叶わぬ願い
「お前には、人の望みを叶える力があるっていうのか?」
「そうともさ、にいちゃん。なんたっておいらは犬神だ。犬神っていえば、憑りついた人間に富と名誉を齎すってのは常識だろ?」
「いや、そんな常識知らないんですけど」
「えっ?そうなの?世の中変わっちまったなぁ」
やれやれと首を振るハハーンの獣毛は、本物の生き物ようにしなやかだった。これが幻覚だとしたら、もうおれは何を信じていいのか分からなくなってしまう。
「じゃあ今から願いを言うから、叶えてくれよ」
「おうよ。なんでも言ってみ」
「そうだなぁ。とりあえず・・・・・」
急に願いを叶えると言われても何も思いつかなかった。おれの頭に浮かんだのは願い事でもなんでもない、今朝一緒に朝ごはんを食べたときのユキミ先生の笑顔だった。
「彼女とか、欲しかったりして」
口にするのも恥ずかしかったが、相手は神さまを自称している。願うだけなら問題はなさそうだ。
「わかった。用意する!」
間髪いれずにハハーンが答えた。余りの即答ぶりに、ハハーンに対する信憑性が一気に薄らいだ。
「それと金な。現金で1億円はほしいな」
「まかせろ!1憶でいいのか?少なくねぇか?」
無意識におれは溜息を吐いていた。そんなことだろうと思った。
「やっぱり嘘か。箱に戻ってもらうぞ」
「嘘なんかつくかよ。でもさ、にいちゃん。願いを叶えてやるんだからさ、おいらの頼みも聴いてくれねぇ?」
「お前の頼みってなんだよ」
「おいらさぁ、外の世界が見てみたいんだよ。あの頃とどれくらい変わったのか、この目で見てみたいんだよ」
ハハーンの前脚が、金色に光る目を差していた。当たり前のことだが、ハハーンの前脚は自分の目に届いてない。
「つまり散歩してみたいってことか。まぁそれくらいならいいかな」
「そうこなくっちゃ。じゃあ早速出かけようぜ」
「いや、ちょっと待て。とりあえず服着ないといけないし、それに左手にお前をつけたままじゃ」
部屋が暑かったこともあって、今のおれは下着しか身に着けていない。服を身につけるには、一度ハハーンをおれの左手から引き剥がす必要がある。
「そんなの気にすんなって。行こうぜにいちゃん、行っちゃおうぜ」
凄まじい力で左腕が引っ張られた。布団の上で胡坐をかいていたおれの体は持ち上がり、一気に窓の外へと放り出された。
「わっ、待て。待ってくれ」
慌てて叫んだが無駄だった。おれの体は軽々と窓の外へと引き摺りだされてしまった。おれの部屋は二階の角部屋で、窓から飛び出せば外には何もない。パンツ一丁で外に放り出されたおれは、蒸し暑い夏の外気に晒されながら、アパートの前の路地に向けて落下していった。