第十三話・「み〜つけた!」
四階にあるパソコンのパーツ売り場を歩くハル。
しかめっ面で、ショーケースの中にあるグラフィックボードを眺めながら、ため息をつく。
「家にあるパソコンは寿命だったのかもな……」
何年も前から妹と共有してきたパソコンだった。兄妹でハードディスクを分け合って使っている。デスクトップの右と左に、互いがよく使うショートカットが作成してあるのが特徴。
右にマキ、左にハルのショートカット。
プライベートがないように感じるかもしれない。そこのところはハルも承知の上だった。どんなにパスワードをかけても、マキはたちどころに通り抜けてしまう。一時はハッカーの才能があるのではないかと疑ったこともある。
マキが言うには、お兄ちゃんのパスワードは単純なんですよ、マキが分からないわけないじゃないですか、だそうだ。ハルがいくら頭をひねっても簡単にパスワードを突破しいくマキに、ハルはとうとうパスワードをかけることを止めた。
それが伊達家のプライベートが崩壊した瞬間でもあった。
「さて、どうしたものか」
パソコンのパーツと懐具合を比べながら、パソコンの破損箇所を思い出す。電源を入れればハードディスクの起動音はする。しかしディスプレイがつかない。ディスプレイ自体に問題はなかったので、分解して確かめたところ、グラフィックボードはぴくりとも動こうとはしなかった。間違いようのない、ご臨終だった。
「ニャン太の写真ぐらいは、なんとか救出してやりたいな……」
愛猫の可愛らしいあくび姿。カーテンのそばで丸くなって寝ている姿。猫じゃらしと戯れている姿。足にすり寄ってきたり、肉球をもまれて喜んだり、ケンカしてぼろぼろになって帰ってきたこともあった。それら数々の思い出が、パソコンのフォルダの中に詰まっている。思い出だけでは保管しきれない大事な画像達。愛猫ニャン太の生きてきた証。ハルにとっては宝物にも等しい大事なデータだった。
思い出すだけで頬がゆるんでしまうハル。
「とにかく、この際だからパソコン本体ごと新しくするか……? いや、それだと今月の生活費が厳しいか……でも、最近はインターネットを立ち上げるのでさえ遅くなってきているし、今のパソコンは安くて早いのが揃ってるから、今が買い時なのかもしれない。いつハードディスクごと壊れるかっていう不安を抱えながら使うよりも、新品にした方が安心なんだよな……」
愛猫ニャン太の写真を眺めたり、可愛い猫画像を見るのがハルの数少ない趣味の一つ。集めに集めた猫画像が消えてなくなることだけは、なんとしても避けたい。
「仕方がない、久しぶりにパソコンを一から自作してみるか。幸いハードディスクは生きているんだし、後でデータを吸い出せば何とかなるだろ」
マザーボードコーナーに足を運ぶ。
「このマザーボードに適応するCPUは……これでいいか。メモリは……」
頭に想像上の筐体を思い浮かべて、そこに購入予定のパーツを詰め込んでいく。
「ハードディスクは……嘘だろ? 使い切れないほど大容量なのに、こんなに安く買えるものなのか……。月日が流れるのは早いな」
日々、新製品が飛び出してくる現代にあって、パソコン業界の栄枯盛衰は光陰矢のごとし。革新的なアイディアが、まるで湯水の如くあふれ出してくるようだ。もちろん、そこにはたゆまぬ企業努力がある。それに加えて、古代文明研究家の研究努力も加わる。過去の技術を現代に蘇らせる尽力、世界中を飛び回る発掘家の危険を顧みない勇気など、計り知れない汗水が毎日流されているのだ。それらをふまえた上で、パソコン業界の進歩はもはや異常とも言えるほどだった。
「それにしても問題はOSだ……何でこんなに値段が高いんだ? 詐欺じゃないのか?」
買い物かごにパーツを詰め込んでいくハルに、そんな企業努力など知るよしもない。
「電源は今使っているパソコンのを使い回せたはずだ。そうすると、あとはマキが壊したグラフィックボードか」
最初に立ち寄ったグラフィックボードコーナーに舞い戻り、腕を組んで考え始める。
「…………それにしても」
かごの中にあるパーツ群に目を落として、ハルはエスカレーター付近に目をはせた。
「パソコンを壊した張本人はどこに行きやがった!」
エスカレーターから吐き出されていくのは、学生や、会社帰りのサラリーマンばかり。赤い髪留めをしたマキはいっこうに現れない。あれほどしつこかったマキがいないと、世の中はこれほどまでに静かなものなのだろうか。メガホン片手に高いところでたたき売りを実行している店員の大声でさえも、耳をかき回すまでには至らない。父親の手を引いてはしゃぐ子供、女子高生達の甲高い笑い声、アニメ話に興奮するどもり声や、てきぱきと対応する店員の張りのある声も、全てが無味乾燥な音に聞こえてしまう。それだけマキの喧騒がひどかったと考えることもできる。腕を取られ、裾を握られ、ぐいぐいと引っ張られる。嫌だと言っても、自分勝手にわがままを押し通そうとする妹。確かにそれはうざったいことこの上ない。でも、なくなると今度は静かすぎて落ち着かなくなる。
祭りの翌朝、道ばたに残った大量のゴミを見るときと同じだ。祭りの賑やかさの裏側で人のモラルが悪化していくような。笑顔の裏で、密かに悲しみが募っていくような。
「一人で駅前のイベントでも観に行ったんだろうな」
やるせなさ。残念だと一瞬でも考えてしまったハルがいた。
「……別に、寂しい訳じゃない。そんなんじゃない。寂しいわけあるか」
誰に言うでもなく、ハルはグラフィックボードを眺めながら呟いていた。
ショーケースに映るのは、前髪で隠された冴えない顔。鋭い目つきは何者をも拒絶するかのよう。
その瞳の先に陽炎の如く浮かび上がるのは、白と黒で彩られた葬儀場。悲しみが充満し、涙滂沱として流れ、焼香の煙が鼻の奥をつく。
――失ったはずだった。二度と戻ってこないはずだった。
「グラフィックボードを買って終わりなんだ。買って、さっさと帰ろう。猫画像……なによりニャン太の画像を取り出さないと」
パソコンが壊れたなら、買い換えればいい。パーツが故障すれば、交換すればいい。貴重なデータなら、二重三重にバックアップすればいい。そうすれば、二度と失うことはない。壊れて悲しむことはあっても、新しい物を買って悲しみは消える。すぐに忘れ去っていく。
……でも。
……発掘調査に向かったまま帰ってこなかった両親は。
……冷たくなっていた愛猫のニャン太は。
……ただの風邪だったのに、こじらせて消えていった妹の心音は。
暗闇から伸ばされるいくつもの冷たい手。底の見えない泥沼に引きずり込まれそうになるハル。ぶつけられる泥のつぶて。沈んでいく心。
「くそっ……どこで油を売ってるんだよ、うちの妹は!」
ざわつく胸の内を吐き出すように毒づく。
次に会ったら、げんこつどころでは済まさない。小うるさいマキはすぐに周囲に被害を及ぼすだろう。なにせ、生粋の変態で、人並み外れた馬鹿力を身につけた歩く爆弾のような女なんだから。目の届くところに置いておかないと、何かと人様に迷惑をかけるに決まってる。そう、監視役、ストッパーとして、兄である俺がいる。仕方なく一緒にいてやるだけだ。あくまで、仕方なく。これは義務感なのであって、決して寂しさなんて軟弱な気持ちじゃない。
「早く来いってんだよ、まったく……」
考えすぎたせいか、脳が痛みを発しだした。
ハルはグラフィックボードのパッケージを乱暴に買い物かごに突っ込むと、素早くきびすを返す。
そして、気がついたときには遅かった。
目の前に小柄な影が向かってくるのが見える。考え事をしていたせいか、振り返った拍子に体をぶつけてしまった。
「あ、すみません。考え事をしていて……」
前髪を垂らして、ハルは小柄な影に陳謝する。
「み~つけた!」
嬉しそうな声が聞こえて下げた頭を持ち上げれば、目の前には小柄な少女が何事もなかったかのように立っていた。白いスニーカー、デニムのショートパンツ、丈の短いティーシャツ……とハルは視線を上げていく。凹凸の少ないスレンダーな少女の体が目の前にある。シャツがぴったりと体に張り付いているので、体のラインがはっきりと見て取れた。さらには可愛らしくへそを出し、これでもかというほど太ももを露出させている。
凝視してはいけないと分かっていながらも、ハルは目を離すことができなかった。
「……にゃ?」
少女が不思議そうに首をかしげる。ぽかんと口を開けたままのハルに見つめ続けられたせいだろう。ボーイッシュな髪型は活発さを体現しているようで、つぶらな瞳はまるで猫のよう。無垢な笑顔で笑う少女に、ハルは愛猫と過ごした頃の昔懐かしさを覚えた。
「ま、いいや! 返してもらうね!」
ハルの顔にびしっと指を突きつける少女。
「返すって? 人違いじゃ……?」
見知らぬ少女に返せと言われて戸惑う。鼻先に突きつけられた指は、まごうことなくハルを指し示している。周囲を見回しても、ハル以外誰もいない。
「人違いじゃないよっ!」
手のひらが伸びてきたと思ったら、少女はハルの胸に飛び込んでく
る。ハルの胸に頬ずりし、柔らかな体を押しつけてくる。まるでハルの中に入ろうするかのように耳を押し当ててくる少女。ハルは目の前が真っ白になりかけながらも、なんとか意識を保ち続けた。凹凸がない体といえども、そこにある感触は間違いなく女の子だった。
「にゃむぅ……この感じ、間違いないよ。起動してる」
緊張のあまり、関節という関節にブレーキが掛かり、動くことができなくなるハル。その分感覚は鋭敏化し、少女から与えられる女の子という膨大な情報が頭に流れ込んでくる。
「手遅れにならないうちに、ナナが取り出さなくっちゃ!」
女の子が体を離す。ハルは名残惜しいと思ってしまう邪な心を、首を振って払う。
「……ナナが……取り出す……?」
「うんっ! だから覚悟してねっ!」
くるりと一回転するナナ。まるでスイッチだった。映像でも見せられていたかのように衣服にノイズが走ったかと思うと、次の瞬間には、黒いレザースーツがナナの体をぴっちりと覆っていく。右手には店内の照明を受けて輝く一振りの日本刀。
「なっ……!」
視認したのは銀の線。
無意識のうちに後退した自分自身を誇りたい。
ハルは切り落とされた数本の前髪と共に、腰を抜かしていた。
持っていた買い物かごは、すでにその用途を失っている。見事な切れ口。購入予定の品々がバラバラと床に転がる。マザーボードやその他部品は箱ごとまっぷたつで、切断された回路が床に散らばった。
驚きのあまり助けを呼ぶこともできない。
逃げられない。殺される。
できるのは願うことだけ。持病の偏頭痛をもてあますことだけ。
「これで終わりっ!」
ハルは死から目をそらすように必死に目をつぶる。
何かがまぶたの奥に浮かんだ。
これは走馬燈だろうか。
――……お兄ちゃん……私……。
一度は病床で命を落とした妹。
喜怒哀楽、様々な感情。
共有した家族。
兄と妹。
絆。
(……マキ、悪い)
ハルが心から漏らした言葉の先に。
いつまでも訪れない死の先に。
開けた目の先に。
「お兄ちゃん、置いてけぼりは寂しかったです」
妹の背中があった。