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4.ボット・リット教授



「な、なぜそれを……」


 焦るヒューイに、ライザはにぃっと哂ってみせた。


 その表情は、先ほどまでヒューイが一瞬で脳裏に描いた、年の離れた夫に愛を捧げて見送った哀れな年下の妻がただの幻であったのだと悔しくなった。


 きっと夫の金を使って、遺産相続の邪魔となるロダリックの血を引く唯一の実子であるヒューイの弱点をずっと探していたに違いない。

 やはりライザ・ケ―リーという女は、巷で言われているような金に目が眩んで年老いた夫に嫁いだ計算高い女狐なのだ。


 想い合う夫婦という妄想はヒューイが勝手に繰り広げただけにも拘わらずなぜか騙されたと強く思った。悔しさに、ヒューイはぎりりと歯を食いしばる。


「そんなこと、君には関係のないだろう?」

「そうね、そうかもしれないわ」


 あっさりと引き下がったライザに、ヒューイは肩透かしを喰らった。その真意を掴み損ねて眉を顰める。


「けれど、国立大学で偽名の助教が教鞭を持つことは、許されることなのかしら。確かに今はまだ助教ではあるけれど。けれど大学教授になる資格は国家資格よね。それなのに、偽名を使うなんて。ねぇ、学長はご存じなのかしら? もしかして共犯」


「ボットは洗礼名だ。偽名などではない」


「でもあなたはリット家の人間ではないわ。もしリット家へ籍を移しているのならば、先ほどのヒューイ・ケーリーとしての宣言は偽証となるわ。それこそ犯罪行為ではなくって?」


 視線に焼き殺されそうだった。

 ただし熱さによってではない。

 マイナス79度のドライアイスに触れると火傷と同じ症状を引き起こすように、あまりにも冷たい視線で凍傷を起こしそうだ。


 ゾクゾクとした震えがヒューイの背筋を這い上ってくる。


「俺の名前はヒューイ・ケーリー。それは嘘偽りなく本当のことだ。ただ大学の教鞭については……その」


 心を砕いてくれた学長にご迷惑を掛けないで済むような説明を、ヒューイはすぐに思いつく事が出来なかった。


 まさか、自身の現況がすべて調査済みであるなど思わなかったのだ。

 なにしろ実父であるロダリックは、あの家出以来ずっとヒューイを探すことはなかったからだ。

 電話一本、手紙ひとつ来たことはない。


 いや、目の前の女性と結婚をする際にはヒューイを探しているようだと報告を受けた記憶はある。


「あちらさんが、お前と連絡を取りたがっているようだよ、ヒューイ」

 リットの姓を貸してくれた母方の大伯母は、難しい顔をしてヒューイに報告してくれた。

 リットは、母の旧姓ですらない。大伯母の婚家のものだった。


 ヒューイが家出した時には孫すら成人していて、亡き夫の残してくれた遺産でほぞぼぞと田舎暮らしをしていた大伯母は、行く当てのないヒューイを快く迎え入れてくれた。

 大伯母の子供になりたいと願ったこともあったが、「母の子であった事も捨てることになるのよ」と諭され諦めた。


 籍こそ入れてもらえなかったが、大伯母は住むところを与えてくれただけでなく、大学へと進む際には保証人となってくれた。

 お陰で、ヒューイは学問への道を開き、助教という輝かしい今の地位を掴むことができたのだ。


 投資家である父ロダリックの弱点や経営理念の欠点を見つけてやろうと始めた経済学だったが、結局は蛙の子は蛙だったのだろう。

 ヒューイはいつしか純粋に経済学というものに心と時間すべてを捧げて生涯の研究としていた。


 だから、その努力を認め、支えてきてくれた大伯母にも大学学長にも迷惑をかけることはできなかった。


 何度も唇を舌で舐め目を彷徨わせる。しかし、やはり言葉が喉に絡むように何も言うことが出来いでいると、ライザがふっと笑ったのだった。


「正直もっと追及したいところだけれど、今はやめておくわ。これ以上長くなっては参列者にも教会にもご迷惑ですし、なにより彼を侮辱することになってしまうもの。ねぇ、ヒューイ。ロダリックの相続人として遺産の分配について言いたいことがおありならば、葬儀の後にお邸で開かれる弁護士による遺言書公開の席に、御同席なさる?」


 助かった、と思った。

 そうして同時に、周囲の参列者たちが自分を見つめる視線がまったく温かさを感じさせないものであることに気が付いて、まるで自身こそがロダリック・ケーリーの遺産目当てに乗り込んできた悪漢のようだと居心地の悪さに震えた。


 それを誤魔化すように咳払いをして、ヒューイは同意してみせた。

 ついでに論点を戻して、会話を具合の悪い内容から引き戻しておく。


「勿論だ。それで、この葬儀の喪主は」


「やりたいというなら、貴方がしてちょうだい。私は、彼とのお別れを穢されたくなかっただけ。今はただ、彼を惜しんでいたいの」


 ライザは、手にしていた赤い薔薇をヒューイに押し付けるようにして持たせると、祭壇から一輪の白い薔薇を抜き取り、棺の前まで歩いていく。


 そうして、棺の中で眠るように目を閉じたままの愛しいその人の真っ白になってしまった顔を、何度も撫でた。


 どれくらい彼女はそうしていたのか。

 ふいに、自身が自分を取ってしまったことを恥じるように、もう一度だけその頬を愛おし気に撫でた後、丁寧に顔の横に、白い薔薇を置いた。


 手に持った小さなレースのハンカチでは吸い取りきれていない涙が、モーニングベールやドレスを濡らしているのすら構わずに立ち上がる。


 そうして、棺と参列者、そしてヒューイにまで頭を下げると、そっと下がった。


 その姿があまりにも痛ましく人々の目に映った。


「ちっ。パフォーマンスが上手な女だ」


 年の離れた夫を愛していたのだとアピールしたいだけの演技だとヒューイは自分を納得させようとした。


 けれどそれだけで、死んだ男の頬をいつまでも撫でることができるのだろうか。

 そこまで肝が据わった老獪な女もいるだろう。

 けれどそうだと決めつけるには、さきほどのライザの手付きはあまりにも愛に溢れた行為に見えた。


 実の息子であるヒューイには真似する事すらできそうにない。


 居た堪れない気持ちに蓋をして、ヒューイはライザから奪い取った喪主のみが捧げる赤い薔薇を父の眠る棺へ捧げて、定型すぎる別れの言葉を贈る。


 参列者から注がれる視線が痛い。

 ヒューイは自分が悪手を打ったことをひしひしと感じた。


 もしかしたら、そこまで計算していたのかもしれない。

「彼女はきっと、自分を有利な立場に置く為に愛してもいない老いた夫への愛を偽ったのだ」

 そうとでも思わなくては、いますぐ今日の言動すべてを謝罪して、喪主を彼女に返さねばならなくなる。それだけは、したくなかった。


 棺が教会から送り出され、墓地へと運ばれる。


 故人を大地へと還すべく、親しい者たちが瀟洒なスコップで祝福を戴いた特別な土を掛けていく。

 次々とスコップが手渡され、故人への最後の贈り物ですっかりその棺が埋められてしまうと、喪主となったヒューイが墓標へ花束を捧げた。

 ヒューイは、ロデリックに不似合いな淡いピンクと水糸の縁取りのある可愛らしい花々たちで作られた花束に眉をしかめた。

「母が、好きだった花だ」

 家に飾られた沢山の母の肖像画。そのほとんどにこの愛らしい花が描き込まれていた。

 ヒューイが名前も知らないその花を、墓標へ捧げるよう手配したのは本人なのか、後妻なのか。

 どちらにしろ、死者が手配をしようとも生きている者ならばそれを邪魔することは容易い。

 つまりここにこの花があるのは、彼女の意志ということだ。


 ──赤い薔薇ではなく、白い薔薇を捧げるライザの、憔悴した姿が思い浮かんだ。


 あれほど心を傾けた夫への最後の贈り物となる花束に、前妻が好きだった花を選ぶ気持ちというものが想像できず、ヒューイの眉間に皺が寄った。


 後妻が善人であるかどうか、正直な所今のヒューイには分からなくなっていた。

 ここに乗り込んでくる前に持っていて「女狐」のイメージは合っているような気もするが、安易にそう言い切る自信はすでになかった。


 物思いに沈んでいる内に、司教からの「これからの人生は故人に恥じぬ道を進むように」という定型の説教は終っていたらしい。

 促されるまま参列に対する礼の言葉をヒューイはもごもごと唱えた。


 参列者は強引に喪主の座に就いたヒューイに、「今度、ロダリックの話をしよう」と日付を決めぬ約束を交わして帰っていった。


 ついに遺産についての話し合いが始まる。


 なんにせよ、ヒューイが大学でボット・リットの名前で教鞭を持っていることをどうやって調べたのか。


 大伯母の協力の下、「実家のスキャンダルに巻き込まれずに落ち着いた環境で勉学に励みたい」とボット・リットの通称で入学許可を取って以来ずっと、学長には便宜を払って貰ってきた。

 大学教授となる試験に推薦を貰ったけれど、本名のままでは大学に迷惑をかけることになりかねないと辞退しようとしたのだが、「では、そのまま通称を使って教鞭が取れるようにしよう」と大学が直接雇用契約を結べる助教のまま講義を持てるよう配慮してくれたのだ。

 大学の職員にも教授陣にも、ほとんどボット・リットが通称であると知る者はいない。そんな情報を探り当てられるとは思わなかった。


 可能性としては、実父相手であったならば隠し通すことは難しいだろう。

 けれどロダリック・ケーリーがボット・リットの事を探した事実はない。

 大伯母が言っていた連絡が取りたいと探していた理由は、そのロダリック・ケーリーが死んで葬儀が執り行われるという連絡の為だった。

「なんにせよ、油断はならない。絶対にあの女狐を追い出してやる」


 遺産などいらないとすべてを捨ててやろうと思った事もある。

 しかし、亡き母の遺品は取り戻したい。

 そうしてなにより病床についた大伯母のためにできるととがあるならば、守銭奴となることも辞さないと決めたのだから。


 直接対決に関してはライザの提案を受けての事ではあるものの、この場に正当な遺産相続人として喪主になろうとやって来ることを決めたのも実行したのもヒューイ自身だ。

 来る前に覚悟を決めて来ているものの、なぜか気分が沈みそうになるのを、ヒューイは自らを鼓舞するように背筋を伸ばしてライザと対決する為に、大股でその姿を探して回った。



 しかし、葬列の一番後ろから着いてきていた筈のロダリック・ケ―リーの後妻ライザ・ケーリーは、忽然とその姿を消してしまっていた。




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