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雪の壁とオレンジの秘密

作者: Cookie・bell
掲載日:2026/07/03

札幌の冬は、空気までが凍っているように澄んでいる。大通りのイルミネーションが遠くに見えても、この町外れの小さな公園は、降り積もる雪の音だけが支配していた。

田中花実は手袋でこすったレンズを覗き込み、自分の姿を映そうとして、何度も角度を変えた。着慣れたオフホワイトのチャンキーニットに、オリーブグリーンのロングスカート。その下には防寒用のデニムを重ねるのが、彼女にとって一番「余所行き」の服装だ。耳たぶには開けたばかりの小さなピアスが冷たく触れ、前髪の隙間からは、勇気を振り絞って入れた鮮やかなオレンジのメッシュが少しだけ覗いている。

「誰にも見せられない…… でも、ネットの中だけなら」

匿名アカウント「ハナ姫」に載せる写真。目元だけを画像処理で隠して、この壁の前に立つ。雪の積もったレンガの建物は、まるで秘密を守ってくれるような色合いだった。

シャッター音が響いた瞬間、背後から声がした。

「やあ、田中さん。こんな寒い中で何してるの?」

心臓が口から飛び出すかと思った。振り返ると、同じ町内会で、中学までは集団登校を共にしていた伊奈雄二先輩が、息を白く吐きながら立っていた。高校三年生で、サッカー部で活発、クラスの中心にいるような人。自分とは住む世界が違う、と花実はずっと思っていた。普段は挨拶すらまともに交わさない仲だ。

「い、いなせんぱい……!」慌てて帽子を深くかぶり、マフラーを口元まで引き上げ、オレンジの髪を隠そうと両手で押さえる。耳元のピアスも隠すように頭を下げる。そんな花実の様子を見て、伊奈は一瞬きょとんとした後、「ぷっ」と吹き出してしまった。

「隠しても見えてるよ。そのオレンジ、すごく目立つじゃないか」

「えっ……!」混乱と恥ずかしさで、顔が熱くなる。雪のせいで冷えていたはずの頬が、逆に燃えるようだ。「だって…… こんなの、いつもの私じゃないから…… 変だって、思われるに決まってる……」

うつむいたまま小さく呟くと、伊奈は笑いを収め、少しだけ前に歩み寄った。「変だとは思わないよ。ただ、びっくりしただけだ。いつも家に閉じこもってるイメージだったから、こんな冒険するなんて、どういう心境の変化かなって、気になったんだ」

それが始まりだった。

寒さに鼻を赤らめながら、二人は公園のベンチに座った。雪が肩に舞い落ちる中、伊奈がふと「最近読んでる漫画でさ」と話し出すと、花実の瞳が一瞬だけ輝いた。伊奈は派手なアクションや戦闘シーンが好き。一方の花実は、世界観の設定や登場人物の過去、伏線の回収の仕方を細かく読み込むタイプだ。「そのシーン、実は第 3 巻のここに伏線があって……」一度話し出すと、もう引っ込みがつかない。自分でも驚くほど熱弁をふるう花実に、伊奈は真剣に耳を傾け、「そういう見方があったのか!」と素直に感心した。

それから冬休みの間、二人は時折この公園で会うようになった。いつも伊奈は自販機で温かいココアや甘い紅茶を買ってくれる。手に持ったカップから伝わる熱が、凍えた指先だけでなく、心まで温めてくれるようだった。

秘密の SNS アカウント「ハナ姫」が知られたのは、それから少し経った日だ。伊奈のオタク仲間が偶然フォローしていたことから、「この公園で撮った写真、背景があそこだよな」「考察の内容、田中さんが話してたのとまったく同じだ」と、少しずつ結びついていった。

正体に気づいた伊奈は、すぐに問い詰めたりしなかった。投稿の一つひとつ、「誰かに認めてほしい」「新しい自分を試してみたい」という本音がにじむ言葉を、丁寧に読み取ってくれた。そして、花実が意を決して打ち明けたとき、彼はこう言った。

「仮の姿でも、隠した言葉でも、全部お前自身だよ。俺はどっちも好きだ」

慌てて隠そうとしたオレンジのメッシュは、冬休みが終わる前には黒く染め直す予定だった。だけど、心の中に根付いた「自分を出しても大丈夫」という感覚は、もう色褪せることがなかった。匿名のアカウントに頼らなくても、隠さなくても、ここには自分の存在をまるごと肯定してくれる人がいる。

雪が降り積もる札幌の街で、温かい飲み物の湯気が二人の間を柔らかく包んでいた。



冬休みも残すところあと三日になった午後、花実はいつものレンガ壁の前で、小さな袋を手に立っていた。中には市販の黒染めセットが入っている。鏡を見れば、前髪の間から覗くオレンジ色が、まるで自分の中の「冒険した証」のように鮮やかに輝いていた。

「…… もう、これで終わりだね」

指先で髪をそっとなぞる。開けたばかりのピアスはまだ少しだけ腫れが残り、冷たい風に触れると微かに痛みを感じる。だけど、その痛みさえも、自分が変わろうとした日々の記憶として心に残っていた。

「何が終わりなの?」

聞き慣れた声が後ろからかかる。振り返ると、伊奈が手に二つのカップを持って、雪を踏む音を立てながら近づいてくる。湯気が白く立ち上るのは、いつもの温かいココアだ。

「先輩……」

「黒染め、買ってきたのか」袋をちらりと見た伊奈は、驚いた様子もなく、ただ静かに隣に立った。「休みが明けたら学校が始まるもんな。周りにあまり驚かれないように戻す、って話だったよな」

「うん……」花実はうつむいて、カップを受け取りながら答える。手のひらに伝わる熱が、少しだけ緊張を和らげてくれる。「でも、戻すのが少しだけ寂しいの。この色があったから、この休みにいろんなことができた気がして……」

自分でも思いがけない言葉が口から出た。匿名アカウントで自分を出し、公園で写真を撮り、先輩と漫画の話で夜更けまで盛り上がり、秘密を打ち明けて、否定されるどころか全部肯定してもらった。このオレンジ色がなければ、何も始まらなかったのだ。

伊奈はしばらく黙って、舞い落ちる雪を眺めていた。やがて、柔らかい声で言った。

「色は戻っても、心まで戻らなきゃいいんだよ」

花実が顔を上げると、伊奈はいつもの明るい笑顔を浮かべて続ける。

「俺はオレンジのメッシュのお前も、黒髪に戻ったお前も、どっちが本当の花実かなんて区別しない。どっちも、自分なりに考えて、自分なりに進もうとしてるお前だろ? 髪色が変わったくらいで、俺の見方が変わるわけないじゃないか」

その言葉を聞いた瞬間、目の奥が熱くなった。承認されたいという気持ちから始めた小さな冒険が、いつの間にか「誰かに認めてもらう」のではなく、「自分自身を少しだけ信じる」ことに変わっていた。匿名の「ハナ姫」に頼らなくても、ここには名前も素性も全部知った上で、自分を受け入れてくれる人がいる。

「…… ありがとう、先輩」

声が少し震えるのを隠すように、ココアを一口飲む。甘さと温かさが喉から体中に広がっていく。

その夜、自室の鏡の前で黒染めをした。シャワーで流して乾かすと、いつも通りの黒い髪が戻ってきた。前髪をかき上げても、もう鮮やかなオレンジは見えない。だけど、耳たぶのピアスだけは、そのままにしておくことにした。小さな銀の粒が、灯りに照らされて微かに光る。

冬休み最終日、二人はまた同じ公園で会った。黒髪に戻った花実を見ても、伊奈は「おかえり」とだけ言って、いつものように温かい紅茶を渡してくれた。

「新学期、緊張する?」

少し心配そうに聞く伊奈に、花実は以前よりも少しだけはっきりとした声で答えた。

「…… 少しはするけど、大丈夫だと思う。だって、話したいことがたくさんあるから。また先輩と、漫画の続きの話とか、これから読みたい作品のこととか、いっぱい話せるように」

雪はまだ降り続いているけれど、春が遠くから近づいてくる気配が、冷たい風の中にも微かに感じられた。

匿名のアカウントは、そっとアーカイブに移した。もう、仮の自分を作らなくても、堂々と自分の言葉で話せる場所ができたから。オレンジの秘密は色褪せても、二人の間に生まれた絆は、これから来る日々の中で、少しずつ確かなものになっていくのだろう。

ベンチに並んで座り、同じ方向に広がる雪景色を眺めながら、二人は静かに湯気の立つカップを握りしめていた。



新学期と、見え始めた気持ち

休み明けの学校は、まだ冬の冷たさが残る校舎の中に、生徒たちのざわめきが満ちていた。

田中花実は登校中、マフラーを少し下げ、耳たぶに光る小さなピアスにそっと指を触れる。黒髪に戻った自分の姿は周りから見ればいつも通りだけれど、心の中には確かな変化があった。以前なら下を向いて早足で通り過ぎた道も、少しだけ顔を上げて歩けるようになっていた。

教室に入ると、すぐに後ろのドアから伊奈雄二先輩の姿が見えた。三年生の彼は受験シーズンを控えているはずだが、相変わらず明るくクラスメイトと話し、廊下を歩くと周りに人が集まるような存在だ。

花実が目をそらそうとした瞬間、伊奈がこちらに気づき、軽く手を上げてにっこり笑った。慌てて小さく頭を下げるだけで精一杯だったけれど、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

それからの日々は、昼休みや放課後に少しずつ時間を作っては、いつもの公園で会う習慣が続いた。雪が少しずつ固まり、道端の氷が日中だけ溶けるようになる二月、二人の会話もますます深くなっていく。

「先輩、この前の新刊、読みました? 伏線が回収されるタイミングが絶妙で……」

「読んだ読んだ! 戦闘シーンの迫力がすごかっただろ? だけどお前が言ってた通り、主人公の葛藤がちゃんと描かれてるから、ただ派手なだけじゃないんだな」

伊奈は以前よりも、花実の話に耳を傾け、彼女の視点から作品を見るようになっていた。一方の花実も、自分の意見を否定される不安がなくなり、自然と言葉が滑らかに出てくるようになった。

ある日、いつものように自販機で買った甘酒を手にベンチに座っていると、伊奈がぽつりと切り出した。

「なあ、ハナ……」

普段は「田中さん」と呼ぶ彼が、名前だけで呼んだことに、花実は手の中のカップを少し落としそうになった。

「な、何ですか?」

「そのアカウント、『ハナ姫』のことなんだけど」伊奈は雪の積もった地面を見つめながら、ゆっくりと続ける。「俺、最初はただ変わったな、って興味本位で話しかけただけだった。でも、投稿を読んで、お前が何を考えて、何を恐れて、何を求めてるのかが少しずつわかってきて…… 気づいたら、お前のことばっかり考えるようになってた」

花実は息を飲んだ。心臓が大きく鼓動し、耳元まで熱くなる。

「俺、お前のことが好きだ。オレンジのメッシュの時も、黒髪に戻った今も、誰にも見せない秘密を抱えてるお前も、何でも熱く語るお前も、全部まとめて好きなんだ」

風が舞い、細かい雪が二人の周りを回る。

花実はうつむいたまま、震える声で答える。

「…… 私も、先輩がいなかったら、何も変われなかった。自分に自信なんて全然なかったのに、先輩が『大丈夫だ』って言ってくれるたびに、少しだけ前を向けるようになった。私も…… 先輩のことが、好きです」

言葉にした瞬間、長い間抱えていた不安や遠慮が一気に溶けていくようだった。伊奈は柔らかく笑って、花実の手をそっと包み込んだ。彼の手は少し大きく、寒さで冷たいけれど、握られた手のひらからは、これ以上ない温もりが伝わってきた。


春の足音と、確かな絆

それから月日が流れ、三月になると札幌の冬もようやく終わりを告げ始める。屋根の雪が解け、氷柱が滴る音があちこちで聞こえるようになり、遠くの山の雪も少しずつ薄くなっていく。

伊奈は高校生活最後の年、受験勉強と卒業準備に追われながらも、変わらず花実との時間を作ってくれた。

「卒業したら、道内の大学に進むつもりだ」ある日、卒業式の少し前に二人で公園を歩きながら、伊奈が告げた。「遠くに行くわけじゃない。札幌から通える距離だから、これからも今まで通り会えるよ」

花実は少しだけ不安になっていた心が、すっと軽くなるのを感じた。先輩がいなくなってしまったら、また自分一人に戻ってしまうのではないか —— そんな恐れがあったからだ。

「…… わかりました」花実は微笑みを浮かべ、自分の耳たぶに手を当てる。「私、このピアスはこれからもつけ続けます。オレンジのメッシュは戻さないけれど、これがあれば、あの冬休みに勇気を出した自分を忘れないでいられるから」

伊奈はそんな花実の横顔を見つめ、満足そうに頷いた。

「それでいい。形じゃなくて、心に刻まれた変化が一番大事だからな」

卒業式の日、校門の前で多くの生徒や保護者が集まる中、伊奈は花実を見つけると、人目を少し気にしながらも、はっきりと声をかけてくれた。

「花実、またいつもの公園で待ってる。新しい漫画が出たら、最初にお前の話を聞きたいから」

周りの視線が少し集まるのを感じて、花実は一瞬恥ずかしくなったが、すぐに胸を張って答えた。

「はい! 待ってます、先輩!」

冬の間に積もった雪が完全に解け、桜のつぼみがほころび始める頃、匿名のアカウント「ハナ姫」は静かに削除した。誰かに作られた仮の自分ではなく、田中花実として、自分の言葉で、自分のペースで生きていける。そんな自信が、ようやく自分のものになったからだ。

レンガ張りの壁の前に立つと、春の柔らかな日差しが照りつける。かつて秘密の写真を撮った場所で、今は二人で並んで未来を語り合う。

北海道の長い冬が明けるように、花実の心にも新しい季節が訪れていた。雪の下で眠っていた種が、確かな絆という水を受けて、ゆっくりと芽吹き始めているのだった。

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