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第一話・「そんなに激しくしないで」

 目の前で消えていく命の音。心音。

 それは曲の終わりを予感させるデクレッシェンド。


 ――お兄ちゃん、私、生きていたいよ……。


 ハルは何もできないまま、拳を限界以上に握りしめる。悔しさのあまり、手の中で血があふれ出していることにさえ気がつかない。

 何もできない無力な存在。ただの普通でしかない人間。自分の周囲すら思い通りにならない。無力さばかりが身に染みていく。目の前で喘鳴をもらす妹を楽にしてやることもできずに、ハルは奥歯をかみしめた。

大好きだった飼い猫のニャン太が朝起きて冷たくなっていたときも、両親が発掘調査中に行方不明だと知らされたときも。

 ただ指をくわえて見ているしかなかった。成り行きを見守るしかなかった。

 何という他力本願だろう。そして、病院のベッドの上でいまわの際を迎えようという妹を助けられないでいる。

 そうか俺は、両親も、妹も、飼い猫も。

 ハルは頭を貫く強烈な激痛に目がくらんだ。

 ――大切な家族を、誰一人として救えなかったんだ……。

 バットで殴られたような痛みに視界が歪む。

ときおり悩まされる偏頭痛に慣れることはない。自分自身を戒めるような痛みだからこそ、ハルは甘んじて耐えてきた。無力であることの罪深さ。苦しみ続けることが、救えなかった家族へのせめてもの贖罪だと信じて、ハルは痛みに耐える。

 救いたかった。助けたかった。笑顔を取り戻したかった。

 今でも夢に見る。

 両親と兄妹。家族四人で食卓を囲んだあのときを。

 そこに広がっていていた笑顔の華やかさを。

 もしも、その笑顔を取り戻すことができたなら、俺は全てを捨ててもいい。俺が持つもの、健康も、生活も全て、世界ですら犠牲にしてもいいと思える。


 ――お兄ちゃん……私……。


 弱々しく差し出された手を、まるで繊細なガラス細工にでも触れるように、両手で包み込む。

 冷たい。

 俺の体温が高すぎるから冷たく感じるだけだ。

 ごまかしだと分かっていても、ハルはかたくなに思いこんだ。


 ――もっと、お兄ちゃんのそばにいたかった……。


 そばにいていい。

 さんざん敬遠してきた妹だった。迷惑をかけられ通しの妹だった。喧騒を連れてきた妹だからこそ、この祭りの後のような寂しさをより深く感じてしまう。

 体温を失っていく妹の手を握りしめながら、ハルは願い続ける。

 そばにいて欲しい。いなくならないで欲しい。

 現実は残酷。ハルは氷のように冷たい妹マキの手に、死の気配を感じ始める。


『他には何もいらない。そばにいろ。いなくなるな。』


 激しい頭痛を押し込めて、強く祈り続ける。

 しかし、強い願いも空しく、心臓の鼓動が途絶える。呼吸を忘れたマキは、寝息すら立てずに眠りにつく。恐ろしいほどの静寂が辺りを包み込みはじめる――

 そこで、目が覚めた。


「……。…………夢、か」


 見慣れた天井。

 体にまとわりつく大量の汗に驚くハル。額を手の甲で拭うと、びっしょりとぬれた汗の感触。まるでバスタブから出て、体も拭かずにベッドに入ったような感覚だった。


 ――……会いたかったです……お兄ちゃん……っ!


 ……あの嘘のような奇跡から数日が過ぎていた。原因も理由も分からないまま、マキはハルにとっての日常の中にいとも容易く帰ってきた。まるで悲劇の全てが夢であったかのように。気が付けばいつもの兄と妹の関係に戻ってしまっていることにハルは内心驚いていた。人間の環境適応能力はあなどれない、そんなことを思いながらハルは大きなため息をついた。

 時計を見ると午前五時。

 一介の高校生としては早起きすぎる時間帯。目覚ましの音が起床を告げるまでには、まだ一時間以上の余裕がある。ただでさえ貴重な朝の時間。睡魔ともう少し戯れても問題はないはずだ。


「ふぁ……おやすみ」


 誰に挨拶するでもなく、あくびをしながら掛け布団をかぶった。慣れ親しんだ掛け布団は、睡眠欲を促進させる温もりで充ち満ちている。ハルは寝返りを打ちながら、体に巻き付けるように掛け布団を手元に引き寄せた。

 ……五分と経たず、ハルはぱちりと目を開ける。

 寝汗に浴びる外気がひどく寒くて、目が覚めてしまったのだ。

 目をつぶって一分もしないうちに布団を失ってしまった。そんな奔放な寝相をかくことのできる自分に新鮮な驚きを覚えながらも、ハルは再び布団を手元にたぐり寄せて睡魔を受け入れた。

 ……五分と経たず、ハルはまたしても目を開けた。

 肌寒い。どうにも肌寒い。

 見れば、布団はベッドの隅っこに移動していて、ロールケーキのように丸まっている。ハルは自分の寝相に激しい落胆を覚え、白昼夢でも見る奇妙な体質なのでは、と空恐ろしくなる。


「そういえば子供の頃、自分が夢に落ちる瞬間が見たくて、夜中まで我慢して起きていたことがあったな……結局は朝になって目が覚めて悔しがっていたっけ」


 懐かしさにしみじみしながら、ハルは隅っこで丸まっている布団を手元に引き寄せて三度目の眠りにつく。

 ……五分と経たず、ハルは自分のくしゃみで目が覚めた。


「嘘だろ……本当に白昼夢か? いや、朝だから寝ぼけてるのか?」


 テンプレートに頬をつねって現実であることを確認する。

 痛い。間違いなく現実のようだ。

 布団は予想通りベッドの隅っこで器用に丸まっていて、わずかな上下運動を繰り返している。


「……ん? 上下運動?」


 首をひねって目をこらす。興味本位で布団をつつくと、生まれる前のさなぎのようにもぞもぞと動くではないか。

 ハルは一抹の不安を感じながら、なおも指先で布団をつつき続けた。


「…………ううん……お兄ちゃんのえっちぃ……」


 悩ましげな声が布団の中から漏れてくる。


「うにゃん……むぅ……そんなとろ触っちゃだめだよぅ……むにゃむにゃ……」


 その声にハルは己の内に沸々と沸いていくある感情を感じていた。

それが力に変換され、つつく指の力は増し、すぐに握り拳になった。

 布団にめり込んでいく拳。


「おぐっ……! うぐぅ……! お、お兄ちゃん……そんなに激しくしないで……マキ、壊れちゃうよぅ……」


 悩ましげな声は一転して苦悶の声に変わっていく。


「明日のためのその一、とにかく打つことだ」


 サンドバッグでも殴りつけるような光景。布団を奪われた怒りか、次第にジャブが強烈になり、勝負を決める右ストレートからアッパーへのワンツーパンチへと変貌した。


「おうっ! ……はぐっ! ……うえっ!」


 まるで車にひかれた蛙のような声が布団の中から聞こえ、布団はぴくぴくと痙攣し始めた。


「次はサッカーだ」


 眠りへと誘う睡魔は、すでに諸手を挙げて逃げ出している。薄ら笑いを浮かべるハルを見れば、誰でも逃げ出したくなるだろう。ただでさえ鋭く細い目が、それはそれは嗜虐的な光で輝いているのだ。

 ベッドの上に立つハル。サッカー選手さながら足をほぐし始める。アップはまもなく終わり、交代の選手がフィールドの外で待つハルの元へ。アウトする選手とハイタッチ。イン、ハル。試合再開。ディフェンダーの裏へ抜け出す。ハルに通るスルーパス。迫るキーパー。シュートするならここしかない!


「タ、タイム! タイムタイムタイムタイム! レフェリーターーーイム! タイムですよっ!」


 ぴたりと止まるハルの足。オフサイドを宣告する線審のように布団の隙間から突き出されている白魚のような手。遅れて、亀のようにぴょこんと顔が飛び出る。カーテンから漏れてくる朝の光が、くしゃくしゃになった栗色の髪を鮮やかに照らし出した。

 黒くてつぶらな瞳は子犬のようにうるうると揺れており、長いまつげが目元を強烈に主張する。小さな口は悲しみをこらえるようにぎゅっと閉じられ、ときおり小さい鼻でぐずぐずと鼻水をすすり上げる。マスコットキャラクターのようにまるい顔の少女は、懇願するように、足を振りかぶったままの兄を見上げた。


「仮にも、一週間前に奇跡の復活を遂げた妹に対する所行ではないと思います……」

「ほう、最近の布団はしゃべるのか」

「ぐす……お兄ちゃんが悪魔に見えます……。マキはこうして、日々お兄ちゃんに調教されていくのですね? お兄ちゃんに従順な……まるで、お兄ちゃんの欲望を満たす奴隷のように!」


 目元の涙を拭う。手を伸ばして自らの悲劇を叫ぶ姿は、まるで舞台女優のそれだ。


「わー、きゃー、エッチ、お兄ちゃんのエッチ! でもお兄ちゃんの日々の調教に慣れてしまったマキの体は正直で、意思とは裏腹に快楽の反応を――」


 ……制裁は実行された。

 布団にくるまっているので正確な状況は把握できないが、兄の容赦のないサッカーボールキックを受けた妹は、見事なまでにくの字に折れ曲がった。


「ス……ストマック! ストマック! エイク!」


 どうやら腹部に直撃を受けたようだ。布団にくるまったまま、芋虫のようにベッドをのたうち回る。


「マキが……世界で一番お兄ちゃん想いなマキが、何をしたと言うのですかっ!?」


 それでも布団を離そうととしないマキが、必死に兄の足にしがみつく。


「面倒だから質問を絞るぞ。なぜ俺のベッドにお前がいる」

「え……? お兄ちゃん、昨日のこと覚えていないの? あんなに、熱く、それでいて激しく契りをかわし――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 兄の必殺の左足が振りかぶられるのを見て、態度を豹変させる。


「うう……今日はいつにもまして厳しい兄の仕打ち……」


 兄のひざに頬を寄せながらしくしくと泣き崩れる。それでも布団は離さない。


「マキにも分からないんですよぉっ……。気がついたらお兄ちゃんの布団の中に……」


 そこで何かに気がついたようにはっと顔を上げるマキ。頬は次第に紅色を帯び始める。


「……もう、お兄ちゃんたら……。そんな照れ隠ししなくても……マキには分かっちゃいますよ。辛抱できなかったんですよね? こう、若気の至りというか、抗いがたい人間の三大欲求というか、青春の先走り、ほとばしりというか……思わず抱き枕の要領で妹を自らのベッドに連れ込んでしまったんですよね? 妹抱き枕のかわいい表面だけでは飽き足らず、過激な裏面が見たくなってしまったんですよね? そんな照れ屋で奥手で不器用で、ちょっぴり強引な兄に…………萌え」


 まるで体をくねらせる芋虫。両手で頬を挟み込み、恥ずかしさにもだえている。マキの黄色い声のおまけ付きだ。

 そんな妹の両頬をがっちりとつまんで、左右に引き延ばすハル。


「天地神明にかけて、それはないからな」

「いはい……おひひあん、ひほひ(直訳・痛い、お兄ちゃん、ひどい)」


 可愛らしい顔立ちも、こう引き延ばされてしまっては形無しだ。


「ほんほおひ、はひへはひははひんへふひょう……(直訳・本当に、マキは知らないんですよぉ)」


 ぽろぽろと涙をこぼす妹の哀願が、ハルの罪悪感を刺激する。

 ぱっと手を離すと、煮え切らない気持ちを抱えたまま頭をぼりぼりとかいた。

 確かに朝から妹を泣かせることはなかった。死んだと思っていたはずの妹が帰ってきたという喜びが、一週間経った今でも変な形で現れてしまっているのかもしれない。


「……分かった。信じてやる」


 何となくそんな自分を認めてしまうことが照れくさかった。

 マキに背中を向けて腕を組む。


「うふ……ぐふふふ……お兄ちゃんのそんな表情……マキの大好物です」


 打って変わって今にもよだれを垂らしそうなマキの物言いに、思わず手が出ていた。素早く頭上にげんこつを落とす。マキの頭上で星が何個か輝いた気がした。そのまま簀巻き状態のマキの布団をはぎ取ろうとする。

 布団を奪取した後は、怒りの二度寝を決め込むのだ。


「お、お兄ちゃん! 後生です! それだけは堪忍しておくれやす!」

「誰が悪代官だ。……って、後生ってお前が言うとリアルな話だな……」


 複雑な心境。

 しかし、それはそれ、これはこれ。ぐいぐいと布団を取り戻そうと力を込める。


「第一、自分の布団を取り戻して何が悪い」

「それでも、人には譲れないものがあるんです!」

「だから、もともと俺のだろうが!」

「それでも! それでもっ! そーれーでーもーっ!」


 端から見れば、妹の服をはぎ取ろうとする兄の構図に見えなくもない。ハルはそんな思考を都合良くすっぱりと捨て去って、自らの布団を取り戻そうとなおも踏ん張る。布団が引きちぎれるほどの攻防戦は、マキの譲れない強さによってハルの敗北に終わる。

 引く力が強すぎたのか、簀巻きのまま両者共に壁に激突してしまう。


「うう……くそ、頭が」


 後頭部に走る激痛に思わず体を硬直させるハル。痛みに片目をつぶりながら、ハルは床に尻餅をつく格好で妹を見上げた。


「ふぎゅぅ……た、たんこぶできてます……」


 空中にぷかぷかと浮きながら、マキは頭のてっぺんをさすっていた。

 部屋の隅っこ、天井。

 まるで種も仕掛けもないマジック。簀巻き状態だった布団は乱れ、そこから健康的な足がのぞいている。

 ……今更驚きはしなかった。

 驚くことは、妹が帰ってきてからこの数日で飽きるほど驚いた。マキが生き返ったことはその発端に過ぎない。生き返ったというよりは、原因不明の新生とでも言った方がいいのだろうか。ぷかぷかと浮いていることも驚かされたことの内の一つ。それ以外にも……。


「……くしゅん!」


 思い返そうとしたところで、マキのくしゃみが回想を吹き飛ばした。視線を向ければ、つま先、くるぶし、ひざ、太ももと渡るしなやかなラインが見える。一般男性ならば思わず生唾を飲み込む脚線美。

 そこで気がつく一つの事実。


「……ま、まさかお前」


 顔中を桃色に染めて、マキは重力落下しそうになる布団を必死に胸元に押しつけている。


「ううっ……だ……なん……です」


 マキが天井付近まで浮かんでいるので、尻餅をついているハルからの角度は限りなく九十度に近い。簀巻き状態は解除され、ずり落ちそうになる布団と格闘しているマキ。視線をもう少し上げれば、まとうもののない少女の小さな両肩と鎖骨が見えている。絹のようになめらかな肌色。


「なぜか……裸……なんです」


 空中に浮かびながら、恥ずかしそうに隅っこに逃げていく。つまりは、布団の下には間違いなく生まれたままの姿があるということ。理由が分からないとはいえ、裸の妹と一緒の布団で寝てしまったという事実に、ハルは顔面が沸騰するのを感じた。

 こういうとき、自分の免疫力のなさを呪いたくなる。


「は、早く何とかしろよ」


 伸びた前髪で視界を隠すのが、ハルの精一杯だった。


「……お兄ちゃん、マキの下着、返してください」

「俺は、俺は知らない!」


 上げてしまった顔をあわててそらす。


「なら、マキはどうして裸なんですか? どうしてお兄ちゃんの布団で寝ていたんですか? どうしてなのですかお兄ちゃん!」

「だから知るか! お前が超絶に寝ぼけてたんだろ! それより、布団は貸してやるから、さっさと着替えを取りに自室へ行け!」

「むう……納得のいかない押し切られかたです」


 乱暴な兄の物言いに頬をふくらませ、滑るように出口まで空中移動していくマキ。このまま何事もなく兄の目前を通り過ぎていく。


「にひ」


 ……が、その直前、マキが悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべていた。


「おっとっと」


 わざとらしい棒読みの後に、体に張り付けた布団をずらしてみせる。ハルの目に飛び込んできたのは、形の良いお尻。カーテンの隙間から入り込む朝の日差しに白桃がきらめく。

 知らず息をのんでしまうハルがいた。


「ムフフ。お兄ちゃんのむっつりえっち」


 ハルは、林檎のように赤い顔のまま、布団ごと妹をドアの外に蹴り出していた。


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