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プロローグ

 ――妹がこの世を去った。


 言葉にすれば、息継ぎをする必要すらない情報。けれど、嫌でも理解させられるその一行の文章が、白と黒で彩られたしめやかなホールに溢れている。

 伸びた前髪で表情を隠しながら、兄である伊達ハル(だてはる)はかみしめる。

 死因は、新型のインフルエンザ。

 伊達マキ。高校二年生。享年、十七歳。

 あまりにも早すぎる、死。

 たくさんの花束に埋もれたマキの遺影写真は、高校進学を記念して撮影したものだ。妹の隣には、兄が仏頂面で写っているはずだった。遺影写真にするために必要だということで、ハルが業者に渡した写真。後日、マキの服はデジタル処理によって喪服にすげ替えられ、ハルの姿は綺麗さっぱり排除されていた。

 次々と焼香に訪れては涙を流すクラスメイトや、面持ちを悲しみ色に染める人々。彼らは写真の中で微笑むマキを見ては一礼し、たった一人残されたハルに対しても深々と頭を下げた。ハルはその度にお辞儀をし、前髪で顔を隠す。作業と化した返礼で腰を痛めながら、ハルは顔を上げる度に実の妹の写真を盗み見た。

 すっきりとした鼻柱を中心線として、右側の前髪をかき上げ、赤い髪留めで留める特徴的な髪型。広いおでこなのに常に前髪をかき上げるから、否応なしにおでこはその広さを主張する。写真写りはよいようで、卵のようにつやつやで、血色のよい顔が朗らかだ。絶え間なく笑いかけている口角の広がりは、まさにひまわりの縁取り。つぶらな瞳には純朴さが満ちあふれていて、疑うことを知らないようにさえ見える。

 この世を去った者とは思えない可愛らしい笑みが、葬儀場を包み込む。


「ハル……しっかりしろよ」

「ハル君、頑張るんだよ」


 クラスメイトに続いて、近所に住んでいるおじさんが、ハルの肩に優しく手を乗せた。普段から作り笑いをしたことがないハルは、気遣いからか無理に笑顔を浮かべようとする……が、あっけなく失敗してしまう。そんなハルを見て、何人かの参列客が目元にハンカチを持っていく。

 対して、ハルの目には涙はない。

 一番身近にいた人間がいなくなるという経験は、ハルにとっては初めてではなかったからだ。

 生まれたときから一緒に育ってきた愛猫のニャン太が、朝起きて冷たくなっていたとき。

 海外へ発掘調査に出た父と母が、突然、行方不明だと知らされたとき。

 ハルは心の中にぽっかりと空いてしまう寂しさを感じながら、どうにかこうにか生活してきた。妹と二人きり、二人三脚と呼ぶにはあまりにも賑やかすぎて、逆にうざったくなるような生活の連続。

 ……妹の存在。

 たった一人の家族であり、人付き合いの苦手な自分となんの壁もなく向き合ってくれた同い年の妹。絶対に訪れる悲しみという奈落を忘れさせてくれた……というか、奈落を埋めてお釣りが来るほどの賑やかさと、無駄な喧噪を提供してくれた妹。

 万華鏡のように、妹との思い出が四方を駆けめぐる。

 悲しみを越えた先に、妹マキとの思い出があり、その思い出の中のハルはひどく困ったように頭をかいている。

 ふと、ハルは笑いをこぼしてしまいそうなる。

 邪険にしたことなど何度もあった。困らせられた回数はその倍。本当に、はた迷惑な妹だった。あまりの妹の醜態に暴言を吐いたこともあった。泣かせたことも数知れず。どちらかというと妹の方に罪があったから、今でも怒ったことは後悔していない。正しいことをしたという自負もある。

 無洗米を洗剤で研ぐやつがどこにいる。

 電子レンジでゆで卵を作ろうとするやつがどこにいる。

 リンゴの皮をむくだけなのに中身が無くなるまで皮をむくやつがどこにいる。

 無謀だ。そして、馬鹿だ。馬鹿で、どうしようもない妹だった。

 何とか返礼に隠れて顔の形を整えながら、ハルはさらに回想する。

 父にさんざん引っ張り回されて海外の発掘現場を転々としていたとき、親子そろって大けがをしたときがあった。発掘調査中の事故で、死傷者も多く出た。近年では発掘技術の進歩や、出土品の調査も進んでいるため、大規模な発掘中の事故はないが、当時は手探りな部分も多く、危険な作業だったという記憶がある。父は俺を発掘調査員に育てたかったらしいが、全くはた迷惑な話だ。


「ハル……何かあったら私が力になってあげるからさ」


 思い出に浸っていたハルを、クラス委員長の南条こずえ(なんじょうこずえ)が優しい声で遮る。いつもの愛嬌のある笑顔には影。笑うとちらりとのぞくドラキュラのような八重歯に輝きはない。外側にカールさせた元気の良い髪の毛も、今は水でもしみこんだように湿っぽい。


「別に、心配はいらない」


 目を合わせようとしないハルに、こずえは困ったように苦笑いを浮かべた。


「こんな時でも素直じゃないんだから。でも、その方がハルらしいのかな?」


 耳を澄ませば、生前、妹の好きだった曲が優しく耳元を流れていく。

 ギターつま弾くバラードで、亡くした恋人を探してしまうという歌だった。

 もう一度だけ、もう一回……そんな歌が、ホールを包み込む。


「ごめん、私……こんな時に限って……気の利いたこと何も言えないや……」


 壇上で微笑むマキを見たこずえの目に、大粒のきらめきがたまっていく。


「気の利いたことを言えないのはいつもだろ。いまさら反省しても遅い」


 初めて見るこずえの涙に、ハルは慌てて目をそらす。


「あはは……そうだよね……そうだよね……そうだ……よね……うぅ……っ」


 反撃する気力もなく、ぽろぽろと絨毯に涙を染みこませていく。


「……泣くなよ、みっともない。マキが見てるだろ」


 着慣れない喪服の胸ポケットから、ハンカチを取り出す。乱暴に差し出されたハルのハンカチに目を丸くするこずえ。こぼれる涙もそのままに。


「これ……猫柄だね……」

「悪いかよ」


 ハンカチには大小様々な猫の顔があしらわれている。


 ――はい、お兄ちゃん。大好きな猫さんのハンカチだよ! 大事にしてね! 絶対だよっ!


 デフォルメされている猫の顔はどれもかわいげがあり、思わず顔がほころんでしまいそうな癒しがある。一方でそのハンカチは、強面のハルには不釣り合いな代物だった。長い前髪と切れ長の目、なおかつ長身痩躯という要素も不釣り合いに拍車をかけている。


「ハルは猫好きだもんね」

「……好きで悪いかよ」


 涙顔にハンカチを押しつけてやる。こずえは壊れそうな笑みを浮かべると、ハルに深く一礼してマキの元に歩いていく。マキを見上げ、ゆっくりと焼香を済ませるこずえの頬を、涙がまた一つ流れていく。


「……委員長を泣かせるとは、お前もやるな」


 遺影の中の笑顔は色あせることはない。

 今でもそこに生きているかのように輝き続けているマキの笑顔が、ハルを再び過去の情景へと引き込んでいく。

 発掘調査中の大事故で大けがをした父と俺。気を失っていたので詳しい事情は分からないが、俺は生死の境を何日もさまよったらしい。目覚めてみればミイラ男になっていたのだから、相当な大けがだったのだろう。

 発掘調査中の事故により、包帯ぐるぐるミイラ男……そこにファラオの呪いに似た特大の皮肉を感じなくもない。

 怪我の後遺症として悩ませられる偏頭痛。痛みに慣れることはないが、わめくほどではない。それよりも、病室で目を覚ました俺に抱きついてきた妹の泣き顔が、今でも目に焼き付いて離れない。


 ――お兄ちゃんが……お兄ちゃんが、目を覚ましてくれた……うわああああぁん!


 開けてしまったパンドラの箱の隅に、実は希望があることを初めて知るような。地獄の底で空を見上げたら、天から蜘蛛の糸が垂れ下がっているのを見つけたような。

 とにかく、妹の極上の嬉し泣きがそこにはあったのだ。

 後にも先にも――もう先にはないが――そんな妹の笑顔を、俺は今でも克明に覚えている。

 自分の命が助かったという以上に嬉しいことがある。

 マキは俺にそんな貴重な体験をさせてくれた。


「後にも先にも、か」


 香の焼ける独特のにおいが、ハルの肺にたまっていく。

 もう一度だけ、もう一回だけ。

 マキが好きだった曲が、ホールを満たしていく。うるさくて、煩わしくて、時間を無駄に浪費していたと思えた毎日が宴たけなわな生活を、まさか懐かしむ日が来るなんて。

 想像もしていなかった。

 病院でゆっくりとまぶたを閉じた妹の顔。医師の瞳孔確認。かぶせられた白い布。

 信じることができなかった。今でもそうだ。

 たくさんの花束に埋もれたマキの遺影や、次々に焼香に訪れる知人達、喪服に身を包んだ先生方、俺を励ます言葉の数々に、驚くほどてきぱきとマキの葬式を執り行う喪主としての自分自身も。

 全部が全部、信じられるわけがない。妹がいなくなってからの毎日は、悲しむ暇なんてなかった。地に足がつかない状態なのに、足は棒にして忙しく走り回らなければならなかった。まるで何かから逃げるようにして、俺は駆け回っていたんだ。

 そして今、ようやく、何かを実感しはじめた。

 何かがじわじわと染みこんできた。

 頭痛がハルを襲いはじめる。


「くそっ……」


 手のひらに爪が食い込んでいく。忙しさから解放され、第三者のように見えていたハルの視点が、ようやくハル自身の元へ返ってくる。自分自身の目で、ハルは現実という名の残酷をにらみ付けた。

 妹の笑顔を鋭い眼光で。花束を吹き飛ばすような気概を持って。

 ぎりりと奥歯をかみしめて、拳をふるわせる。

 怒りに震えているのではない。

 大地震の後、波が引き、しばらくして巨大な津波が押し寄せる。

 ハルが直面しているのはまさにそれだった。

 妹の死という衝撃。

 忙殺されていた感情が、痛み増す頭痛を伴って、津波のように押し寄せる。

 壇上の中央で花咲くマキの笑顔。

 もう二度と兄の名を呼び、笑いかけることのない笑顔。

 唯一無二の家族というかけがえのない人。

 伊達マキ。たった一人の妹。真っ直ぐで、しつこくて、煩わしくて。でも、主人の足下を嬉しそうに駆け回る子犬のように楽しそうで。

 もう一度だけ、もう一回だけ。

 何度も何度もサビの部分を繰り返すアーティスト。一オクターブ上がり、つま弾くギターの音が胸を締め付ける。拳を握りしめて絶えるハル。そんな彼の心の琴線をつま弾いていく。

 震える心。きしむ胸。流れ込む歌声。

 全てが感情と一緒くたになって、脳の内部でふくれあがる。天地が逆転するのではないかという激痛が、ハルの頭を揺らす。

 もう一度だけ、もう一回だけ。

 何度も妹を罵った。

 黙っていろと言った。うるさいと言った。馬鹿と言った。目障りだと言った。

 一人になりたいのにさせてくれなかったし、勉強の妨げにもなったし、頭痛の種にもなった。怒鳴ったし、叩いたこともあった。無視もした。心底ではないにしろ、いなくなってしまえと思ったこともあった。

 ……でも、それでも、本当は。本当は、俺は……妹が――

 ありったけの力でまぶたを閉じた。表情筋が釣りそうなほど。

頭が砕け散るような偏頭痛。導火線に火がついた感情のダイナマイト。

両方とも爆発寸前。

 もう一度だけ、もう一回だけ。

 アーティストのしわがれ声が最高潮を迎える。肺を振り絞って、声高らかに歌い上げる。

 激痛、激痛、激痛。

 気が狂いそうになる頭の痛みに、意識を持って行かれそうになる――


『一度だけでいい、もう一回だけでいい』


 強く願った――まさにそのときだった。

 焼香に訪れた客から、悲鳴が上がる。

 戸惑いの声と、怒号が入り交じって、ホールは一瞬のうちにパニックとなる。

 目を開ければ、ホールはまばゆいばかりの光に包まれている。整然と並べられたイスが蹴飛ばされ、飾られた造花がうつぶせに倒れ込む。焼香の粉が舞い、灰色の絨毯は真っ白なグラデーションに変わる。喪服の黒が光の中で幾重にも浮かび上がり、まるで閃光弾でも落とされたかのように影を引き延ばす。激しさを増した頭痛に意識がとぎれそうになりながらも、ハルは何とか手のひらでひさしを作る。

 ホールで何が起こっているのか。テロか、事故か。よぎる不穏な想像を、光は容赦なく消し去っていく。あまりにもまばゆく、それでいて暖かい光の奔流。それは神々しささえ感じられる光だった。人々の叫びが四方八方に散っていく中で、光は急に放つ光を集束させはじめた。光が帯になり、帯は壇上で互いを絡ませあう。光が球体に集束を終える頃には、ホールを覆っていた光は収まり、荒れ果てた葬儀場だけが残る。

ハルは頭痛に必死に耐えながら、光球を呆然と見つめていた。

 まばゆい光を放つ球体は、やがて卵が割れるような音を伴って四散する。同時に、再度巻き起こる光の爆発。目に飛び込んできた閃光に視界をつぶされてしまう。しかし、光の欠片は特に何か被害を与えるということはなく、光を失った蛍のようにすうっと消失していった。ハルは視界を取り戻しつつある両目の中に、淡い影を見た気がした。

 ぼやけた視界の中で、ハルの目は焦点を取り戻す。

 やはり気のせいではなかった。

 淡い影はぼうっと浮かび上がるように未だそこにある。未知との遭遇か、はたまたこの世の終わりか。少しずつ遠ざかっていく頭痛の中で、ハルは視界を取り戻していく。

 影は風前の灯火のように揺らめいたと思った瞬間、ハルに急速接近する。ハルの視界の回復を待つつもりはないらしい。獲物を見つけたかのように猛然とハルに飛びかかる。

 ――避けられない。

 ハルは覚悟した。訪れるのは、痛みか、死か。

 ……けれど、死を呼ぶ激痛や、吹き出す血潮はいっこうに訪れない。

それどころか、暖かさに包み込まれた。顔に何かが抱きついている感触。

 柔らかい。まるで人肌の温もりのような……。

 ハルは何とか顔面に取り付く影を引きはがす。


「…………会いたかった……です……!」


 歓喜の顔は、病院で焼き付いた笑顔とうり二つ。

 もう一度だけ、もう一回だけ。


「……会いたかったです……お兄ちゃん……っ!」


 伴奏の伴わないかすれ声が、余韻を残してフェードアウトしていった。



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