【15:30】ダンスのお誘い。心臓がいつもより、だいぶ賑やか
★★★
「公爵令嬢、もし良ければ……この最初の曲を、私に預けてはくれないか?」
会場が静まり返る。第一王子が、数多の令嬢を差し置いて、まだ16歳のアイリスを指名したのだ。
一瞬アイリスの肩が小さく震えた。練習はしてきた、ゴロゴロと何度も何度も、足がもつれるほどに。
けれど本番の重圧は、彼女の足を石のように固めようとする。
そのとき、背中に柔らかな、けれど確かな重みを感じた。
ゴロゴロの小さな手のひらが、誰にも悟られないほど微かな動作で、アイリスの腰のリボンを「トン」と軽く、一押しした。
「……アイリス前。ボクが教えたステップ忘れてないよね。……できる」
耳元に届くのは、迷いのない確信。
その一押しは、不安を振り払う魔法の合図だった。
アイリスは深く息を吸い、ゴロゴロの手の温もりを背中に感じながら、迷いなく王子の手を取った。
「喜んで、殿下」
アイリスが王子の手へと導かれ、ダンスフロアの中央へと踏み出していく。
その後ろ姿を見送りながら、ゴロゴロは再び壁際の影へと溶け込んだ。
蒼碧色の瞳はすでに心配などしていない。ただ自分が磨き上げた宝石の最高に輝く瞬間を記録する観測者のように、冷徹で、けれど熱い視線を注いでいた。
(……アイリス、それでいい。三歩目で、ドレスの裾を払う。……五歩目で、王子の目を見る。……ボクの自信作、世界に見せつける)
華やかな音楽が鳴り響く。
フロアの誰よりも高く、美しく、アイリスの銀髪が舞い上がった。
曲が終わり、会場を埋め尽くした万雷の拍手が、アイリスの耳には遠い波音のように響いていた。
王子に最後の一礼を捧げ、夢見心地のままフロアを後にする。
令嬢たちの羨望と驚愕の視線を突き抜け、アイリスが真っ先に向かったのは、会場の隅、最も深い影が落ちる柱の陰だった。
そこには120センチの小さな体が、微動だにせず立っていた。
蒼碧色の瞳は主人の帰還を淡々と、けれど一秒も逸らさずに待っていた。
「……ゴロゴロ!」
アイリスは、人目も憚らず駆け寄り、そして膝をつくようにしてその小さな体を力いっぱい抱きしめた。
「できた……! 私、できたわ、ゴロゴロ!」
いつもならゴロゴロは猫のように身をよじって「アイリス、重い。離す」と冷たく突き放すはずだった。
ドレスがシワになるとか、公衆の面前ではしたないとか、効率が悪いとか、そんな正論を並べて逃げるはずだった。
けれど、今は違った。
ゴロゴロは逃げなかった。無表情な顔のまま、けれどすとんと重心を落として、アイリスの勢いを受け止める。
16歳のアイリスが深く抱きついたことで、ゴロゴロの頭は、ちょうどアイリスの豊かな胸元にすっぽりと埋まる形になった。
「……アイリス、心臓いつもよりうるさい。……ドレス台無し。シワだらけ」
銀髪の隙間から漏れる声は、相変わらず平坦で、可愛げがない。
けれど、ゴロゴロの小さな手は、アイリスの背中にそっと添えられていた。
引き剥がすためではなく、震える主人の背を支えるように。
アイリスの胸の鼓動が、ゴロゴロの頭に直接伝わる。
その速さは、彼女がどれほどの恐怖を乗り越え、どれほどの勇気で踊り抜いたかの証明だった。
「……アイリス、よくできた。……ボクの自信作」
ゴロゴロは、アイリスの胸に顔を埋めたまま、誰にも聞こえないほど小さな声で、確信に満ちた言葉を贈った。
アイリスは、自分の胸元に預けられたその小さな頭の重みを感じながら、ようやく本当の笑顔を浮かべた。
朝、ベッドの中で抱き枕にしていた時よりも、ずっと確かな温もりが、そこにはあった。
「……うん。……ありがとう、私のゴロゴロ」
華やかな式典の喧騒から切り離された、二人だけの短い、けれど特別な余韻。
ゴロゴロは、アイリスの胸の温かさを「効率的ではない」と切り捨てることなく、ただ静かにその鼓動を数え続けていた。
★★★
ご一読ありがとうございます!
無事にダンスを踊りきったアイリス様。
その心臓の鼓動は、緊張のせいか、それとも……。
次回、いよいよ最終回【22:00】更新。
【22:00】エピローグ。おやすみアイリス、また明日。
最後は、お約束の「ご褒美」――。
従者の観測日記(ビッグラヴ全開)を収録しています。




