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白い靴下

作者: 小松郭公太

 二号館の階段を登った広い踊り場は次の講義の始まりを待つ学生たちで

ごったがえしていた。三百人が入る階段教室の中からマイクを使った教授の声が聞こえてくる。次の講義は必須科目の中でも最難関と言われている人文地理である。教授の高田先生はカードで出席を取るのだが、カードの色を毎回変えるので手に負えない。友達に頼んで上手く逃れる方法もないわけではないが、あれやこれやと手を打つ手間を考えれば、自分でカードに名前を書いた方がよいという結論に達する。


 講義はすでに終了の時刻を迎えているのに一向に終わる気配がない。

あちこちの教室の扉が開かれ学生たちの移動が始まっているというのに。


 中庭の噴水の周りでギターとアコーディオンの演奏がはじまった。歌声サークルの連中である。聞こえてくる歌は五つの赤い風船の「遠い世界に」。丸い輪になって真剣な眼差しで歌っている。


 体育館に続く階段のあたりで派手な立て看板を背にアジ演説が始まった。ハンドマイクを肩に掛け慣れた調子で一方的な話を続けている。ハンドマイクの主は学生委員長の永瀬清道である。

「大学当局の不当な処分に対して我々学生会は断固として抗議するものである。そもそも我々に対する一連の攻撃は、学生会の民主的自治に対する嫌がらせに他ならない。我々は断固として闘う……」


 百八十センチメートルを越す長身。長髪にジーンズ。どこから見ても立派な活動家の風貌である。彼は以前、数名の仲間を従えて授業前の教室に現れたことがあった。その日のアジは、新入生に対する学生会組織加入の勧誘だった。次第にエキサイトしてくる彼の演説は、あまりに一方的で皆うんざりしていた。授業の時間になり、老齢の教授が教室に入ってきたのだが、彼はそれに気付いていないのかどうか、演説をやめようとしない。たまりかねた教授が永瀬の前に立ち、演説を征するように手を軽く挙げた。


 彼らは自らを学生会と名乗ってはいるが、どうも大学には正式に認められていないらしい。あまりにも政治色が強いため、大学は彼らの存在を煙たがっているのだ。確かに、彼ら学生会のメンバーは皆民青に属しており、国政選挙などがあるとあからさまに特定の政党を指示していた。


 講義が始まるまでの数分間、階段教室をアジ演説の場に変えてしまうセクトは他にもあった。社学同、社青同、第四インター等々、教壇に上がり何かを懸命に訴えているようだが、私には彼らの言っていることがさっぱり分からない。彼らは大抵五、六人で現れ、リーダー格の一人が教授のマイクを勝手に使って話す。そして他の数名はアジビラを配ったり、リーダーの背後で不動の姿勢をとっていたりするものである。


 ある日、その不動の姿勢をとっていた数名の中に同じクラスの女の子がいるのを見つけ、彼女を知る者たちは皆一様に驚いた。彼女は他のメンバーと同じように「第四インター」と赤く染め抜かれたゼッケンと鉢巻を身に付けている。彼女は特別な役割を担っているようでもなく、ただそこに立っているだけだったのだが、「第四インター」というラベルがあまりにも強烈で、まだ幼さの残る彼女が痛々しいく感じられた。


 それは、後期の授業が始まった直後のことだった。大学に入って初めての長い夏休みは、学生の外面も内面も大きく変えるものである。私のように郷里に帰ってのんびりとアルバイトをして過ごした者でも、少しばかりの達成感を得て後期を迎えているくらいだった。その日焼けした顔が労働によるものなのかバカンスによるものなのかは区別はつかないが、それぞれが新しい何かを経験して大学に戻ってきていた。特に女子学生の出で立ちには変化が大きく、着ているものも化粧もぐっと大人っぽく見える。今、教壇の上に立っている彼女にいったい何があったのか。


 彼女とは語学のクラスが同じで何度か話したことがあった。出身は北海道釧路市。冬は雪は降らないが息が凍るほど寒い。スケートが得意。飛行機代がかさむので五月のゴールデンウィークは家には帰らない、と話していたことを思い出す。夏休みも帰らなかったのだろうか。クラスのコンパには一,二回は参加していたが、次第に姿を見せなくなり、気がついたら授業で会うこともなくなっていた。キャンパスではときどき見かけることもあり、すれ違うときに、「やあ」と挨拶を交わしていたのだけれど。


 教室の中にはアジビラが散らかり、キャンパスには立て看が乱立していた。多数のセクトが階段教室を占拠するかのように我が物顔でアジ演説をする。そのような中で永瀬たち民青がキャンパスの中心である中庭を独占できるのも、学内における彼らの勢力の大きさなのだろう。


 歌声サークルの歌声とハンドマイクのアジテーションが不協和音を奏で学内に響き渡る。

「おいおい、いい加減にしてくれよ」

騒音と化したそれぞれの主張にはほとほとうんざりしてしまう。私は彼らの声に背を向け階段教室の方に歩き出した。

 

 その時である。

「待てえ。テロだ、テロだあ」

ほとんど悲鳴のような声がハンドマイクを通して聞こえてきた。同時に歌声サークルの歌が止み、中庭は一瞬の静寂に包まれた。踊り場で講義を待つ学生たちの目が一斉に中庭に注がれる。ダッダッダッダ―、と中庭のアスファルトを蹴る幾つもの音。すると、一号館の白い壁の前を十数名の集団が駆け抜けて行くのが見えた。彼らはお揃いのチューリップ帽をかぶり、手に何か棒のようなものを持っていた。逃げ足とは速いものである。一瞬にして彼らの姿は、私たちの視界から消えていってしまった。


 静寂が続いている中、目を歌声とアジ演説で賑わっていた方に向けると、噴水の当たりが人垣でいっぱいだった。そして、その人垣が更に人を呼び、大きな円陣ができあがっていった。そこで何かが起こっていることは遠くから見ても分かった。


 静寂は続いている。やがて円陣が崩れ、集まった人々が少しずつ動き出すと、その集団から一人抜け出した姿が見えた。永瀬清道である。永瀬は背中にスカートの女性を背負っていた。そして、その女性を気遣いながら一緒に歩くもう一人の女性がいた。背負われた女性はぐったりとその体を永瀬の背中にあずけ、もう一人の女性はこみ上げる嗚咽を必死にこらえているようだった。私は、その二人の女性を見て唖然としてしまった。


 あれは入学して間もない頃のことだった。知り合ったばかりの同級生と二人、学食で一番安いC定食を食べていたときのことである。

「ここ空いてる」

と、人なつっこい声で私の右隣に丼の載ったトレイを置いたのは、落ち着いた雰囲気の一人の女性だった。白いブラースにグレーのカーディガンを羽織っている。少しニキビの痕が残る顔にきれいに化粧をしていた。小さめの目元をマスカラとアイシャドウで補っているのが分かる。私が緊張した面持ちで、

「はい」

と応えると、女性は離れたところにいる誰かに軽く手を振って、「ここにしよう」という合図を送った。間もなくもう一人の女性がテーブルに近づき、互いに顔を見合わせたかと思うと、フゥーとため息をついて席に座った。もう一人の女性はジーンズにピンクのセーターを着ている。席に着くときにセーターの胸が揺れた。


 ガツガツと丼飯を胃袋に流し込んでいる私たちのの横で彼女等は、静かにうどんか何かをすすっていたが、私が何気なく斜め前に座っている後から来た女性の方を向き丁度目が合ってしまったとき、隣の女性が声を発した。

「君たち、一年生だよね。大学はどうお。もう慣れた?」

「はい、ぼちぼちってところです。はい」

と、私が頭を掻くと、今度は斜め前の女性が友人の方を向いて、

「君は、出身はどこ?」

と訪ねた。友人は少し顔を赤くして、

「福島です」

と答えた。同じ質問に対して私は、秋田と答えた。

「二人とも、真面目そうね」

「ところで、サークルとか決まった?」

と二人の女性が交互に話した。

「いやあ、まだ決めてないんですが」

と答えると、友人が話し出した。

「僕はまだ決めてはいないけど、ボランティア関係のサークルに入ろうと思っています」


 確かに彼はクラスの自己紹介でもそんなことを話していた。彼には障害をもった弟がいて、子どもの頃からよく面倒をみていたのだそうだ。今は家から離れた施設に入居しているのだが、たまに面会に行くと弟はもちろん、他の子どもたちまで喜んでくれるという。そんな話を聞いていたものだから、彼がボランティア関係のサークルに入りたいというのは本当のことだと分かった。私は、高校時代やっていた吹奏楽でもやろうか、とは思っていたが、それほど強い気持ちがあったわけでもないので、そのことは話さなかった。


 彼女等は友人の発言に俄然興味をもったようである。

「へえ、そう。実は私たちもボランティアやってるのよ」

ピンクのセーターが言うと、

「社会福祉研究会って、固そうなサークルでしょ。でもね、中身はちがうのよ。毎週日曜日に施設訪問をして子どもたちと遊んで、その後はたいてい飲み会をやるのよ」

とグレーのカーディガン。

「春はお花見、夏は海、秋は芋煮会、冬は……、冬は何にもないかな」

とピンクのセーターが言って、二人して声をたてて笑った。そして、

「ねえ、サークル棟へ行ってみない。ちょっと汚いけどね」

と、二人は顔を見合わせた。


 サークル搭は、図書館の後ろ、西側通用門のそばにあった。アパートのような棟は北向きで、各サークルの入り口には思い思いに落書きのような看板が掲げられていた。一階の一番手前に「社会福祉研究会」と書かれた部屋があった。結構ちゃんとしたサークルではないか。

「さあ、どうぞ」

と彼女等はドアを開けようとした。

「あれ、鍵がかかっている。どうしたのかな、今日は空いている日なのに、おかしいな」

と、二人して怪訝そうな顔をした。

「という訳で今日は入れないみたい。ごめんなさい」

とカーディガンの女性が、また人なつっこい声で言った。


 と、もう一人のセーターの女性が、急に踵を返して通用門の方に走り出した。するとカーディガンの女性は、図書館の二階に目をやったかと思うと、セーターの女性を追いかけるように走り去っていってしまった。その場に取り残された友人と私は、思わぬ展開に首をかしげるばかりだった。

 

 そこへ一人の女性がやってきた。ジーンズにデニムのジャケットを着ている。ロングヘアを後ろできっちりと結んでいる。

「あなたたち、気を付けた方がいいわよ」

私たちは、「はあ、何のこと」という顔をした。

「そうよね。知らないわよね。あのね、さっきあなたたちが話していた女たちはね。革マルなのよ」

「革マル!」

私たちは声を合わせ、顔を見合った。

「私は、学生会の高橋五月。あの女たちには近づかない方がいいわよ」

と知性的な口元が語った。


 彼女等は私たちをセクトに入れようと近づいてきたらしい。サークル棟に連れてきたのは、自分たちのサークルがちゃんと実在する信用のおけるサークルであることを印象づけようとするため。社会福祉研究会というサークルは地道にボランティア活動をしている大学公認のサークルであり、彼女等はあたかもそこが自分たちの居場所であるかのように演出したのだ。ところがその一部始終を図書館にいた五月さんが見ていたというわけだ。図書館の二階から見ていた五月さんをセーターの女性が見つけ、慌てて立ち去ったということなのだ。カーディガンの女性は青木洋子、セーターの女性が立花佳枝であることも教えてくれた。


「いやあ、危なかったなあ。ああやって勧誘するんだ。俺たちもまだまだ子どもだなあ」

「まったくだ。でも、あの五月さんという人には助けられたな」

私たちは、大学というところの裏側を垣間見たようで、少し興奮しながら帰路についた。


昭和四十三年、東大安田講堂が全共闘に占拠されたとき、私は小学五年生だった。安田講堂に立て籠もり、投石や火炎瓶による抵抗を続ける学生たちに機動隊は放水と催涙ガスを浴びせながら講堂に突入していった。その様子を白黒テレビで観ていた私は、子どもながらに、どこまでも抵抗を続ける学生に同情していたものである。


 昭和四十七年の「あさま山荘事件」のときは中学三年生になっていた。何日も続く連合赤軍と機動隊との攻防をテレビに釘付けになって観ていたことを思い出す。しかしこの時、銃で武装化した集団に同情する気持ちは微塵もなかった。僅かに開けた窓から銃で機動隊員を狙う映像に強い怒りを覚えたものである。


 この事件以後、国内における学生運動は衰退の一途をたどり、運動は国際的な組織によるテロ行為へと変質していった。そして、私が大学に入った昭和五十一年当時は、学生運動はすでに末期を迎えていたのである。


 大学で革マルがテロにあった日の夕方のことである。私は、大学の東門近くの下宿に戻っていた。夕食までにはまだ少し時間があった。机代わりにしていた炬燵の前に胡座をかき、読みかけの文庫本に手を伸ばしてみたが、活字がさっぱり頭に入ってこない。思わずそのままごろりと横になり両手で手枕をした。六畳一間の下宿の部屋は私にとっては広すぎる。炬燵とスチールの本棚とビニールでできた洋服ケースがあるだけ。布団を敷いてもまだ余裕のある広さだった。私は天上にある一点のシミをぼんやりと見つめていた。


 そのとき、階段の下から下宿のおばさんの声がした。

「小林さーん、小林さーん、お客様よー」

お客様?いつもの友達だったら、おばさんに一声掛けて上に上がってくるはず。何かの配達や集金だったら、おばさんがちゃんと用件を伝えてくれるはずだ。なんだろうと首をかしげながら階段を降りていくと、そこには背広を着た中年の男性が立っていた。男性は、背広の内ポケットから黒い手帳を出して、

「こういう者だけど。奥羽学院大学の学生さんだよね。知っていると思うんだけど、今日大学で内ゲバがあってね。目撃者を探しているんだけど、見なかった?」

黒い手帳を出したとき、私は「ああ、あのことだな」とピーンときた。刑事ドラマのシーンと同じだった。少しちがったのは、刑事さんの言葉が少し仙台訛りだったことだけだった。


 それにしても、あれだけ大勢の学生がいる中で起きた出来事なのだから、目撃者探しなど大学へ行けば事欠かないだろうに。しかし、その時の私はまだ十八歳。黒い手帳を初めて見せられ、本物の刑事さんに事件のことを聞かれることは、自分の知らない世界を垣間見るようで興味津々だった。「まさか犯人捜しをしてるんじゃないだろうな。変に疑われたらいやだなあ」とも思ったけれども、それよりも知らない世界へ立ち入ることへの興味の方が俄然大きかったのである。


 私が、

「はい、見ました」

と答えると、刑事さんは、

「そうですか。それじあ、すまないけど、ちょっと話聞かせてくれないかなあ。ちょっと上がらせてもらっていい?」

と言って黒い革靴を脱ぎ、私の後について何もない六畳間に入った。


 私は一枚しかない座布団を勧め、ポットのお湯を急須に注いだ。

「いや、お構いなく。」

当時は、学生といえども来訪者に対してはお茶を出すというのは極当たり前のことだった。親しい友達に対してもそれは欠かさなかった。


 刑事さんはお茶を一服啜ると、縦書きの罫紙とボールペンを炬燵の上に用意した。

「早速だけど、これから供述調書を取るのでよろしくお願いします。まず住所・氏名・年齢を教えて下さい」

刑事さんは質問に対する私の答えを文章にして供述調書を作成していく。

「私は、昭和五十一年十月五日金曜日、午後十二時五十分頃、奥羽学院大学二号館の踊り場で五時限の講義の開始を待っていました。中庭の方でハンドマイクで絶叫する声がしたので見ると、チューリップ帽をかぶった男性十数名が手に棒のような物を持って一号館から正門の方に向かって走っていくのが見えました。しばらくすると、中庭の人垣の中からジーパンをはいた長身で長髪の男性が、女性を背負って出てくるのが見えました。その背負われた女性はスカートに白い靴下を履いており、靴は履いていませんでした。怪我の様子は遠くから見たものなので分かりませんでした。……」

私には遠くから見ていたおおよその様子は伝えられても、チューリップ帽の人数など具体的なことになるとはっきりと答えることはできなかった。

「いやあ、小林さん、ありがとうございました。みんな小林さんみたいな学生さんだといいんだけど、学生運動はいけないねえ。それじゃ、お邪魔しました。どうもね」

と刑事さんは黒い革靴を靴べらを使って履くと、私の方を見てもう一度、

「どうもね」

と手を挙げて去って行った。


 下宿の食堂では、夕食が始まっていた。今晩のおかずは焼き魚にキャベツのお浸しだった。ご飯とみそ汁は好きなだけ食べることができたが、おかずはいつも質素だった。肉などが出ることはめったになかった。


 私が食堂に入っていくと下宿の仲間たちとおばさんが今日の事を話しているようだった。

「その子、一言も話さないんだってね。親が来たって話さないっていうから手に負えないねえ。あんたたち、そんなふうになったらいけないよ。国の親御さんからお預かりしているんだからね」

「おれたちは大丈夫ですよ。第一、革命だのマルクスだの難しいことは分かりませんから」

と、同じ大学の佐々木が言うと、北都大学工学部に行っている葛西さんが話し出した。

「今日の内ゲバは革マルに対する中核の襲撃だったらしい。民青の奴らが講堂の前でアジってたぜ。きっとその中核の中にはウチの学生も含まれているはずさ」

「ウチの大学は革マルだからなあ。ウチにも来るんじゃないだろうなあ。勘弁してほしいよ、まったく」

奥羽教育大学の棟方さんが迷惑そうに言った。

「そういえば、今日の襲撃事件の後で、学生会の人たちが男の人を囲んで、『革マル帰れ、革マル帰れ』てやっていましたよ。そしたら、その男の人はジワリジワリと学生会の集団に押し込まれて、最後は走って逃げていったみたいでした」

と私が見たままを言うと、棟方さんが、

「おいおい、その男、黒縁の眼鏡をしていなかったかい。それに、緑色のブレザー着ていなかった?」

「その通りです。髪を七三に分けた真面目そうな人でしたよ」

「そいつだよ。大平っていうんだあいつ」

「なんで棟方さん、その人を知ってるんですか?」

「ああ、あいつはウチの学生だからね。俺と同じ四年生なんだけど、もう八年は大学にいるみたいだ。最近はさっぱり大学で顔を見なくなったけどね。」

「そうでしょ。その大平さんて人、ウチの大学にいますもん。僕はてっきりウチの学生だと思っていましたよ。一回トイレで一緒になって、ヤアって挨拶されたこともありましたよ。なあんだ、奥教大の学生だったのか」


 確かに、あの緑色のブレザーと黒縁眼鏡は印象深かった。ということは、大平も青木も立花もみんなグルってことだ。だったら、大平がトイレでヤアなんて親しげに声をかけてきたのも、もしかして彼らの計略の一つだったのではないか。そんなふうに考えると、今さらながら、あの時彼女等の誘いに乗らなくてよかった。あの学生会の五月さんに感謝しなければ、と思った。そういえば五月さんも「革マル帰れ、革マル帰れ」ってやっていた。 私の思考の場は食堂から六畳間に移っていた。食堂にいた連中も皆自分の部屋で思い思いに思索に耽っているのだろうか。時折、ドアを開け閉めする音が聞こえてくる。


 当時の学生運動は随分下火になってきてはいたが、ここ数年の内に仙台市内だけで数件の内ゲバが起こっている。どこかのセクトから手渡されたビラに書いてあった。昭和四十八年十二月仙台農業大学寮襲撃、同年十二月奥羽学院大学生一名殲滅、昭和四十九年九月奥羽学院大学女子大生二名殲滅。そして今回の襲撃である。殲滅の「殲」は皆殺しの意である。全く身の毛もよだつ行為だ。


 次の日、大学に行ってみると新しい情報が入ってきた。チューリップ帽の男たちが持っていたのは短く切った鉄パイプで、その鉄パイプで革マルの女性二人が襲撃された。そのうち左右の下肢骨折の重傷が青木洋子らしい。鉄パイプで滅多打ちされたのだ。襲撃したのは仙台市内にある複数の大学の学生ということになっている。そして、掲示板の横に特設の看板が立てられていた。


「十月五日正午頃、本学内に複数の外部学生が侵入し、本学の学生を負傷させる事件が起きたことは誠に遺憾である。今回の犯行は、平和と民主主義を希求する本学の建学の精神を根本から揺るがす許し難い行為であり、学問・思想の自由を踏みにじり、自らの片寄った思想を暴力によって実現しようとする真に卑劣な行為であると断言する。本学では今回の事件の背景を十分に調査し、二度とこのような犯罪が起こることのないように本学学生諸君の良識ある行動を求め、ここに本学での一切の学生運動を禁止するとともに次の禁止事項を設けるものである。

一.学内での拡声器の使用禁止。

二.学内での集会行為の禁止。

三.学内での立て看板設置禁止。

       以上 奥羽学院大学 学長」

 

 昼休みになってもハンドマイクを通した永瀬の声は聞こえてこない。歌声サークルの歌も聞こえてこない。私は中庭で噴水の前のベンチに腰掛け、昼休みを思い思いに過ごす学生たちの姿に目をやった。それぞれの語らいの中から時折笑い声が聞こえてくる。もうとっくの昔に終わっていたのかもしれない。しかしどうしても終わることが出来なくてくすぶり続けていた学生運動の灯火が、いよいよ本当に吹き消されようとしているのだ。


 私のようなノンポリ学生が大多数を締めるようになった大学で思想闘争は成り立たなくなっていた。革マル襲撃事件は、学生運動が今まで生き続けていた事実を私に突きつけると共に、一つの時代の終焉を強く印象づけるものとなった。


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― 新着の感想 ―
[一言] タイトルの付け方がうまいです。 白い靴下のイメージが脳裏にくっきり残っています。 主人公の、女学生への思慕の念もあるのかな、と思いました。
[一言] 大学がレジャーランドなどと揶揄されるようになって久しいわけですが、もちろん、大学が見せる顔がそれ一つなどということはなくて、その時代ごとに様々な顔を持っていたこと――そのひとつが伝わって来ま…
2012/10/05 17:03 退会済み
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