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影を食べるお昼前

掲載日:2025/11/18


スタッフは急用で出かけてしまい、

この「洋食舗 赤煉瓦」には店主の誠一だけで一人店番。


ここはカレー屋のはずなのに、近くの鍋の一つを開ければ

カレーより先に、もうすぐ出来上がるハヤシライスの甘い香りが店内に広がる。

それも当然のことだ。誠一の得意料理はカレーよりハヤシライスで、

いつも気づけばカレーより先に作ってしまうのだ。

焦げないように、時々ハヤシとカレーの鍋を見比べながら、

新聞を片手にゆっくり時間を潰す。

まだ朝と昼のちょうど間。客が来るのはまだ先だろう。


——そう思っていたとき、店内のベルが鳴った。


スーツ姿の男が一人、足早に入ってくる。

いつもお昼前に来る常連より、一時間も早い。

久しぶりの早い時間の客だ。


「いらっしゃいませ」


誠一はいつものように笑顔で応じ、好きな席にどうぞと促す。

近くのカウンター席に座った男は、見た目は年相応のスーツ。

だが、冬も近づいて居る筈なのに夏用スーツで、コートも何も着ていない。

それでも寒さを感じさせず、

どこか時間が止まったような不思議な雰囲気を漂わせていた。


「…いいお店ですね」


客はゆっくり店内を見渡し、柔らかに微笑む。


「あ、有難うございます」


注文は何にしましょう、とメニューを差し出す。


「ここのオススメは…?」

「ここのは全部美味しいんですけど…

あ、今、ハヤシライスがいい感じに出来てます」


誠一が勧めると、客はうなずいた。

「じゃあ、それをお願いします」


誠一は鍋の前に戻り、木べらでルーを静かに混ぜる。

ふつふつと立ちのぼる甘い湯気が、店内の空気を優しく揺らす。

その瞬間、客の目がわずかに細まった。

まるで、懐かしい匂いに触れたかのような表情だった。


「…お仕事、大変なんじゃないですか?」


思わず口をついた。 客は軽く眉を上げ、微笑みながら答える。


「…え?」


誠一は胸元を指差した。 バッチが光るその位置を、無意識に見ていたのだ。


「お客さん、弁護士なんでしょ?」

「ええ。そんなところです。人の行く末に関わることが多くて、

重たい日もありますけど」


“行く末”。 普通の弁護士なら普通に聞き流すはずの言葉。

だが、客の口から出ると、なぜか異質に響く。


「今日は久しぶりに、この町に来たんです。ちょっと気になる人がいて」


“来た”ではなく“来ている”。

微かに、何か違う空気を纏っているように感じる。


(やっぱり…気のせいなんだろうけど)


言葉を重ねようとした瞬間――


「「あの…っ!」」


声が重なった。二人で笑ってしまう。


「いえ、どうぞ。一番の出来立てですから、気をつけて…」


誠一が皿を置くと、客は湯気の向こうをじっと見つめる。

その視線は、どこか普通の人間より深く、何かを見抜くようなものだった。

スプーンを一口すくい、口に運ぶ。 表情がふわりとほどける。


「……優しい味ですね。抱えていたものが、少し溶けるような……そんな味でした」

「…味で分かるんですか?」

「時々ですけど。人と向き合う仕事をしていると、

その人の中のものが、ほんの少し触れることがあります」


誠一は息を呑む。 まるで、自分の奥底を覗かれたような感覚。

「ご馳走様でした。本当に、美味しかったです」客が席を立ち、


「「あの…っ、」」


二度目の重なりに、二人で笑った。


「喋ってたら楽しかったし…良かったらまた来てくれます?」

「ええ。仕事が落ち着いたら、また食べに来ます。

あなたが、どんな道を歩くのか気になりますし」


その言葉は穏やかだが、どこか心に冷たい余韻を残す。

扉を開けた瞬間、冬の冷気がわずかに流れ込む中、客は小さく呟いた。


「この店の匂いは、迷っている人にとって、温かいですね」


ただの世間話のようで、でも深く意味を含んでいるように聞こえた。

別れもそこそこ。扉が閉まると、客には静かな余韻だけが残る。


(…ここに惹かれた理由が分かったかも知れない)


初対面なのに、距離が近かった感覚。

微かに胸に刺さる違和感が、客の奥底の何かと響き合ったのかも知れない。


(…同じ闇を持ってる…か。自分の場合は“持っていた”けれど)


もちろん、客がそのことを口にしたわけではない。


ただ、自然に―― 誠一の中の“奥底の重み”を

静かに感じ取っているような眼差しだった。


(久しぶりにここに降りてみたら…そういうことか)


……願わくば。


その心の暗さが、誰かの未来を奪う方向に向かいませんように。と、

客は願う事しか出来なかった。


客が誠一の“闇の正体”に触れるのは、まだ先の話である。



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