【10:00】馬車での移動、アイリスの緊張は最大値
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揺れる馬車の車内、ゴロゴロはアイリスの向かい側の席に、ちょこんと腰掛けていた。
アイリスにとってはちょうどよい高さだが、ゴロゴロが腰掛けると足先が床に届かずぶらぶらと浮いている。それでも、背筋は定規を当てたように伸び、蒼碧色の瞳は窓の外を流れる景色を淡々と追っていた。
「……ねえゴロゴロ。今日の私、本当に変じゃないかな? さっきの叔母様、なにか言いたそうに私のことじろじろ見てた気がするし」
向かいでアイリスが、不安を逃がすようにドレスの裾をいじり始めた。高貴な身分といえど、大舞台を前にした16歳の少女だ。ゴロゴロは視線を窓からアイリスへと、ゆっくりと移した。
「……アイリス、手、離す。ドレスが傷む。……さっきのおばちゃんは、アイリスが自分より綺麗だから見ていただけ。気にしなくていい」
少し呆れの混ざった声色で事実だけを告げる。慰めというよりも決定事項を読み上げているかのような響きだ。
「……本当にそう思ってる?」
「ボクは嘘は言わない。意味がないから」
ゴロゴロは無表情なまま小さく息を吐くと、猫が喉を鳴らすような微かな音を立てて、アイリスの膝の上に置かれた手に自分の小さな手を重ねた。
その指先は相変わらず少し冷たいが、不思議とアイリスの震えを止める確かな重みがあった。
「アイリスは前を見る。……あとのことはボクが全部やる。泥が飛んでも、失礼な奴が絡んできても、ボクが処理する」
「処理する」という物騒な言葉にアイリスが思わずクスリと笑う。
それを見たゴロゴロは、満足した様子も見せず、すぐに重ねた手を引いた。
「笑って。……それでいい。もうすぐ着く。アイリス、扇、持つ。背筋、伸ばす」
馬車が速度を落とし、石畳を鳴らして停車する。
そのわずかな静止の瞬間に、ゴロゴロは懐から小さな紅の器を取り出した。
器を開けて小指で適量取り出し、躊躇なくアイリスの唇へと指を伸ばして一息に紅をさす。
「……ん」
「動かない。……よし、完璧。これでアイリスが一番、綺麗」
小指と親指をすり合わせると、指先の紅が空気に溶けるように消えた。
念の為指先をハンカチで拭うが、その布地に紅は一切つかなかった。
ゴロゴロは表情ひとつ変えぬまま紅の器をどこへともなく消すと、主君をエスコートするために、座席から音もなく飛び降りた。
馬車が式典会場の車寄せに止まると、外の喧騒が薄く入り込んできた。
ゴロゴロはまず自分が音もなく馬車から降り立つと、周囲に待機していた儀典官たちが「子供……?」と一瞬当惑の視線を交わす。
そして無作法な子供をつまみ出そうと衛兵が近づいて来たが、右肩の輝きを目にした途端足がかたまった。
「金色……?」
「まさか、あのような小さな子が?」
それ以上近づいてこないなら排除する必要もないと判断し、ゴロゴロはそれらを背景の石像と同じように無視して、蒼碧色の瞳を一点に向けて、アイリスのためにドアを大きく開いた。
「アイリス、降りる。足元、気をつける」
アイリスにだけ届く、感情の抑揚がない、けれど凛とした声。
ゴロゴロは小さな右手をアイリスに差し出した。
アイリスがその手を借りて、ゆっくりと馬車のステップに足をかける。
華やかなドレスの裾がふわりと広がり、光を浴びた銀髪が輝く。
周囲の貴族たちから「おお……」と小さな吐息が漏れた。
「……ゴロゴロ、みんな見てるよ。緊張する……」
「……アイリス、前を見る。ボクの指、握りすぎ。痛くはないけど、ドレスが揺れる」
淡々と、けれど確実にアイリスの緊張を解きほぐす言葉を投げながら、ゴロゴロは主人のエスコートを完璧に遂行する。
小さな体でありながら、その纏う空気は並の衛兵よりも鋭く、周囲の視線からアイリスを隔離する見えない壁のようだった。
無事に石畳へ降り立ったアイリスの隣で、ゴロゴロはドレスの乱れがないか一瞬だけ視線を走らせる。
「……よし。アイリス完璧。背筋伸ばす」
ゴロゴロはアイリスの半歩後ろに下がり、その影に潜むように控えた。主役を引き立てるための、完璧な従者の位置取り。
「さあ行く。……アイリスは、笑っていればいい」
無表情な従者に背中を守られるようにして、アイリスは華やかな式典の会場へと一歩を踏み出した。
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ご一読ありがとうございます!
いよいよ式典会場へ。アイリス様の緊張がこちらまで伝わってきそうです……。
次回は【19:30】更新。
【11:30】不敬なトモダチ。アイリス、震えない。扇、下ろす
ついに現れる「嫌味な令嬢」。(そこまで悪い子じゃないです)
震えるアイリスの背中に、ゴロゴロの小さな掌が添えられた時……。
最強従者の「ソルトな反撃」が始まります。お見逃しなく!




