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knife  作者: Green Rabbit
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エピソード2:停滞と中華街の影


クリスマスの華やぎが薄れ、新しい年が明けてから数週間が経っていた。


東京の街は普段の喧騒を取り戻しつつあるが、警視庁捜査一課には、まだ年末の凍てつくような空気が張り付いていた。


桜井美玲殺害事件の捜査は、完全に手詰まりの状態に陥っていたのだ。


壁一面に貼られた捜査資料、ホワイトボードにぎっしりと書き込まれた情報は、日に日に増えるばかりで、決定的な手がかりには繋がっていなかった。


 「くそっ、何なんだ一体……」


高木健太は、頭を抱えるようにデスクに突っ伏した。


目の前の資料には、美玲の明るい笑顔の写真が写っている。


彼女の死から、もう一ヶ月近くが経とうとしている。


しかし、犯人の影すら掴めない。


徹夜続きでまともに眠れていないせいで、目の奥がズキズキと痛む。


コーヒーを淹れても、その苦みが胃を刺激するだけで、眠気は去らない。


 「高木、まだやってたのか。少しは休めよ」


デスクに戻ってきた佐藤義昭が、心配そうな顔で高木を見下ろした。


佐藤の顔にも深い疲労が刻まれているが、その瞳の奥には、変わらぬ粘り強さが宿っている。


 「佐藤さん……すみません。でも、どうしても眠れないんです」


高木は顔を上げた。


その眼差しは、飢えた獣のように獲物を求める光を帯びていた。


 「美玲さんのご両親に、なんて顔向けすればいいのか。何も進んでいない、なんて言えるはずないじゃないですか!」


佐藤は静かに頷いた。


 「分かってる。お前の気持ちは痛いほどな。俺だって同じだ。だが、焦ってもいいことはない。冷静になれ。犯人は必ずどこかに足跡を残しているはずだ」


 「足跡……」


高木は空っぽのコーヒーカップを見つめた。


 「防犯カメラはほとんど死角でした。目撃者もなし。遺留品も、刃物一つ見つかっていない。まるで、犯人が透明人間だったみたいじゃないですか」


 「いや、透明人間なんかいるわけがない」


佐藤は声を強めた。


 「いるとしたら、それはプロの仕事だ。手口が巧妙すぎて、俺たちが気づかないだけなんだ」


 「プロ、ですか……」


高木は呟いた。


その言葉が、彼の胸に微かながら引っかかる。


プロ。


その言葉の響きには、どこか抗えない魅力があった。


 「被害者の交友関係も、学校も、バイト先も、隅々まで洗った。でも、トラブルらしいトラブルは出てこなかった」


佐藤はホワイトボードを指差した。


 「残るは……被害者の実家だ。中華街の桜井飯店。美玲さんは、中華街に深く関わっていた。そっちの筋から何か情報が掴めるかもしれない」


 「ですが、中華街には前にも聞き込みに行きましたよね?特に収穫は……」


 「確かに。だが、あの時はまだ事件初期だった。今は状況が違う」


佐藤は、懐から聞き込みメモを手に取った。


 「八百屋の主人が言っていた、見慣れない東洋系の男の話だ。フードを被っていて、物騒なものを隠し持っていたと情報の垂れ込みがあった。もう一度中華街に行く価値がある」


 「分かりました。もう一度、中華街に行きましょう」


高木は立ち上がった。


彼の体に、再び力が漲ってくるのを感じた。


横浜中華街は、冬の寒さの中でも、観光客と地元住民で賑わっていた。


赤や金の派手な装飾が、古めかしい建物を彩り、豚まんや甘栗の香ばしい匂いが漂っている。


しかし、高木と佐藤の心には、事件の重い影が覆いかぶさっていた。


彼らが再び訪れた桜井飯店は、相変わらず「休業」の張り紙が虚しく貼られたままだった。


 「ご両親も、今は警察に協力する余裕はないだろうな……」


佐藤は寂しげに呟いた。


二人は手分けして、前回聞き込みを行った店を再訪することにした。


高木は、垂れ込みがあった八百屋の主人に声をかけた。


 「こんにちは、高木です。先日も伺った刑事ですが、少しお話を……」


 「ああ、あんたさん。また来たのかい」


主人は、高木の顔を覚えていたようだ。


少しばかり警戒したような目つきで彼を見た。


 「あの事件、まだ解決してないのかね?」


 「ええ、それが……」


高木は頭を下げた。


 「実は、情報を頂いたお話しで、美玲さんの家の周りをうろついていたという、フードを被った東洋系の男について、もう少し詳しくお伺いしたいんです」


主人は、訝しげな顔で高木を見つめた。


 「あんた、その話にこだわってるのかい?ただの噂話だぜ」


 「しかし、他に手掛かりがないんです。どんな些細なことでも構いません。何か他に、気づいたことはありませんでしたか?」


高木は必死に食い下がった。


彼の瞳には、懇願の色が浮かんでいる。


この八百屋の証言が、もしかしたら突破口になるかもしれない。


そんな予感がしていた。


主人は腕を組み、唸るように言った。


 「そうだなあ……ただ、そいつが夜中に現れるたび、決まって美玲ちゃんの家の前に、花が供えられていたって話は聞いたな。それも、あんまり見かけない珍しい花だったって。最初は美玲ちゃんの友達かと思ってたんだが、事件があってから、なんか気味が悪くてね」


 「花……ですか?」


高木の脳裏に、新たな疑問が浮かび上がる。


恨みを持つ犯人が、被害者に花を供えるだろうか。


 「あと、そいつが、よくナイフを弄っていたって話も。なんか、刃物の手入れでもしてるみたいに、ひんやりとした目つきでね……いや、あくまで噂だけどな。見たって奴もいれば、見てないって奴もいる」


高木の心臓が、ドクンと大きく鳴った。


ナイフ。


美玲の首の傷。


そして、フードの男の情報。


それらが一本の線で繋がり始めるような、ゾクリとする感覚に襲われた。


八百屋の主人との聞き込みを終え、高木は佐藤の元へ急いだ。


佐藤もまた、別の店で有力な情報を掴んでいたようだ。


 「高木、聞いたか?どうやら、あの男、張という名前らしいぞ」


佐藤は興奮気味に言った。


 「以前、この中華街を拠点にしていた中国マフィアの元幹部だという情報が入った。国際指名手配もされているらしい」


 「張……!そして、元マフィアの幹部……」


高木は愕然とした。


点と点が、急速に線となって繋がっていく。


 「しかも、そいつ、ナイフの達人だったらしい。変幻自在に操り、投げナイフも得意だったと。裏社会では、そのナイフ捌きで恐れられていたそうだ」


佐藤の表情は、緊張と期待が入り混じっていた。


高木の脳裏に、美玲の首筋の、あの正確で鋭い傷が鮮明に蘇る。


そして、八百屋の主人の証言にあった「物騒なもの」「ナイフを弄っていた」という言葉。これらは、偶然では片付けられない。


 「だとすれば、なぜ美玲さんが……?彼女と、中国マフィアに接点があったとでも言うんですか?」


高木は混乱したように言った。


佐藤は首を振った。


 「そこなんだ。美玲さんには、そういった黒い噂は一切ない。だが、もし張が美玲さんを狙ったとしたら、何らかの理由があったはずだ。復讐か、警告か……。しかし、なぜよりによって、こんな善良な少女が」


二人の刑事の間に、重い沈黙が流れる。


事件の核心に近づいている。


しかし、その核心は、彼らが想像していたよりも、はるかに暗く、深い闇をはらんでいるようだった。


 「張……必ず捕まえます」


高木は、固く拳を握りしめた。


彼の瞳は、もはや疲労だけではなかった。




獲物を追い詰める、狩人のような光が宿っていた。


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