第二十六話・「お父さん」
明け方の空を、冷たい風が流れていく。
人々がベッドの中の温もりにすがっていたいと思う時間帯、スーツ姿の少年が駅のホームに立っている。銀色の髪が風を浴びれば、ビルを抜ける太陽光と戯れる。透き通る髪の一本一本が芸術の域にまで昇華されていた。
「なんて空虚な町なんだろう……」
少年の顔が明け方の町に美しく映える。
「お父さんがいない世界で起動しても、意味がないよ」
ビルの谷間をカラスの群れが抜けていく。捨てられた新聞紙が路地裏を転がっていった。
少年は両足に力を込めると、ホームから線路へと降りて、悠々と線路の上を歩き出す。
じゃり、じゃり、じゃり。
線路に敷き詰められた小石を足の裏に感じながら、ポケットに手を突っ込んで歩いていく。黒いスーツのジャケットにはほこり一つない。中に着た白のワイシャツが、朝日を浴びて白銀に輝く。ホストと見紛うばかりの風体だが、少年の面輪ははとても幼い。さらさらの銀髪を揺らしながら、何度となくため息をつく。
「お父さんが世界を滅ぼしたのも分かる気がする。起動してからずっと世界を観察してみたけれど、あのときとちっとも変わっていない。ゆっくりと昔見た風景に近づいていくだけ。同じ結末に向かって進んでいくだけ」
欄干を軽く飛び越えると、道路の真ん中に着地する。
「今はまだいいけど、行き着くところは同じ。人を憎んで、殺し合って、戦争して……。お父さんが作った《彼岸》はそれほどのものだとしても、人を殺す理由にはならないのに」
数少ない昔の記憶を呼び起こす。
記憶領域を呼び出せば、少年を作り出した父の声音が鮮明に再生される。
少年の開発途上。
視界がまだないころの記録。
ナナが猫のように父の足下まとわりつく音を、少年はベッドに横たわった状態で聞いていた。父は優しそうな声で少年とナナに語りかけながら、コンソールに何かを打ち込んでいく。
――ほら、ナナもうすぐだよ。もうすぐ兄妹ができるからね。名前はハチ。八番目だからハチ。我ながら単純かな。
何億回と打ち込まれた情報の音が、少年の記憶領域に刻まれ続ける。
――……にゃ? ナナは七番目だから、ナナ?
――そうだよ、よく分かったね。
喜ぶナナの声がする。
――それよりそれより、きょーだいって、ナナより強いの?
幼い声が、父の足下から聞こえる。好奇心を隠せないといった様子だ。
――ナナ、それは違うよ。ハチはね、ナナの弟なんだよ、分かるだろう? ナナと同じなんだよ。
ナナの髪の毛を撫でたのだろう。くしゃっと髪の毛が乱れる音がした。ナナは気持ちよさそうな声を出してのどを鳴らす。
――にゃ! 分かった! ナナと同じくらい強いんだね!
ぽんと手を叩く音がする。
――はは……そうそう、ナナはいい子だね。
ナナの素っ頓狂な声の後、困ったような、悩むような声がコンソールを叩く音に混じる。
――にゃ! ナナはいい子! だからハチ、ナナをよろしくねー。
耳元で楽しそうなナナの声。暗闇の中で誰かに揺すられているような感覚は、ナナがそうするからだろうか。
――おっと! ナナ、まだ途中だから、むやみに触っちゃ駄目だよ。……いいかいナナ、ハチと遊ぶにはまだもう少しかかるから、それまでおとなしくしているんだよ。
――はーい!
ぱたぱたと軽やかな足取りが、父の声がした方向に寄っていく。それきり静かになった空間に、コンソールを叩く軽やかな音。
時を刻む振り子の音のように、長い時間をかけて、少年はその声や音を聞いた。
ただ、ナナに楽しそうに話しかける父の顔を見たくて、優しく話しかけてくれる父の姿を見たくて、ずっとその音を聞いていた。
「そう……人は自分たち同士で争うことが破滅に向かうだけだって分かっているのに、どうして飽きずに繰り返すんだろう。お父さんなら、僕にその答えを教えてくれるかな?」
記憶の再生が途切れる。
「お父さん……」
空につぶやく。交差点を猛スピードで横切るバイクの音が、ハチの声をかき消した。
「《人機》として作られた僕がこんなことを願っていいのか分からないけれど」
スクランブル交差点を歩いていく。途中ですれ違った水商売風の若い女性が、ハチを見てため息をついていた。すれ違う全ての人々が、ハチの端正な顔立ちに釘付けになり、あるいは、身にまとう雰囲気にあてられ、知らず目で追い続ける。
銀髪がハルに従い後ろに流れれば、彼、彼女らの目にはっきりと焼き付いた。
「お父さん」
ハチは交差点の中心で立ち止まる。
「僕は会いたい。この目で見たい」
神々しい光に包まれ、息を吹き返し始めた都市の真ん中で、深い群青の空に手を伸ばす。
何かを求めるように、手のひらを広げた。
「寂しいんだ。お父さんのいないこの世界が」
ハチは淡い微笑みを浮かべて、暁に手をかざす。
「だから僕は……《人機》である意義を捨ててでも」
手のひらを拳に変える。
「《彼岸》を手にいれる」
拳に握りしめたのは決意。
その決意に呼応するように、ハチの背中が蠢く。
「僕は、願いを叶えるんだ」
日の出が映し出した背中の鈍色は――巨大な機械の翼だった。