勝者だけが、その流した血の正しさを証明できる
ギルドの空気が、別の意味で凍りついた。
ただ一人、金吾だけが、殴られた頬を押さえながら、どこか懐かしそうに、そして少しだけ救われたように微笑んだ。
金吾「……覚えていてくれたんですね」
バルドル「当たり前だろ? 人の財布を取りやがってよ!! あんな出会いそうそう忘れないぜ!!」
金吾「あのときは、助かりました」
バルドルは金吾をじっくりとみた。
その苦労が両手に現れ、手入れの行き届いた武具は冒険者としての実力を示していた。
バルドル「立派になったようだな。ランクは?」
金吾「……Cです」
バルドル「Cぃ? レベルは?」
金吾「40になりました」
バルドル「じゃあ、もうすぐBだな!! おめっとさん!」
豪快に笑うバルドルに、ギルドの空気がまた揺れた。
SSランクが、こんなにも自然に金吾を褒めるなど、誰も想像していなかったからだ。
ロザリアは唖然とし、ライガは顔を引きつらせ、エレインは涙を止めたまま固まっている。
そんな中、バルドルはふと周囲を見渡し、金吾に向き直って問いかけた。
バルドル「……っで、この騒ぎは何なんだ?」
その声は軽いが、空気を一瞬で引き締める力があった。ギルドの誰もが、息を呑んでバルドルの次の言葉を待つ。
金吾は、殴られた頬を押さえたまま、少しだけ視線を伏せた。
金吾「……まあ、その……いろいろありまして」
その曖昧な言い方に、バルドルは片眉を上げた。
バルドルはロザリアを指差す。
バルドル「……どう見ても“いろいろ”で済む話じゃねぇだろ?」
ロザリアはびくりと肩を震わせた。
SSランクの視線は、それだけで圧が違う。
金吾は、深く息を吸った。
そして――
金吾「……俺の、過去の話です。それが原因です」
その言葉に、ギルド全体が静まり返った。
バルドルは腕を組み、まるで“全部話せ”と言うように顎をしゃくった。
バルドル「よし。じゃあ聞かせろよ。おっさんがここまで怒鳴るなんて、よっぽどだろ?」
金吾「……勘弁してくださいよ! もう、終わったことですよ」
金吾は苦笑とも溜息ともつかない息を吐き、視線を逸らした。
その仕草には、怒りよりも――疲れがあった。
もう思い出したくもない、触れられたくもない。
そんな“古傷”に触れられたときの反応だった。
だが、バルドルは一歩も引かない。
バルドル「終わったことなら、こんな騒ぎになってねぇだろ」
その言葉は軽い調子なのに、逃げ道を塞ぐように重かった。
金吾は言葉を詰まらせる。確かにその通りだった。終わったことなら、こんなふうに怒鳴り散らしたりしない。
ロザリアが息を呑み、ライガが眉をひそめ、エレインは震えたまま動けない。
ギルド全体が、金吾の次の言葉を待っていた。
バルドル「けどな――」
バルドルは金吾の肩に手を置いた。
その手は大きく、温かく、そして“逃がさない”ほどに重かった。
バルドル「言わねぇと、前に進めねぇ時もあるんだよ」
金吾の喉がひくりと震えた。
その言葉は、金吾の胸の奥にずっと刺さっていた棘に触れた。
誰にも言えず、誰にも理解されず、
ただ一人で抱えてきた二年間の重さ。
メディアリアが、そっと金吾の袖を掴んだ。
その手は小さくて、震えていて、
けれど“あなたは一人じゃない”と伝えるように温かかった。
その一言が、金吾の心の最後の壁を揺らした。
金吾はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。
そして――
金吾「……二年前。俺は……徒党の仲間に裏切られました」
エレインの肩が大きく震えた。
金吾「裏帳簿を渡したのに……握りつぶされて。俺だけが悪者にされて。全部……全部、俺のせいにされて……」
その声は震えていた。
怒りではなく、痛みで。
金吾「それからは、Sランクのギフテッドを食い物にした、タカリのドロボーってことで、色々されました。……それが、俺の過去、ですよ」
ギルドの空気が、深い沈黙に沈んだ。
バルドルは腕を組み直し、
まるで“よく言った”と言うように頷いた。
バルドル「……なるほどな。そりゃあ、怒鳴りたくもなるわ」
金吾は苦笑した。
その笑みは弱く、どこか泣きそうだった。
ライガ「嘘だ!! また嘘をついた!! だって裏帳簿なんてなかっただろ!! それが証拠だろ!!」
その叫びは、金吾の胸にもう一度刃を突き立てるようだった。
ギルドの空気が、再びざわりと揺れる。
だが、誰もライガに賛同しない。
むしろ、あまりの浅はかさに息を呑んでいた。
金吾はゆっくりと顔を上げた。
その目は、怒りではなく――深い諦念で濁っていた。
金吾「っ――!!」
言葉にならない声が漏れた、その瞬間。
エレイン「これ、です……」
震える声とともに、エレインが前に一歩進み出た。
その指先にあるものは――
色褪せ、角が擦り切れ、何度も開かれた跡のある、一冊のノート。
ギルド全体が息を呑んだ。
それは、まるで“罪”そのものが形を持って現れたようだった。
エレインの手は震えていた。
――ノートを落としそうになるほどに。
エレイン「……ずっと……持っていました……怖くて……誰にも言えなくて……でも……これは……金吾さんが……本当に渡してくれた……裏帳簿です……」
その告白は、刃より鋭く、ギルドの空気を真っ二つに裂いた。
ライガの顔から血の気が引く。
ライガ「……は……? エレイン……?な、なんで……お前が……そんなもの……」
エレインは涙をこぼしながら、必死に言葉を紡ぐ。
エレイン「……わたし……あの時……ルナに……“黙ってろ”って言われて……そうすれば大丈夫だからって……」
金吾はその言葉を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
怒りでも憎しみでもない。
ただ、胸の奥に沈んでいた“答え”が、ようやく形になった瞬間だった。
――ああ、やっぱりそうだったんだ。
そう思うと、胸の奥がひどく痛んだ。
――やはり、俺は裏切られていたんだな。
メディアリアは金吾の袖をぎゅっと掴み、ロザリアは唇を噛みしめ、アルトリーズは静かに目を細めた。
そして、バルドルだけが、重い沈黙の中で、ゆっくりと腕を組み直した。
バルドル「……なるほどな。“なかった”んじゃねぇ。“隠されてた”わけだ」
その一言が、ギルドの空気を決定的に変えた。
バルドル「……これからどうするんだ、おっさん?」
金吾「Bランクになったら、こんな街すぐに出ますよ」
バルドル「そうか、残念だな。……残念だ」
金吾「俺は清々しますけどね!」
ライガ「――嘘だ」
バルドル「嘘だ……って、証拠があるじゃねーか。お前が女郎街に行ってたことと、ばかみてーに散財しているルナと、どっちが本当かなんてわかりきっていることだろ」
金吾は少し違和感を覚えた。
見てもいないはずの帳簿の内容を、なぜバルドルは言い当てられたのか。
まるで――最初から全て知っていたかのように。
金吾(……なんでだ?)
バルドルは、ライガを睨みつけたまま続ける。
バルドル「お前らの徒党が何してたかなんて、ギルドじゃ有名な話だぞ。“金吾が盗んだ”って噂だけが一人歩きしてたが……実際に金を使い込んでたのは、別の奴らだ」
ライガの顔が青ざめていく。
ライガ「な、なんで……そんなこと……!」
バルドル「なんでって……お前ら、隠す気あんのかって話だよ。お前が女郎街で豪遊してるところなんざ、何度も目撃されてんだ。ルナの散財っぷりも有名だしな。お前らがギフテッドじゃなければ、立場は逆だっただろうな」
ギルドの空気が、さらに重く沈む。
――ギフテッドじゃなければ、これが全てなのだろう。
バルドル「お前ら、少しやりすぎたな」
その言葉はロザリアに向けられていた。
ロザリアは肩を震わせ、唇を噛みしめる。
Sランクである自分が、SSランクに“たしなめられる”という現実に、プライドが軋む音が聞こえるほどだった。
バルドル「まさかここまで酷いとは思わなかったけどな」
ロザリアの顔は青ざめ、ライガは震え、エレインは泣き崩れ、メディアリアは金吾の袖を掴んだまま離さない。
――だが。
金吾は冷めた目で見ていた。
その中心にいる金吾だけは、まるで別の世界に立っているようだった。
金吾(俺はいま政治ショーを見せられている。やりすぎたSランクをたしなめるための、政治ショーだ。俺は憐れなピエロくんってわけか)
自分の二年間の地獄が、誰かの“政治的な都合”のために利用されている。
胸の奥で燃えていた熱が、じわじわと冷えていく。
怒りも、悲しみも、悔しさも――全部、氷の底に沈んでいく。
代わりに広がるのは、震えるほど薄ら寒い虚無だった。
背筋を撫でるような冷気が、心の奥まで入り込んでくる。
――薄ら寒い、気持ち悪さだけが広がっていく。
バルドルがロザリアを叱る。
ロザリアが震える。
ギルドがざわつく。
――全部、金吾のためではない。
金吾(俺がどう思ってるかなんて、誰も気にしてないんだろうな。わかっていたさ……)
メディアリアだけが、金吾の袖を掴んでいた。
その小さな手だけが、金吾を現実につなぎ止めていた。
メディアリア「……金吾さん?」
その声は震えていた。
金吾の心が、どこか遠くへ行ってしまいそうで。
金吾は、ゆっくりと彼女のほうを見た。
――だが。
金吾は、前を向いた。
その瞬間、メディアリアの手が、かすかに震えた。
金吾「――なら、決闘しろ」
その一言は、ギルドの空気を一瞬で凍りつかせた。
バルドルでさえ、目を見開く。
ライガ「……は?」
バルドル「なんだって……?」
金吾はゆっくりと顔を上げた。
その目には怒りも激情もない。
ただ、深い虚無と、凍りついた決意だけがあった。
金吾「どちらかの命が、正しさを証明する、決闘をしろって、言ってんだよ!!」
その叫びは、怒鳴り声ではなかった。むしろ、静かすぎて怖いほどだった。
メディアリアは金吾の袖を掴んだまま固まっていた。
メディアリア「き、金吾さん……だめ……そんなの……!」
その声は震え、掠れていた。
金吾の心が、どこか取り返しのつかない場所へ歩き出してしまったのを、彼女だけが本能で察していた。
金吾はそっと彼女の手を包み込む。
その手は小さくて、温かくて――
だからこそ、離さなければならなかった。
ゆっくりと、袖から指を外させる。
金吾「ゴメンな、メディアリア。馬鹿な俺を許してくれ」
金吾はライガを真っ直ぐに見た。
金吾「俺の言葉なんて、誰も信じちゃいない。証拠を出しても、嘘だと言われる。だったら――」
金吾「命で証明するしかねぇだろうが!!」
その瞬間、ライガの顔が真っ青になった。
ライガ「な、なに言ってんだよ……! お、お前みたいな雑魚と……!」
金吾「お前を、お前たちを、殺すことだけを考えてきた」
金吾の声は静かだった。
静かすぎて、逆にギルドの空気を震わせた。
金吾「雑魚には雑魚の戦い方があることを、教えてやるよ」
バルドルが、ようやく口を開く。
バルドル「……おっさん。お前、本気で言ってんのか?」
金吾はゆっくりとバルドルを見た。
その目は、どこか遠くを見ているようで――
それでも、揺らぎはなかった。
金吾「本気だ。俺の人生を壊した連中と……命を賭けて決着つける、その日を待ち望んでいた」
そして――バルドルだけが、金吾の目を真正面から見つめていた。
その目は、戦場で死を覚悟した戦士の目だった。
――覚悟を決めた者の目。
もう誰にも止められない場所に立っている者の目。
半ば、死人の目。
ギルドのざわめきが遠のいていく。
ロザリアの震えも、エレインの嗚咽も、ライガの狼狽も、メディアリアの必死な呼びかけすらも、金吾には届いていなかった。
胸の奥にあった熱は、すでに冷え切っている。
怒りも、悲しみも、悔しさも、とうに燃え尽きた。
残っているのは――ただ一つの凍りついた決意だけだった。
金吾は、静かに、しかし確かに言った。
金吾「俺は、きっと、この日のために生きてきたんだ」
その声は、低く、乾いていて、まるで墓標に刻まれる言葉のように重かった。
やべえよ…やべえよ…




