第十四話・「下がってて、お兄ちゃん!」
「むぅ……誰か知らないけどナナの邪魔をするなら手加減しないよ?」
「誰か知らないけどお兄ちゃんとのデートの邪魔をするなら、マキだって容赦しませんよ!」
にらみ合う二人。刀を構えるナナに対して、武器を持たないマキは獲物に襲いかかる熊のような構えを見せる。マキに武術の素養はない。まるでつかみかからんばかりのこの構えでさえ、深夜のプロレス放送から学んだ知識だ。付け焼き刃ですらない。
「いっくよー!」
ぺろりと唇をなめて風になるナナ。
「下がってて、お兄ちゃん!」
ハルは四つんばいの姿勢のまま、ショーケースの向こう側に身を隠す。言われて素直に従ってしまったが、ハルは慌ててマキの様子を探る。ショーケースから頭を出してマキの姿を視界に納めようとするが、マキはそこにはいない。頭を巡らすと、隣のマザーボードのあるブースからガラスの割れる音が聞こえてきた。
ガラスの中に身を埋めているのはマキだ。
制服にガラスの雨が降る。上から襲い来るは斬撃。天井の蛍光灯をかすめながら、刀が振り下ろされる。高く舞い上がったナナは重力をものともしない。マキはガラスの中から身を起こすと、手近にあったマザーボードを両手につかんだ。一枚、二枚と、基盤が投てきされる。手裏剣のような軌道を描いたそれを、ナナは難なく刀で切り落とす。
どうやら時間稼ぎにはなったようだ。マキがガラス片の中から身を起こし、商品棚の間を駆け抜ける。ナナがマキのいた場所に着地すると、今度は待ってましたとマキの反撃。陳列棚の中にあった乾電池パックを大量にひっつかむと、大きく振りかぶる。体力測定で見せたハンドボール投げを思い出させる。力強く投げられた大量の乾電池は、ショットガンから撃ち出される散弾そのもの。人間の視力では認識できるかすら怪しい。
だというのに、マキは信じられないような柔軟な体さばきで銃弾をことごとくかわしていく。マキが投げ続ける乾電池は、見た目にはことごとくナナを打ち抜いていた。しかし、それは現実のナナには命中していない。全身を覆うライダーススーツがナナの速度でかすんで見える。その残像をマキが打ち抜いているに過ぎなかった。
マキの頬に汗がしたたる。商品棚の乾電池が底をつき、接近してきたナナの剣撃が、スカートを切り裂く。全力でバックステップをしたはずだった。背後を気にする余裕もない。背後がもしも壁だったならば、確実に体は右と左に分かれていただろう。
マキは背中に冷や汗が落ちていくのが理解できた。
ちらりと兄に目をやれば、隠れていろと言ったのにこちらに向かってくるのが見えた。手にはノートパソコンが握られている。
武器にするつもりだろうか。相手にならないかもしれないのに。
マキは兄の夢中になる姿に嬉しくなり、表情を崩しそうになった。
そこに視界をよぎる黒い姿。瞬間的に体が反応する。冷や汗を拭う必要すらない。バックステップ直後の横っ飛びで、汗は飛び散っている。ナナの刀が汗を切り裂いて、さらに陳列されたキーボードの山を切り落とした。棚からは、有線無線を問わずに様々なキーボードがキーをまき散らして崩れ落ちていく。マキが床を転がりながら立ち上がると、背後から高らかな悲鳴が上がる。一般客が激しい物音に気がつき始めたらしい。
女性客の悲鳴で何事かと周囲を見回す客。
回した視線を釘付けにする惨状が、パソコンコーナーに広がっている。次いでナナの刀と、崩れ落ちるキーボードの棚を目に納めた。近くにはガラスの割れたショーケース、壊されたパーツ群。事の重大さを認識させるには十分な情報。一般客が蜘蛛の子を散らすように階段やエスカレーターに向かっていく。さすがの店員も事の収集に当たることができず、慌てて逃げ始めた。
パニックを過ぎ、貸し切りになった店内で、マキは陳列棚に突っ込んでいた。袈裟斬りをよけて安心したのもつかの間、流れるような回し蹴りがマキの胸に炸裂する。脳が発する危険信号に、腕で胸元をカバーするのがやっとだった。腕が折れるかと思うほどの衝撃に、体が宙に舞う。風を切る音の後で、背中に硬質な感触。カーゴセール中のスピーカーの山に、マキは体を埋めていた。
「ううっ……」
崩れ落ちる段ボール。もみくちゃになるマキ。背中に走る激痛。三万円のところを一万円。顔面に張り付いていた値札を引きはがすと、床を蹴るナナの姿が見えた。刺突に構えられた刀の切っ先に、マキは慌ててスピーカーを蹴り上げる。常人を越える脚力で蹴られた箱は真っ直ぐにナナを捕らえたはずだった。ところがナナのスピードは衰えない。木製のスピーカーを突き抜けて、切っ先が露出していた。
このっまじゃ、焼き鳥にされる。
マキの脳内で打ち鳴らされる警鐘。死が忍び寄る。スピーカーの入った段ボールは思った以上に重量がある。体を覆うように崩れた段ボールの山のせいで、マキは素早い身動きが取れない。取り除いている間に刀は胸を貫くだろう。かといって埋もれたままでは、後退も左右によける事もできない。
弾丸のように加速するナナの切っ先が眼前に迫る。
圧倒的な早さ。圧倒的な強さ。
全てが生まれて初めて経験するもの。
不思議な力のおかげで、強くなったと思っていた。二度と大好きなお兄ちゃんと離ればなれにはならないための力を手に入れたと思っていた。颯爽とお兄ちゃんのピンチを救って、好きになってもらえると思った。でも、それは全て思い上がりだった。
(お兄ちゃん、ごめんなさい。マキはお兄ちゃんを助けられそうにありません……)
マキの懺悔が心の中で形作られそうになる。
『――マキ! あきらめるな!』
これから襲うであろう痛みに身構えるマキの耳に、手を伸ばす兄の声が飛び込んできた。兄と離ればなれになる最後の時に見た表情。
もう二度と会えなくなる。
ベッドの上で何度絶望したか分からない。その度に病気に打ち勝つ力が欲しいと思った。兄が手をつないでいてくれたこと。何度わがままを言ってもつないでくれなかったのに、そのときだけはしっかりと手をつないでくれた。
それは、最後だからというあきらめじゃなくて、最後まで祈っていてくれたからなんだ。
ハルの伸ばした手が、ハルの力強い声が、力となって流入してくる感覚。
マキの体に力がみなぎっていく。
錯覚でもいい。思いこみでもいい。あきらめちゃ駄目だ。
迫る切っ先をぐっとにらみ付けると、ぎりぎりまで引きつけた。集中力が視界をクリアにする。
少しでもナナの動きを捕らえられればいい。
それだけに力を注いでいく。感覚を研ぎ澄ませていく。胸を貫かれる恐怖をはねとばし、マキは胸の前で刀を挟み込んだ。刀を捕らえた手のひらに凛とした感覚。俗に言う、真剣白刃取り。
驚きに目を見開くナナ。
うまく白刃を捕らえたはいいが、勢いまでは殺しきれない。滑り込むように、切っ先がマキの胸元へ迫る。胸まで二十センチ。命まで十センチ。絶望への直線運動。そのせめぎ合いに耐えるマキに冷静さが宿る。
力比べはしない。刀にこもった力を別方向にそらせるだけでいい。
制服の脇の下を通過する刀。
「反撃のお兄ちゃんキック!」
ありったけの力を込めて、ナナの肩口に右足をたたき込む。黒いライダーススーツがスピーカーの棚を突き抜けて、マウスの棚にぶつかった。マキはひりひりする右足をさすりながら、兄の元に駆け寄る。
「マキ、お前……大丈夫なのか?」
眉根を下げてマキの肩をつかむハル。長い前髪の向こうで心配そうに瞳が揺れている。
「お、お兄ちゃんがマキを心配してくれてるっ……! マキは、マキは感激ですっ!」
痛みをこらえてマキは兄に抱きついた。体中が兄の温もりに喜ぶのが分かる。痛んだ体が生き返るような心地だった。
「べ……別に、心配なんてしてないぞ」
ハルはマキを引き離そうとはせずに、頬をぽりぽりとかいている。恥ずかしそうな顔をそらし、前髪で隠そうとする。
「えへへっ……そんなお兄ちゃんの照れた表情が、マキを今以上に変態チックにさせます……でも、今は――」
もう少しこうしていたい欲求を我慢すると、マキは兄の胸を抜け出して袖を引く。
一刻も早く、この場から逃げ出した方がいい。
マキ自身、本気でたたき込んだ蹴りだが、そんなにあっさりと終わるような相手ではないような気がしていた。ハルもマキの様子を感じ取ったようで非常階段に向かって駆け出そうとする。
「逃がさないよっ!」
マウスに埋もれていたナナが、マウスの山を吹き飛ばして立ち上がる。空中から雨のように落ちてくるマウスをくぐり抜けてナナは刀を繰り出す。マキは兄を背中へ押しやり、迎え撃つべく駆け出した。兄から譲り受けたノートパソコンが武器と化す。
「お兄ちゃんには、絶対に触れさせないんだからっ!」
降り下ろされた刀をくぐり抜けて、マキがノートパソコンを振り回す。
風を切る一撃がナナの腹部を狙う。
ナナは持ち前の柔軟さで後方宙返りをすると、着地したその足で地面を蹴り上げる。刀を体から後ろにため込んだそれは、居合い抜きを想像させた。
二歩のためを経た刀は、絶対的な切れ味を有する。
マキが手に持ったノートパソコンを切り落とし、さらにはマキの制服の胸元を切り裂いた。露わになる下着をそのままに、マキは捨て身の覚悟で距離を縮める。ナナの背後に回り込むとナナの胴体に抱きつき、高く跳躍する。その跳躍力たるや、体育の時間、幅跳びで見せたものを軽く上回る。磨かれた床に亀裂を生じさせ、ロケットのように床を離れた。天井で輝く蛍光灯を壊すだけにとどまらず、その天井ごと突き抜ける。豪快な破壊音が響き、煙と破片が降り注ぐ。
上の階にあった巨大な液晶テレビが、遅れてハルの目の前に二台三台と落ちてきた。派手に割れる液晶パネル。学生には到底手が出せない何十万円もする代物。
ハルはもったいないという思考すら忘れて、慌てて手近な非常階段を駆け上る。
その場を妹に任せて逃げ出すことはできなかった。
それは兄としてだけでなく、人間として醜い行為だと思えたから。
足をフル回転させて上った五階。
そこには大きな液晶テレビが所狭しと並べられていた。メーカーごとに綺麗に分けられ、日々進化を遂げていく液晶テレビ。どの画面にも美しい自然風景が映されていて、その合間を二人の少女が駆け抜けていく。追いかけるのはナナで、後退を余儀なくされているのはマキだ。四階の天井を突き破るような衝撃を受けても、まったくこたえた顔をしていないナナ。日本の美しい風景をまっぷたつにしたかと思うと、突き出した刀でアマゾンの動物たちを貫いていく。両断され、貫かれた風景はどれも液晶テレビに映ったもの。火花が散り、内部配線が露わになる。マキは制服をぼろぼろにしながら、奥に奥に追い詰められていく。効果的な反撃には転じられないでいるようだ。振り向きざまに小さな液晶テレビを投げつけるが、ナナは難なく体をひねってよけていく。戦闘においては大人と子供。マキもそれを分かっているようで、無理に戦うことはせずに回避に専念しているようだった。肺を押さえて、肩で息をしながら液晶テレビを飛び越える。
「もう鬼ごっこは終わりだよっ! もたもたするとハチに怒られるんだから!」
頬をふくらませて液晶テレビを踏み台にするナナ。刀を床に引きずりながら加速。火花を上げながらマキに迫っていく。まるで着火した導火線そのものだった。
その火花がマキにたどり着いたとき、全てが終わってしまうような気がした。
ハルは何もできないと分かっていながらも、二人に向かって駆け出していく。足が悲鳴を上げる中で、ハルは横倒しになったプラズマテレビを踏みつけて走る。破壊されてむき出しになった鋭利な部品にひざを切られながらも、ハルは足を奮い立たせた。
置き去りにした痛み。流れ出す赤い血。
足がもつれて転びそうになるのを何とかこらえて、マキを見上げた。
そこにあるのは、危機という言葉が当てはまる光景。
壁際に追い詰められたマキ。かすむナナの右腕。ひらめく白刃。
マキは身をかがめて床を転がり、火花散る一撃をやり過ごそうとする。
コンマ一秒を巡る攻防の果て。
ハルが痛みに歯を食いしばる音に続いて。
マキが地面を蹴る音に続いて。
ナナが壁を切り裂く音が続いた。
三つの音が続けざまにフロアに広がる。
「あれれ、外しちゃった……?」
舌を出しておどけたナナが、慌てて斬りつけた壁から離れようとする。マキが飛び退った方向とはまったく逆。追撃ではない何かに備えるように見えた。
難を逃れたマキに溜飲を下げる暇もなく、ハルの目に火花散らす白壁が飛び込んでくる。切り裂かれて内部のコンクリートがあらわになっているだけで、火花散る要因は全くないはずだった。
「なっ――」
こぼした瞬間、ハルは息をのむしかなかった。切り裂かれたコンクリートの切り口がふくれあがるように爆発したのだ。
火を噴き出し、轟音が鼓膜を叩く。
舌を出したナナや、体を転がして逃げたマキが爆炎に巻き込まれる。少し遠くにいたハルもただでは済まず、爆風で吹き飛ばされた。大型テレビに背中を打ち付けて、床を転がる。もうもうと巻き上がる噴煙が巨大なフロアの三分の一を埋め尽くしていった。壁の一部だったコンクリートが頭の上にぱらぱらと落ちてくる。
背中に激痛を背負いながら首をめぐらすと、すぐそばでマキが咳き込んでいるのが見えた。
離れていたのにここまで吹き飛ばされてきたと考えると驚きだ。
「ごほ、ごほっ! ……うう……」
爆炎を浴びて制服が焼けこげているが、どうやら大きな怪我はないらしい。
「だ、大丈夫か? マキ?」
マキのそばに這っていき、肩に手を置く。
「なんとか動けるくらいには大丈夫です……それよりお兄ちゃんは……?」
「大丈夫な訳あるか……体中が痛いぞ」
ひざに手をついて立ち上がる。痛みでひざが落ちそうになる。
「……あ、痛い痛い。やっぱりマキも痛いです。特に胸が痛いみたいです……これは早期治療が必要ですね。今すぐに、愛情を持ったお兄ちゃんの手厚い触診介護が!」
床にぺたんとお尻をつけたまま、立ち上がったハルに手を伸ばす。甘えるような声は涙を伴っていた。
「よし、大丈夫だな」
乱暴にマキの手を払うと、マキは力なくその場に体を横たえた。割れた液晶テレビのパネルを手にとって、床に文字を書いていた。
「いいんです……お兄ちゃんにとって、マキなんてそんな存在でしかないんです……しくしく」
愛、という字を書いているようだったが、変、という文字を書いてしまい、慌てて書き直していた。
クリアになっていく煙の向こうには青空が見える。どうやら爆発は壁を突き抜けたようだった。空いた穴の向こうを白い雲が流れていく。風穴の空いた壁の鉄筋は折れ曲がり、高価な液晶テレビが全て傷物になっている。最後まで残っていた液晶テレビの画面も砂嵐に変わり、やがて力を失ったようにぷつりと消えてしまう。
「にゃうう……何でうまくいかないのかなぁ……またほこりだらけ……」
そのテレビに手をついて姿を現す黒いレザースーツの少女。
短い髪を灰で汚したまま、ゆっくりと歩いてくる。刀を引きずりながら、つぶらな瞳をハルに向ける。
「……にゃ?」
猫のような声は驚きだろうか。まん丸の瞳がハルから離れる。
ハルもつられて視線をなぞった。
「どうやら、上層部の読みは正しかったようですね」
「もう駄目……。面倒くさすぎるわ……体力の限界よ……ゼェ……ハァ……」
声はハルが上ってきた非常階段からだった。