだよ」
頭痛からか、ハルの声に不機嫌さが混じる。
「寝ないの? お兄ちゃん」
音もなく入室したマキが、後ろ手にドアを閉める。
「別にいいだろ、お前こそ寝ないのか。もう朝だぞ、さっさと寝ろよ」
「うん、ちょっと……ね。マキを心配してくれてるのかな? お兄ちゃん」
「別に……そんなんじゃない」
長い前髪をいじりながら答える。
「マキと少しだけお話ししてくれないかな?」
「……」
「マキは今の沈黙を肯定と受け取るであります」
びしっと笑顔で敬礼してみせる顔が、どことなく愁いを帯びていた。ハルの勘違いか、それとも薄暗い部屋のせいであろうか。ハルが目をこすっている内に、マキは、すとん、とハルの隣に腰掛けた。
小柄な妹の体が、ハルに最接近する。
「離れろ」
「……やだ」
「……」
「マキは今の沈黙を肯定と受け取るであります」
「……勝手にしろ」
「ありがと、お兄ちゃん」
鼻歌でも歌うような楽しさで感謝を告げる。
「……そう言えば、今考えても不思議だね。朝起きたら、マキはお兄ちゃんのベッドにいて、お兄ちゃんがひどく怒った顔でマキをぼかすか殴ってるの」
ハルは思い出す。
ベッドの上で横たわるナナと戦闘をし、マルチメディアビルの崩落からハルを救い、天高く飛翔した妹の姿を。声の限りに叫んだハルに、全力で応えようとする意思。
天翔る妹は、崩壊を開始したビルの中でこう言った。
――お兄ちゃんが信じてさえくれれば、マキにできないことはないって……バカみたいだけど、そんな気さえするんです!
「あのときのことを思い出すだけで涙が……ぐす。お兄ちゃん、愛情表現とはいえ、マキに容赦ないんだもん」
ハルの回想の合間合間に、マキが声を優しく入り込ませる。
二人の回想は、まるでかみ合ってはいなかった。
「気がつけば私……ベッドの中で何も着ていなくて、下着すら着ていなくて……あれね、マキ、本当に記憶にないんだよ?」
兄に向けらっれた強固で純粋な意思の瞳は、あっと言う間にハルの意思を染め上げた。あれほど即座にマキに従ったのは、ハルが覚えている限り、初めてのことだった。
「あのときは恥ずかしかったよ……。でもね、痛みとか恥ずかしさの奥で、マキはなんだか嬉しかったの。こそばゆくて、心がうきうきしているようで……まるで遠足前の夜、リュックにお菓子を詰めるときのような……そんな、なんだかはしゃぎたくて仕方がない感じだったの」
ハルは考える。
マルチメディアビル崩壊の折にマキが持っていた瞳の強さ。向けられたそのときは、そのときだけは、なぜか妹のことが信じられた。何よりも、誰よりも。
「お兄ちゃんが……お兄ちゃんが、こうなるように望んでくれたんじゃないかって……マキの勘違いでも、ちょっぴり、ほんのちょっぴりそう思えたから」
冗談ばかりで、しつこくつきまとうばかりで、迷惑としか感じられなかったはずなのに。
まるで世界を知らぬ赤ん坊が、母の優しい手によって引かれ、成長していくように。導かれるように。
驚くほどすんなりと信じられた。
「全部……マキの自分勝手な妄想だけどね……えへ」
自虐的な微笑み。訪れる沈黙。聞こえるのは、二人の息づかい。
「……静かだね、お兄ちゃん。まるで世界で二人きりになっちゃったみたい」
目をつぶり、息を吸い込む。
「マキは……時々、これが夢なのかなって思うのです」
ゆっくりと目を開け、息を吐く。つぶらな瞳には、薄暗い天井が写り込んでいた。
「マキがずっと見ている夢。お兄ちゃんが、病気の私の手を、ずっと握りしめていてくれたとき……あの病院の、ベッドの上で見ている夢……。目が覚めたら、やっぱりお兄ちゃんがマキの手を握っていてくれるの。頑張れ、頑張れって、弱いマキを応援してくれるの。……でも、マキは弱いから、病気に負けて、それで……お兄ちゃんと…………二度と……会えなくなって……死んじゃって……」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。お前はここにいるだろうが、馬鹿」
マキの消え入りそうな声を聞いて、ハルは妹の頭に軽いげんこつを落とす。小さな悲鳴。亀のように首を縮ませたマキが、意地悪な兄を上目づかいに睨めつけるが、直ぐに向き直って口を開く。
「うん……。そうだ、お兄ちゃんは覚えてるかな? 幼いころの……マキが幼稚園生だったころ。発掘調査でお父さんとお母さんは急な用事でいなくなって、二人でお留守番をしていたときのこと……。その日は家族で一緒にすごそうって決めていたマキの誕生日で、ケーキも買って、後はろうそくをさして吹き消すだけだったのに……」
ハルは改めて隣に座る妹を観察する。遠い目をする妹。よく見ればしっとりと濡れた髪。その首筋や、体のあちこちからはかすかな熱が立ち上る。時間外れのお風呂を済ませてきたのだろうか。
「寂しくて寂しくて、ずっと泣きじゃくっていた……そんなマキにお兄ちゃんは怒って部屋から出て行っちゃって……マキは寂しくてもっと泣いちゃって」
右の前髪だけを逆さまに留めるマキの特徴的な髪型。そこにいつもの赤い髪留めはない。
広いおでこに落ちる前髪が、マキの表情を隠す。
「……でも、物音がして振り返ったら、お兄ちゃんが複雑な顔をして立ってた。……『泣くな』……そう言って、顔をそらしてたまま、ぶっきらぼうに差しだした手には、これが握られていた……」
ハルの眼下に差し出されたマキの拳。
花開くように指を広げると、手のひらには真っ赤な髪留めがあった。
「覚えてない。忘れた」
「……いいもん、マキは覚えてるから」
にっこりと笑う。
「……安物だ」
「それでも、マキがお兄ちゃんからもらった初めてのプレゼントだもん」
栗色の髪からはフローラルな香りが漂う。共用で使っているシャンプーの香り。慣れている香りなのに、それはまったく別物の、女らしい香りに溢れていた。シャンプーの匂いだけではない、妹の……マキの……女の子の香り、なのだろうか。
ハルの思考回路が、妹を一人の女性に仕立て上げようとする。
「驚いて涙すら忘れるマキに、お兄ちゃんは髪留めをつけてくれた。右の前髪をかきあげて、そこにパチンって」
一つまばたきをいれる。思い出に浸ったせいか、潤んだ瞳で兄を見上げる。
「お兄ちゃん、そのときなんて言ってくれたか覚えてる?」
「覚えてないって言ってるだろ」
マキの言葉が、思い出の引き出しを開ける鍵となった。
――……に、に、にに……似合って……る、ぞ。
忘れかけていたが、忘れたわけではなかった思い出。手に取るように思い出してしまった効果か、ハルの顔に赤みが差す。
「もう、マキは覚えているのに、お兄ちゃんはそうやって直ぐ忘れて……」
可愛らしく頬をふくらませるマキに、ハルの心臓が早足になる。
いつもとは違う髪型が、マキを別人のように変える。
「お兄ちゃん、あのときのように髪留めをつけて欲しいな」
前髪一つで、ここまで表情を変える妹の姿にハルはどぎまぎしてしまう。
たかが前髪、されど前髪。
「お願い、お兄ちゃん……」
たかが妹、されど妹。
「ば、馬鹿……お前な」
ためらうハルを急追するように、栗色の髪の毛が胸に飛び込んだ。抱きついたマキが顔を胸に埋め、腰に手を回す。ゼロ距離で飛び込んできた濃密な香りが、ハルの鼻腔をくすぐったばかりか、肺を満たし、体中に素早く、深く浸透してきた。抗いがたい熱さと苦しさがハルを襲う。
「ナナがいるんだぞ。そんな恥ずかしいこと……!」
「そんなの、関係ないもん。それでもいいもん。その方がいいんだもん」
「お、お前……!」
「お兄ちゃん……マキは……」
すがるような瞳が揺れていた。