【11:30】不躾なトモダチ。アイリス、震えない。扇、下ろす
★★★
会場の扉が開くと、眩いばかりのシャンデリアの光と、着飾った貴族たちの熱気が押し寄せてきた。
アイリスがその華やかさに一瞬気圧されそうになるのを、背後に控えたゴロゴロは見逃さない。
感情の読めない蒼碧色の瞳で周囲を鋭くチェックし、主人のドレスの裾を邪魔しないよう、猫のような足取りで付き従う。
「アイリス、止まらない。左前方、公爵閣下がいる。挨拶、行く」
淡々とした、けれど迷いのない指示。
ゴロゴロは小さな体を活かし、人混みの隙間を縫うようにしてアイリスの進路を確保する。
彼女がただ歩くだけで、不思議と人の波が自然に割れていくのは、その無機質な瞳から放たれる圧倒的な拒絶の気配のせいかもしれない。
壁際に控える際も、ゴロゴロは決して壁に背を預けない。
アイリスの斜め後ろ、周囲の会話が最もよく聞こえ、かつ主人の死角をすべてカバーできる位置に、微動だにせず立ち尽くす。
「……ゴロゴロ、喉が渇いちゃった」
「……わかった。アイリスは動かない。ここで待つ」
ゴロゴロはそう言い残すと、給仕の間をすり抜け、一分もしないうちに果実水の入ったグラスを持って戻ってきた。
どこから調達したのか、そのグラスにはアイリスが好む氷が二粒、正確に浮かんでいる。
「アイリス、飲む。……一気に飲まない。口紅、落ちる」
グラスを差し出す手つきも、アイリスの口元をハンカチで押さえる仕草も、すべてが機械的なまでに洗練されていた。
周囲からは「あの小さな従者は何者だ」と囁く声が聞こえるが、ゴロゴロは耳に届かぬふりをして、ただアイリスの呼吸と周囲の視線の動きだけに集中している。
「……アイリス、右。さっきからこっちを見てる『トモダチ』が来る。扇、広げる。顔、作る」
ゴロゴロは蒼碧色の瞳をわずかに細め、扇で顔を半分隠した令嬢がこちらへ近づいてくるのを捉えた。
彼女にとって、アイリスに無遠慮な視線を送る者は、親しかろうが敵意があろうが等しく「対処すべき対象」であり、便宜上すべて「トモダチ」と分類している。
「あら、アイリス様。今日もその……可愛らしい『お人形さん』を連れていらっしゃるのね」
近づいてきた令嬢が、品定めをするような目でゴロゴロを見下ろした。
彼女の後ろに控える護衛の騎士が、ゴロゴロの右肩に気づき冷や汗を浮かべるも、令嬢はその様子に気づく様子はなかった。
アイリスが返答に詰まり、扇を握る指に力がこもる。
アイリスからの返答がないことに、令嬢はアイリスのドレスを無遠慮に眺める。
「アイリス様。そのドレス……少し、背伸びが過ぎるんじゃないかしら?」
扇の隙間から放たれた「トモダチ」の言葉に、アイリスの肩もわずかに跳ねさせた。
本当は言い返したかった。けれど自分の背後には「完璧」なゴロゴロが控えている。
自分が何かを言えば、ゴロゴロはきっと私の代わりに最も正しく、最も冷徹な解を導き出してしまう。
それは助かるけれど、同時に自分がひどく無力な子供になったような気がして、アイリスはいつも言葉を飲み込んでしまうのだ。
「……あ、ええ。そうかもしれないわね、エレン様……」
アイリスの声が湿って小さくなる。
視線が泳ぎ、扇を握る指先が震えたその瞬間、背中に冷たくて小さな手のひらが添えられた。
「アイリス、震えない。扇、下ろす」
ゴロゴロの抑揚のない声。それは救いであると同時に、アイリスにとっては「また自分の失敗を指摘された」という小さな棘となって胸にチクリと刺さる。
「……こんにちは、トモダチ。アイリスのドレス、背伸びじゃない。最新の流行をアイリスに合わせてボクが調整した。……トモダチのドレスの方が、去年の型に似てる。流行、巡った?」
「なっ……! なんですって、この無礼な――」
エレン令嬢の顔が、怒りで赤く染まり、護衛の騎士の顔が青くなる。
ゴロゴロはそれを「観察」するように蒼碧色の瞳で見つめたまま、アイリスの背中をまるで迷子を誘導するように淡々と押し出した。
「アイリス、行く。このトモダチ、おしゃべりが長そう。……時間の無駄。アイリスは、もっと有意義に歩く」
「あ、待って、ゴロゴロ……。ごめんなさい、エレン様……っ」
アイリスは謝りながら、ゴロゴロに手を引かれるままその場を離れた。
ゴロゴロは優秀だ。
この子に任せておけばどんな嫌味も跳ね返してくれるし、自分の体面は守られる。
けれど、守られれば守られるほど、アイリスの心には澱のような感覚が溜まっていく。
――私、ゴロゴロがいないと、挨拶ひとつまともにできないのかしら。
「……アイリス、顔、暗い」
雑踏に紛れたところで、ゴロゴロが足を止めて見上げてきた。
無表情なその瞳はアイリスの葛藤など露ほども知らない、澄み切った水面のようだ。
「……チョコ、食べる? 厨房から、アイリスが好きそうなのを一個、借りてきた」
ゴロゴロが小さな手のひらを差し出す。
そこには、銀紙に包まれた一口サイズのショコラが乗っていた。
優秀で、隙がなくて、誰よりも自分を理解して先回りしてくれる、小さくて大きな従者。
「……ありがとう。いただくわ」
アイリスはそれを受け取り、小さく溜息をついた。
甘いチョコの味さえ、ゴロゴロの手のひらの上にあるような気がして。
飲み込んだ甘さが、今のアイリスには少しだけ重く感じた。
★★★
ご一読ありがとうございます!
ゴロゴロの「流行、巡った?」の一撃……スカッとしていただけましたでしょうか。
相手が誰であれ、アイリス様を侮る者には容赦しないのが彼なりの流儀。
でも、アイリス様は少しだけ「無力な自分」にチクリと胸を痛めているようです。
次回は【20:00】更新。
従者に引かれた手の温かさを感じながら、アイリス様が大きな一歩を踏み出します。
「ボクの自信作」と言い切るゴロゴロの、深い信頼にご注目ください!




