夢と幻
西日の当たる四畳半で眼を覚ました。
上京してからずっと暮らしている部屋だったが、夏はとにかく暑い。エアコンはあるけれど効きが悪いせいで、寝るときはいつも窓を全開にしているから、外の喧騒も容赦なく部屋に侵入してくる。
時計を見ると6時半を少し過ぎていた。
保育園の近くにあるファミレスでユキミ先生と別れたのが8時過ぎ。この部屋に戻ってきたのが9時丁度で、そのまま倒れ込むように横になったから、10時間近く眠っていたことになる。
「痛っ」
目覚めた途端痛みが走った。全身が猛烈な筋肉痛に見舞われている。
「あれ、本当におれがやったのかなぁ。だとしたら無理ないよなぁ」
昨夜、園長先生に鍵を借りて入った土蔵の中は混乱を極めていた。あれを全てひとりで片付けたのなら、全身が筋肉痛になるのも当然だ。
「うわっ~」
次に襲ってきた後悔に打ちのめされ、おれは布団の中で身悶えした。せっかくのチャンスをおれは完全に完ぺきに無駄にしてしまった。
ユキミ先生と一緒に朝食を摂るために入ったファミレスで、おれはやらかしてしまった。
とにかくあのとき、おれは凄まじいくらいに腹が減っていた。
モーニングメニューで出されたトーストとベーコンが添えられた目玉焼きを平らげると、おれはユキミ先生に断りも入れず、メニューにある食い物を片っ端から注文しては口の中に放り込んだ。
最初は驚いて嬉しそうに笑っていたユキミ先生の顔色が変わり、財布の中身をチェックしだしたのを目にしてもおれの食欲は止まらなかった。ファミレスのモーニングメニューを全て制覇し、二周目の途中でようやくおれの胃袋は満足してくれた。
「こんなに食べる人、初めてみた」
そう言って笑いながら、ユキミ先生は二万を超えた朝食代を払ってくれた。土蔵の整理を業者に頼んだら、もっとするからと笑ってくれてはいたが、内心では絶対にドン引きしているはずだ。
「やばいよなぁ、絶対に引かれてるよなぁ。なんであんなに食べちゃったのかな」
普段のおれは決して大食いではない。だけど今朝は、どれだけ食べても食べた気がしないほど腹が減っていた。
「もう二度と食事に誘ってくれないよなぁ」
人の奢りでファミレスの朝食で二万円分も食べる男ともう一度食事をしたがる人がいるわけがない。おれなら絶対に嫌だ。
「ああ、最低だ。泣きたいよ」
汗臭い布団の中でおれは手足をバタつかせた。あまりに強く手足を動かしたせいで、せまい四畳半の畳の上にリュックの中身をぶちまけてしまった。
「これって」
おれは布団から身を起こし、蹴飛ばしたリュックから転がり出た木箱に目を止めた。それは土蔵の中でおれが見つけた例の木箱だった。
中にはあの不細工なパペットが収まっていたのだが、これをリュックに入れて持ち帰った記憶がなかった。そもそもこいつは保育園の蔵の中にあったものだ。勝手に持ち帰ったりしたら泥棒になる。
「お前、なんでここにいるんだよ」
おれは恐る恐るパペットに手を差し出した。今朝、朝日に照らされた蔵の中で見たこいつは薄汚い布で作られた人形にしか見えなかったが、夕闇が迫る薄暗い部屋の中で見ると、妙に不気味に見える。
指先で突っついてみたが、蔵の中で初めてこいつに触れたときのような悪寒が走ることはなかった。乾いてザラついた感触と、鼻の奥にツンとくるかびの臭いが部屋の中に広がっただけだ。
「おれ、ホントにどうかしてるんだ」
パペットを取り出し、左手を差し込んだ。やはり何も起こらない。唸ることも無ければ獣毛が生えてくることもない。昨夜のことは、やっぱり全て夢だったのだ。
明日出勤したら、ユキミ先生にこのパペットを返却しよう。そのついでに、というかこっちが本命なんだけれど、おれが食い散らかした朝食代を返して謝ってみよう。
「ユキミ先生、許してくれるかな?」
左手を覆う不細工な犬に向かって話しかけた。返事などあるわけがないから、おれの独り言に過ぎないのだけど、とにかく誰かに愚痴りたかった。
「無理じゃね?」
犬人形が返してきた。とは言っても、声はおれのものだ。つまりこれはおれの自問自答だ。
「だよなぁ~。奢りだと幾らでも食べる貧しい奴って思われてるよな、おれ」
「最低だな、にいちゃん。絶対嫌われてるよ、それ!」
「そうだよなぁ。どうしておれあんなに食べちゃったんだろう?」
「そりゃあそうだよ。あんときのにいちゃんは、おいらの分まで喰わなきゃならなかったんだからさ」
「おいらの分って、それどういう意味だよ。お前のせいでって・・・・・」
「あの汚ねぇ土蔵をピッカピッカにしてやったんだから、そりゃあポンポコ減りまくって当然だろ?」
「ポンポコ減りまくりか。でもあれって、おれがやったんだよな」
「にいちゃん一人で出来るわけないだろう?おいらが助けてやったんじゃん」
「助けてくれたのかぁ。ありがとうな」
おれは自分の左手に被せたパペットに視線を向けた。パペットもまたおれを見返している。
「えっ?」
「おっ?」
犬人形の顔が灰褐色の獣毛に覆われていた。平坦だった鼻は突き出ていて、その下には二本の長い牙が生えていた。黒いボタンのようだった目は金色に輝くオオカミの目に変化している。
「うわっ、お前」
「おい、お前。おいらのことをお前っていうな!」
右手で左手首を掴み、おれは強引に犬人形を引き剥がそうとした。
「わ、わ、や~め~てぇ~。や~め~てぇ~」
左手の犬人形がバタバタと暴れ出した。だらりと垂らした長い舌があちこちに揺れて、その度によだれが辺りに飛び散っていく。
「汚いやつだな。大人しくしろよ」
左手の人形を半分ほど捲り上げたところで、犬人形がおれの右手に咬みついてきた。
「痛っ。咬みつきやがったこいつ」
「放してぇ。いじめないでぇ~!」
犬が暴れまくるせいで、なかなかパペットを剝ぎ取れない。
息を切らして動きを止めた。呼吸を整え、どうやったらこいつを左手から引き離せるか思案する。
「あれ、もう終わりか?」
長い舌を垂らしながらパペットが首を捻る。いや、もうパペットというより、オオカミの仔そのものに見える。しなやかな獣毛の中からこちらを見上げる瞳の奥には、生あるものだけが備えている輝きがある。
「にいちゃんにいちゃん。もっとやってもっと!」
前脚をバタつかせてねだる様子は、遊んでもらってご機嫌な仔犬のようだ。
「お前、なんなんだ?」
「おいらはおいらさ。にいちゃんはなんなんだ?」
答えられなかった。敢て言うのなら人間だと答えるしかないのだろうが、それだけでは何か足りない気がした。
「最初からやり直そう。お前、名前はあるのか?」
「にいちゃんはあるのか?」
「あるさ。おれは、イヌカイ。イヌカイフブキっていう。人間の、男だ」
「おいらはハハーンっていうんだ。オオグチノマガミさ」
「オオグチの、なんだ?」
「解りやすく言うと犬の神だな。犬神!」
犬神と言われてもピンと来ない。おれの頭の中に浮かんだのは、湖に突き立った男の下半身、有名映画のポスターだ。
「それはスケキヨ。にいちゃんはアホか?」
ハハーンは首を傾げ、見下すような視線をおれに向けてきた。仔犬のようで可愛いと思い掛けたが、やはりこいつは極めつけに怪しい奴だ。
「はぁ、四百年振りに出てきて憑りついた人間がこれかよ。おいら、ほんと情けなくなっちゃうよ」
参った参ったといわんばかりにハハーンは前脚を左右に広げて見せた。
「四百年?お前、そんな前からあの蔵にいたのか?」
「蔵じゃなくって祠だったんだけどさ。やべぇ連中に捕まって、ふぎゃぁうにゃぁってされて、箱に詰められてポンだよ。ひでぇよな、あんまりだよな、かわいそすぎだよな」
ハハーンは腕を組んで、ふむふむと頷いている。
「とういうわけだからさ、にいちゃん、さっそく出かけようぜ」
左手に被さった仔犬のような犬神は、満面の笑顔でおれをみつめてきた。
「いや無理。お前多分、おれの幻覚だから」
寝ぼけているのか、それともおれの頭のねじが緩んだのかしらないが、こんな奴が現実に存在するわけがない。夢や幻の類として処理してしまうのが一番だ。
「この状況で認めないって、にいちゃんやばい奴か?あぶねぇ薬でもやってるのか?」
酒にもドラッグにも手を出したことがないのに幻覚を見ている。そう考えると結構やばい状況なのだけど、それを幻覚であるハハーンに指摘されたくない。
「とにかく、おれの左手から離れてもらうからな。それから箱に詰めて返却。OK?」
「NO!ちっともOKないよ。酷すぎるぜブラザー。あんまりだぜマイバディ!」
やはりこいつは幻覚だ。400年もの間、封印されていたにしては言葉遣いが妙に今風だ。
「なんで会話に英語入ってるんだよ。本物だってんなら古式ゆかしき日本語で話してみろよ」
「おいらはにいちゃんと同化してるんだからさ、にいちゃんの知ってる言葉で話すんだよ。古式ゆかしき日本語で喋れっていうんならやってやるけど、にいちゃん高校のとき古文赤点だったろ?」
確かに古文は苦手だ。だからといって勝手に人の頭の中を検索して黒歴史を引っ張り出して欲しくない。
「とにかく箱に戻す。離れろ」
「い、や、だ。もっと遊ぶんだ。おいらがいれば、にいちゃんの望みはなんだって叶えてやれるんだぜ?その辺もそっと考えてみておくれよ、ベイビー」
望みを叶える?
確かにおれは、整理するだけでも一ヶ月はかかりそうな土蔵の中を、たった一晩で片付けてしまった。だけどその記憶がおれに無いということは、こいつが何かしたと考える方が道理にかなっている。