吸血鬼(1)
ティアはカトリーヌの私室から静かに出てきたのだが、彼女の顔はまたもや少し青ざめている。
「ティア? 何してるんだ、そんなところで」
アイラは疑問に思って言った。ティアはカトリーヌの部屋から出てきたが、カトリーヌはさっき『ティアの居所は知らない』と言っていた。
それはつまりカトリーヌが嘘をついていたのか、それとも本当に知らなくて、ティアが無断でカトリーヌの部屋に入っていたのか……。
ティアはハッとしてこちらを見る。
「ライアさん、ルルさん」
ティアはあまり元気がないようだった。
「気分でも悪いのか?」
そう気遣いつつも、アイラは追及する。
「カトリーヌの部屋で何してたんだ? お前はこの部屋に自由に出入りできる立場じゃないだろ?」
掃除をしたりカトリーヌの世話をするために彼女の部屋に出入りできるのは、使用人の中でも一部の決められた者だけなのだ。新人で下っ端のティアは、許可がない限り入ることを許されていないはず。
「あの……」
「何してた?」
アイラはもう一度尋ねた。ティアがそんなことをするとは思えないが、使用人がこっそり主人の部屋に入る目的として一番に思いつくのは、『盗み』だ。
震えてうつむくティアを廊下に残し、アイラは中を確認しようとカトリーヌの私室に入った。寝室や執務室は別にあるので、この部屋は日中プライベートな時間を過ごすためのものだろう。
部屋の真ん中に派手な深紅のテーブルと椅子が四脚あり、大きな窓のそばにはソファーが置いてある。絨毯も赤色、壁紙も赤い薔薇の花でやはりちょっと派手だが、部屋が全体的に赤い以外は、特に変わったところはない貴族の私室という雰囲気の部屋だった。
宝飾品などの貴重なものを置いていそうな棚などもないし、別の場所で管理しているのだろう。ドレスや靴は衣装室にあるはずだし、ここには簡単に持っていけそうなものはない。壁に絵画が掛けられていたり、豪華な花瓶が花と共に飾られていたりするが、これらはどれも大きくてこっそり持ち出すのは難しそうだ。
「何してたんだ?」
アイラは再度聞いた。やはりティアは盗みなどはしていないと思ったので、単純に何の用があったのか知りたかったのだ。
ティアは廊下に立ったままだったが、ルルに軽く背を押されて部屋の中に入ってきた。部屋に三人だけになると、ティアは青い顔をしたまま小さな声を絞り出す。
「わ、私からは、言えません……。こんな恐ろしいこと……。それに伯爵様にも口止めされていて……」
「カトリーヌに?」
ティアの話は要領を得ないが、口止めされているということは、ティアがここにいることをカトリーヌは知っていたということだろう。
つまりカトリーヌはさっき、ティアの居場所を知らないとアイラに嘘をついたことになる。
「二人で何を隠してるんだ?」
アイラがティアを問い質そうとした時だった。ルルがアイラの背後にあるテーブルの上を指さして驚いたように言う。
「あれを見てください」
「何だ?」
アイラが振り返ると、テーブルの上にはグラスが一つ置いてあった。ワイングラスではなく小さなショットグラスだったので、あまり目立たず気づかなかった。
しかもテーブルが赤いために分かりにくかったが、よく見ればそのショットグラスは赤い水滴で濡れている。グラスは空だが、まるで血でも入っていたみたいだ。
「何だ、これ」
アイラが顔をしかめてそのグラスを手に取ったところで、部屋の扉が廊下からギィと音を立てて開けられた。
「……殿下。ここで何をしているの?」
入って来たのはカトリーヌと、さっきも一緒にいた女性の使用人だ。カトリーヌはまだドレス姿なので、アイラがティアを探していると知って、浴場に行く前に引き返してきたのかもしれない。
カトリーヌの表情は硬く、目は鋭い。そして不穏な空気をまとっていた。
しかしアイラは臆することなく、赤く濡れたグラスを突きつけ、カトリーヌを見つめ返す。
「それはこっちのセリフだ。このグラスは何だ? 何が入ってた?」
言いながら、アイラはファザドが前に言っていたことを思い出していた。カトリーヌには、彼女の正体は吸血鬼ではないかという噂があるのだ。
馬鹿げた噂だが、このグラスを見るとにわかに真実味が出てくる。
「さっさと片付けておけばよかったわ」
カトリーヌはため息をついて言った。ティアは緊張した面持ちでアイラとカトリーヌを順番に見つめているが、カトリーヌと一緒にいる使用人は動揺している素振りはない。彼女はきっと、このグラスに何が入っていたのか知っているのだろう。
「その赤い水滴は血液よ。グラスには血が入ってたの」
冷たくも聞こえる落ち着いた口調でカトリーヌが言う。予想していた答えではあったが、アイラもルルもすんなりと受け入れることができずに眉根を寄せた。
「なんでグラスに血液なんか入れてたんだ」
カトリーヌの正体が吸血鬼だったとして、ここに血液が入っていたグラスがあるのなら、中身は彼女が飲み干したのだ。そう考えるのが自然だが、やはり血を飲むなんて信じられなくて、アイラは思わず尋ねる。
「そうね、説明させてちょうだい。まずはそのグラスを返して」
そう言うと、カトリーヌは使用人を連れてアイラの方へ近づいてきた。そしてアイラが差し出しているグラスに手を伸ばすと見せかけて、素早くアイラの体を捕まえる。後ろへ回ってから抱きしめるようにして腕と上半身を拘束したのだ。カトリーヌは女性だが、アイラより身長が高い分、腕も長く、簡単に捕まってしまった。
「フレン、早くッ!」
そしてアイラを拘束すると同時に、カトリーヌは使用人に向かって鋭く叫んだ。その声に応えて、使用人は正面から俊敏にアイラとの距離を詰める。彼女はアイラが見たことがない不思議な形の針を手に持っていた。
「アイラ!」
ルルが叫び、針を持った使用人を止めようと駆け出す。
しかしルルが彼女を捕まえるより早く、アイラは力を使った。魔力で使用人の女性を後ろに吹っ飛ばしたのだ。
カトリーヌに抱きしめられていて腕が動かなくても、至近距離にいる相手なら視線を向けるだけで魔力を当てられる。
「きゃあッ!」
それほど大きな力は使わなかったが、使用人は五メートルほど後ろへ飛んで床に倒れた。床には絨毯が敷いてあるが、そこそこの衝撃だっただろう。けれど頭を打って意識を失うということはなく、「うぅ」と呻きながらすぐによろよろと上半身を起こした。
「本当にやっかいな力だわ。殿下は簡単に私の思い通りにはなってくれないのね」
アイラを捕まえたまま、後ろでカトリーヌが苦々しく呟く。
使用人は戦意を喪失したようで、再びアイラに向かってくることはなく、怯えて床に座り込んでいる。
「離せ、カトリーヌ。このままお前を吹っ飛ばそうとすると私まで吹っ飛ぶ」
アイラは背後から自分を抱きしめているカトリーヌに言った。
カトリーヌは緊迫した声音で返してくる。
「……吹っ飛ばそうとするのをやめてくれるなら、離すわ」
「じゃあ離したら色々説明しろ。全部正直に話したら吹っ飛ばさないでおこう」
アイラの要求に、カトリーヌは少し逡巡した後、頷いた。
「分かったわ」
そしてアイラを離すと、数歩後ろに下がって距離を取る。
アイラは自分よりずっと年上の女伯爵を睨んで言った。
「聞きたいことが増えたな。このグラスの中身、そしてあの変な形の針は何なのか。あの針を私に刺そうとしてたみたいだけど、それで何をするつもりだったんだ? 毒でも塗ってあるのか?」
「まさかそんな、毒なんて」
カトリーヌは慌てて言う。そして毒殺の疑いを持たれるよりはと思ったのか、観念して洗いざらい説明を始めた。
カトリーヌは馬鹿ではないので、魔力を自由に操るアイラを力づくでどうこうすることはできないとすぐに悟って諦めたのもあるだろう。
「まず、このグラスに入っていたのは血液よ。ティアの血液」
「ティアの?」
アイラは片眉を上げると、固唾を飲んで一部始終を見守っていたティアに目を向ける。
そしてカトリーヌはティアに近づくと、彼女の左腕の袖をまくってみせた。ティアの腕には包帯が軽く巻かれてある。
「さっき、ティアの腕から血を取ったの。あの器具を使ってね」
「その針、何なんだ?」
カトリーヌが指さしたのは、まだ床に座り込んだままの使用人が握っている、見たことのない形の針だ。
「あれは注射器と言うのよ。最近異国で開発された医療器具なの。今は私が先取りして使ってるけど、そのうちきっとこの国でも一般的に使われるようになるわ。あの針を血管に刺して血を吸い上げるのよ」
「えぇ……?」
アイラは想像して顔をゆがめた。とても痛そうだと思ったのだ。
するとカトリーヌはそんなアイラの顔を見て笑う。
「痛いのは痛いけれど、たぶん殿下が想像しているよりは痛くないわよ。ねぇ、ティア?」
話を振られたティアは、包帯の巻かれた腕をさすりながら頷く。
「はい……。とても怖かったですが、想像していたより痛くなかったです。一応包帯も巻いてもらいましたが、針を刺した小さな傷口の血もすぐに止まりましたし」
「じゃああの注射器を使って私の血も採るつもりだったのか?」
アイラは使用人が持っている注射器を見て言う。使用人はさっきその針をアイラに刺そうとしていたのだ。
しかしカトリーヌは首を横に振る。
「その注射器は採血用のものとは別なの。あの注射器の中には睡眠薬が入っているのよ。暴れられるとちゃんと血が採れないから、殿下にはまず眠ってもらおうと思ったの。でも急なことだったから、私が使える使用人はこの子一人だけだったし、殿下にはルルもいるし、上手くいかないだろうなとは思ったわ」
カトリーヌと女性使用人の二人で、男のルルと魔力持ちのアイラを相手にするのは確かに無謀だ。
「なんで私の血を狙ったんだ。それにティアの血もどうして採った?」
睨みつけながら詰問すると、カトリーヌはしっかりと化粧を施した目でアイラを見下ろし、真顔で言う。
「私が飲むためよ」




