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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

帳の中で

作者: 伽藍泥

 凍て星は冷然と手負いの将兵たちを見下ろしていた。既に夜半を過ぎた大地は熱を吐ききり、静かに褥に着いていた。なだらかな草原のその中央、幾重にも渡る人の壁を越えた土塁の奥に、七万に足るか否かと見える一つの軍勢が静かにうなだれていた。

 衛士の傍らのかがり火は既に消え、頼みとなる明かりは寒空に微かに光る星明りだけであった。そんな冷え込む暗夜の中、陣中の片隅にある帳には、仄かな星明りに映し出された二つの影があった。

「楚歌は止んだか」

床に仰向けに寝転ぶ一人が問いかけた。

「はい、そのようでございます」

(しと)やかな声が優しく応えた。

「そう、か」

傍らに無造作に置かれた空の酒壺を帳の外に投げやって、ゆっくりと起き上がった。がちゃん、という壺の砕ける音と共に二つの人影は向かいあった。

()よ、もっと側に来てくれ」

「かしこまりました。こう、ですか?」

()()はゆっくりと近づいて、隆々とした背に細い腕を回した。

「それでいい」

力無く返すその声を聞いて、虞姫は不安げに見上げて言う。

「項羽様、お疲れですか?」

「……少し、酔っただけだ」

暫く黙したまま座っていた項羽は虞姫の(たお)やかな黒髪を撫でながら応えた。

「戦のことはあまり分かりませんけど、何か抱えるものがあるのなら、私に吐き出して欲しいです」

優しく語りかける透き通った声は、荒んだ項羽の心を揺さぶった。

「俺は間違っていたのだろうか」

虚ろなまなざしで帳の外を見つめながら、項羽は口を開いた。

「俺は長きに渡り楚のために戦地に身を投じてきた。(かん)(よう)を焼き払い、憎き秦を根絶やしにし、楚の雪辱を果たした。それなのに!今や楚人は皆、漢に下り俺を殺そうと息巻いている。……俺はどうすれば良かったのだろうか」

呼吸を荒げながら一息に話した項羽の背を、虞姫は優しくさすりながら応えた。

「項羽様は何一つ間違ってはおりません。楚の者たちは漢兵に脅されて仕方なく下っているだけでございます。常に義を重んじ、故郷のために戦う項羽様を慕わぬ楚人などおりません。間違っているだなんて、おっしゃらないでください」

項羽の虞姫を抱く腕に段々と力が入っていった。嫋やかな長い黒髪を撫でながら項羽は虞姫と口唇を合わせた。

「ふふふ、項羽様、ちょっとお酒くさいです」

言葉ではそう言いつつも、嬉しそうな虞姫の美しい笑顔は項羽にとって何よりも愛おしかった。

「酒くさい俺は嫌いか?」

「いいえ、どんな項羽様も愛しております」

 またにこりと微笑んで、虞姫は項羽の首元に顔を近づけた。首元に触れる虞姫の口唇は、凍てつく冬の夜にはより一層温かく感じた。

「今日も、随分と冷えるな」

ゆっくりと手を伸ばして、仄かな光を受ける虞姫の頬を撫でる。ふいに手を離せば消えてしまうような気がして、そのままなぞるように手を滑らせ、虞姫の肩を抱き寄せる。

「こうしていれば、きっとすぐに温かくなりますよ」

婀娜(あだ)っぽい笑みを浮かべて虞姫は言った。微かな星明りを受けた虞姫の瞳は爛々と光っているように見えた。

凛冽とした夜空に浮かぶ凍て星だけが、揺れる帳に影を作っていた。






漢軍の包囲が始まって十四日ばかりが過ぎようとしていた。毎夜に渡る楚歌の大合唱は楚軍の戦意を削ぎ、飢えと寒さがじわじわと毒のように楚軍の体力を蝕んでいく。

 虞姫の膝に頭を乗せながら、項羽は自らの鼓動の速まりを感じていた。俺は彼女を殺さねばならぬのだ。明日の早朝には垓下(がいか)を囲う漢軍の突破を試みる、それに彼女を連れていくことはできない。となれば、この飢えと寒さに閉ざされたこの地獄に彼女を置いて行かねばならなくなる。もし、将軍の消えた垓下になだれ込んだ漢軍の群れに彼女が無残に殺されてしまったとしたら?もし、彼女が奪われ俺以外のものになってしまったとしたら?そんな恐ろしい想像が頭によぎって、項羽の思考はいっそのこと虞姫を自らの手で殺してしまえば良いのだという澱んだ衝動に覆いつくされてしまっていた。

 暗がりを見つめていた視線を薄い帳の布から漏れ出す月明りの方へゆっくりと向ける。上を見上げた項羽に向かって、虞姫はふっと笑みを向けた。その微笑みは銀の月光を纏って、あまりにも美しく、あまりにも愛おしく、今の項羽にはとても見ていられるものでは無かった。

数刻ばかりの時が過ぎた。三十万の漢軍による楚歌の大合唱は既に止み、吐き出す息は月明かりに照らされて白みを帯びていた。いつにも増して口数の少ない項羽を心配そうに虞姫は見つめていた。

「今日は、もう寝よう」

唐突に項羽が口を開く。

「あ……はい、そう致しましょう」

少し戸惑いながらも虞姫は応えて、項羽の傍に横たわった。

「今宵も寒さが堪えますから、もう少し近くに寄っても良いでしょうか?」

「ああ、構わない」

「ありがとうございます」

高まる鼓動を聞かれないように、滲む涙に気付かれないように、項羽は背を向けたまま虞姫が眠りに付くのをただひたすら待っていた。

 

 

 

 

 

 どれほどの時間が経ったのであろうか。月は天蓋の頂点へと登り、皎々(こうこう)と夜半の帳を照らし出していた。ゆっくりと項羽はその身を起こして、匕首(ひしゅ)を懐から取り出した。傍らで静かに寝息を立てて眠る虞姫の首筋に、月光を受けてぬらぬらと鈍色に光る匕首をあてがう。

しかし、いくら時間が経とうとその匕首が動くことはなかった。項羽は指も手も動かすことが出来ぬまま、月下の帳の中で佇んでいた。匕首を振り上げ一息に突いてしまおうと試みても、すんでの所でその手は止まってしまう。「愛しています」と言った虞姫の笑顔が呪いのように脳裏にちらついて、項羽は動けなくなってしまっていた。視界を徐々に滲ませていく涙は、やがて頬を伝って虞姫の柔肌を濡らした。

「項羽、様?どうなされたのですか?」

目を醒ました虞姫が項羽のただ事では無い様子を見て言った。

「……寝付けなかっただけだ。何も、何もないのだ」

咄嗟に涙を拭って項羽は言う。隠すように匕首を握りしめた右手からは血が滴り、どくどくと響く自らの心音で、思考も視界も何もかもがあやふやになっていく。

「項羽様……」

細い腕で項羽の頬を撫でながら、ゆっくりと虞姫は語り掛ける。

「項羽様の抱える痛みも悲しみも何もかも、私はご一緒したいです」

項羽の固く握りしめた右手に、そっと虞姫は手を添えた。宵闇を受けて黒を帯びた血が虞姫の手を伝う。

「どうされたのか、話していただけませんか?」

暫くの沈黙の後、項羽は口を開いた。

「……俺は、俺はお前を殺そうとしていたのだ」

「そう、だったのですか」

穏やかに微笑む顔が月光に照らされて項羽の目に映った。嫌になるほど美しかった。

「理由を、聞かせていただけますか?」

「……俺が弱いからだ」

「そんなこと……」

「俺はお前を手放す勇気も、項籍という武人を捨てる諦念も、漢を打ち破る力も無かったのだ」

「だから、お前を殺して項羽という男もここで殺す。項籍という名を捨てられぬ俺を、どうか赦してくれ」

鋭く肌を切り裂く刃に込めた贖罪への一縷の願いが、匕首を握る力を強めていく。

「私の身も心も全て、既に項羽様に捧げております」

身を起こしてすり寄る虞姫の暖かな指先が、閉ざされた項羽の右手にそっと添えられる。

「項羽様の痛み、私にも頂けませんか?」

固く閉ざされた右手はようやく開いた。手のひらを鋭く深く切り裂いた匕首が落ちる。虞姫は血濡れたそれを拾い上げて、拭うように匕首に纏わりつく血を舐めとった。

「項羽様から与えられるものならば、痛みでも死でも、心の底から嬉しいんです」

再び銀の光を返すようになった匕首で、虞姫は自らの衣を切り取った。布切れとなったそれを項羽の右手に優しく巻き付ける。柔らかな感覚が恐れと迷いで萎縮しきった心も融かしてくれるような気がしてならなかった。

「だから……」

虞姫は匕首の柄を項羽に再び握らせて、赤の斑点が付いた(しとね)に寝転んだ。

「夜が明けてしまう前に、しばしのお別れ、致しましょう?」

峭刻(しょうこく)たる眼差しで見下ろす満月が、ゆったりと寝転ぶ虞姫の瞳を燦然(さんぜん)と照らし出した。

ゆっくりと鋭利な匕首の先端が白い喉元に近づいていく。しかし、やはり幾何(いくばく)の時が経とうと寸前で匕首は動かなくなってしまう。天頂の月は徐々に傾き、匕首は再び鈍色に光る。

「もう、項羽様ったら優しいんですから」

そう虞姫が言ったその一瞬、項羽の手に伸ばされたか細い腕が動かぬ右手を自らの喉元へ動かした。暖かな鮮血が白い肌を伝う。

「な……」

予期せぬ事態に項羽が呆然としていると、幸せそうな笑顔で見上げる虞姫は続けた。

「でも、そんな項羽様が私は愛しくてたまらないのです」

絞り出すように小さな声で虞姫は言った。項羽は強く強く虞姫を抱き締めた。涙を堪えるために、記憶にその感触を刻み込むために。

「すまない、すまない」

動悸で呼吸を乱しながら、項羽はそう繰り返した。

「一つ……伝えそびれて、おり、ました。不謹慎かと、あの場では、言えません、でしたけど、すごく……すごく、項羽様のあの歌、嬉しかったです」

「あんな女々しい歌などどうでも良い。無理をしないでくれ」

その言葉を聞いて、虞姫はまた穏やかに笑って言う。

「項羽様、いつまでも、愛しております」

「虞よ、俺も永遠に愛している」

 喉元から引き抜いた匕首を項羽は静かに虞姫の胸に押し込んだ。

 刹那、煌々と注ぐ銀の光が、嫌と言うほど克明に虞姫の白と鮮血の赤を照らした。

項羽は視界がどんどん滲んでいくのを感じながらまた虞姫を緊と抱き締めた。

虞姫は残された僅かな力で、項羽の顔を手繰り寄せて、ふっと口吻(くちづけ)をした。口の中に生暖かい鉄の味と艶やかな恋慕の味が広がった。

その余韻をまだ残したまま、虞姫のか細い腕は頬を離れ、ぐったりとした身体が鉛のような重みを携えて項羽の両腕にのしかかった。  

幽かに残ったその熱が月夜の冷気に逃げるまで、項羽は縋るように抱き締めていた。

                      


ご精読ありがとうございました。部活の企画で書いた短編です。いずれ長編歴史小説も書きたいなと思っています。

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