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【14:00】第一王子拝謁。アイリス、やればできる子。ボクの誇り

★★★


 重厚な扉が開き始めたとき、その場の空気が一変した。

 この国の第一王子が姿を現したからだ。

「……アイリス、まずい。主賓来た。予定より三分早い」

 ボクは壁際で小さく呟いた。アイリスはまだ令嬢たちの輪の中で必死に会話を繋いでいる最中だ。

 主賓が到着すれば、会場の全貴族が最優先で拝謁の列に加わらなければならない。

 その作法、順序、タイミング。一つでも間違えればアイリスの努力は「無作法」という一言で塗り潰される。

 アイリスがハッとしてこちらを振り返った。

 その瞳には、せっかく自力で掴みかけた自信が、想定外の事態に霧散していくような色が浮かんでいる。

 ゴロゴロは、アイリスの視線を受け止めた。感情の動かない蒼碧色の瞳で、ただ真っ直ぐに。

「……アイリス、パニックにならない。深呼吸、三回。……ボクは、ここ」

 口は動かさず、微かな魔法の囁きをアイリスの耳元にだけ届けた。同時に、ボクは猫のようにしなやかに人混みを分け、アイリスの背後へと滑り込む。小さな影が、彼女の不安を物理的に支えるようにピタリと寄り添った。

「ゴロゴロ、私、やっぱり、一人じゃ……」

「……アイリス、弱音は後。今はあそこに行く。……扇、二節目まで閉じる。歩幅、あと五センチ小さく。ボクが、裾を捌く」

 ゴロゴロはアイリスのドレスの裾を、誰にも気づかれないほど自然な動作で整えた。

 アイリスの震える指先が、ゴロゴロの冷たい手に一瞬だけ触れる。

「……大丈夫。ボクが選んだドレス。ボクが教えた作法。……アイリスはボクの自信作。負けるわけ、ない」

 ボクは一人称の「ボク」を、アイリスにだけ聞こえる温かさで響かせた。

 主賓の王子が貴族たちの間を悠然と歩んでくる。

 アイリスがその前に進み出る瞬間、ボクは彼女の影に完全に没した。

「……さあ、アイリス。ボクを驚かせて。……最高の一礼、する」

 主君の背中を、見えない魔法の糸で操るように。

 ゴロゴロは無表情なまま、アイリスがその気品で会場を支配する瞬間を、最前列で、誰よりも近くで見守る。


 アイリスは、王子の鋭い視線が自分に止まった瞬間、肺に残っていた空気をすべて吐き出すように深く、長く息を吸った。

 背後から伝わるゴロゴロの気配。

 それはもはや重荷ではなく、自分の背筋を支える強固な芯のように感じられた。

「アイリス・フォルガード公爵令嬢にございます。王立式典のご開催、心よりお慶び申し上げます」

 アイリスの声は、震えていなかった。

 それどころか、広い会場の隅々まで染み渡るような、凛とした鈴の音のように響いた。彼女はゆっくりと膝を折り、ドレスの裾を完璧な円形に広げながら、カーテシーを捧げた。

 指先の角度、首筋の傾き、そして顔を上げた瞬間の微笑み。

 それはゴロゴロが毎朝、鏡の前で淡々と、けれど、こんこんと叩き込んできた「最高傑作」の姿そのものだった。

「……見事。フォルガードの薔薇は、噂以上に気高く咲いているようだね」

 王子の口から感嘆の言葉が漏れた。

 周囲の貴族たちがざわめき、先ほどアイリスを遠巻きにしていた令嬢たちが、信じられないものを見るような目で彼女を注視する。

 アイリスの背後、わずか数センチの影の中に潜むゴロゴロは、微動だにせずその光景を見ていた。

 無表情な蒼碧色の瞳には、アイリスの成功を当然のこととして受け止める冷徹さと、けれど計算通りに事が運んだことへの、ごく僅かな充足感が同居している。

(……アイリス合格。ボクが教えた通り。……いや、それ以上。少しだけ驚いた)

 ゴロゴロの唇の端が、本人も気づかぬほどわずかばかり上向いた。

「……アイリス、そのまま。王子が手を差し出す。……三秒待ってから、指先を預ける」

 影の中から、ゴロゴロの静かな肯定がアイリスの背中を押し上げる。

 アイリスはもう、怯えてはいなかった。自分を完璧に整えてくれた従者が、この世界の誰よりも自分を信じていることを、今の彼女は知っていたから。


 ゴロゴロの言うとおりに差し出された王子の手を見つめ、アイリスは三秒を数えた。

 背後から届くゴロゴロの気配が、熱を帯びた静寂となって彼女を包み込んでいる。

「……完璧、できる」

 耳元で、確信に満ちた囁きが響いた。

 それは指示でも指図でもなく、揺るぎない事実を告げる予言のようだった。

 アイリスは迷いなく、指先を王子の掌へと預けた。

 シルクの手袋越しに伝わる微かな温もり。

 アイリスは顔を上げ、王子の瞳を真っ直ぐに見据えて、完璧な角度で微笑んでみせた。

「光栄に存じます。フォルガードの名に恥じぬよう、精一杯務めさせていただきますわ」

 その立ち居振る舞いには、もはや萎縮も迷いもない。ゴロゴロが朝から丹念に磨き上げ、一日の始まりに鏡の前で誓わせた「誇り」が、アイリスの全身から溢れ出していた。

 背後の影に没したゴロゴロは、蒼碧色の瞳をわずかに細めた。

(……アイリス合格。満点以上かな。ボクが教えたこと、全部、自分のものにできてる)

 周囲の貴族たちが息を呑む。

 16歳の令嬢が、この国の主賓である第一王子を相手に、これほどまで堂々と、かつ優雅に渡り合うとは誰も予想していなかったのだ。

 ゴロゴロは微動だにせず、けれど内心では冷徹なまでに次の展開を予測していた。王子の視線の動き、指先の力加減、周囲の令嬢たちの嫉妬の温度。そのすべてを把握しながら、アイリスという自信作が最も美しく輝ける舞台を整え続ける。

「……アイリス、そのまま。……次は誘いに頷く。……できる。ボクはここにいるから」

 無表情な従者の胸の奥で、確かな充足感が静かに広がっていく。

 それは、自ら選び磨き上げた宝石が、世界を照らし始めたことを確認しているかのようだった。


★★★

ご一読ありがとうございます!

第一王子の前で見せた、アイリス様の勇姿……。

ゴロゴロにとっても、これ以上の「最高傑作」はありません。

次回は【21:00】更新。

【15:30】ダンスのお誘い。心臓がいつもより、だいぶ賑やか

式典の華、ダンスシーン。

慣れないステップに戸惑うアイリス様に、そっと寄り添う影。

完結まであと2話。二人の「距離感」が、さらに揺れ動きます……。

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