グレイストーン伯爵(2)
「王族は私の一番の獲物でした。あれほどの悪人、他にはいません。自分の気分次第で臣下や民を処刑し、命を粗末に扱い、国に何の貢献もしていないのに王族というだけで贅沢三昧。感情や欲を制御する努力もせず、幼児よりも扱いづらく、道徳心がない。ひどい人間……いいえ、私は彼らを人間とは思っていませんでした。人間よりずっと程度の低い、醜い化け物です。エストラーダ革命が起きて、騎士たちにその化け物が殺されてしまった事は本当に残念です。いつか私がと思っていたのに」
伯爵の話を聞きながら、アイラの額にはじわりと冷や汗が浮かんだ。自分も王族であり、その醜い化け物なのだ。つまり最後に生き残った、伯爵の最大の獲物だ。
右腕につけられた魔力封じの腕輪は、やはり引っ張ろうが押そうが外れない。このままではまずい。
「私を殺すのか? あの部屋に連れて行って、拷問して……」
だから自分はずっと伯爵の事が怖かったのだろうか。獲物として見られているとどこかで気づいていたから恐ろしかったのかもしれない。そうアイラは思った。
けれど拷問されるなんてごめんだし、殺されたくもない。
アイラはぐっと瞳に力を込めて立ち上がった。
「私はお前になんて殺されない!」
「そうですか」
そう言って伯爵もゆっくりと立ち上がり、アイラと向かい合った。アイラを守ろうとルルも前に出てこようとする。
しかしそこで使用人のロンも動き、素早くルルを羽交い締めにした。
「っ……」
「ルル!」
アイラは振り返って叫んだ。けれど助けようとしても魔法は使えない。伯爵が言ったように、自分は今、ただの無力な少女なのだ。
そして伯爵もアイラを捕まえようと背後から手を伸ばしてくる。二本の腕が首と胸元に回り、動きを制限される。
「やめろ! このッ……」
アイラは伯爵の腕の中で暴れた。そしてその時、テーブルの上の葡萄酒がふと視界に入る。グラスに入れられ、自分に出された葡萄酒だ。
こうなったからには、やはりこの葡萄酒には睡眠薬か毒が入っているのではないだろうか。
アイラは拘束されながらも何とか片手を伸ばすと、そのグラスを手に取った。そして自分の真後ろにいる伯爵の顔めがけて、中身をぶちまける。
「この毒でも喰らえ!」
ちゃんとかかるか微妙だったが、振り返れば伯爵の顔面がばっちり赤く濡れていた。
部屋は一瞬にして静まり返る。
伯爵はアイラを捕まえていた手を離し、ポケットからハンカチを取り出す。
ロンもルルを解放して自分のハンカチで伯爵の肩や首元をぬぐう。
数秒後、伯爵は疲れたように言った。
「……お転婆が過ぎる」
そして顔を拭きながらこう続ける。
「それにこの葡萄酒には毒なんて入っていません。本当にただの葡萄酒ですよ。王女の口に合うよう、少し高級なね。……けれど私もいたずらが過ぎました」
「いたずら?」
空のグラスを持ったまま、アイラがきょとんとして言う。
「あなたをからかっただけですよ。気の強いあなたが頼りの魔力を封じられて無力になったら、どんな反応をするのだろうと思ってね。どんなに気の強い悪人でも、拷問すればすぐに泣き出し許しを請います。あなたもそうなるのだろうかと考えたのですが……どうやらその気の強さは自分の能力によるものではなく、生来のものらしいですね」
呆れているのか感心しているのか分からない口調で言って、伯爵はアイラの腕輪に鍵を差し込んだ。
カチャリと音が鳴って魔力封じの腕輪が外れると、二度とそれをつけられないようにアイラは体の後ろに手を引っ込める。
「お前は私を拷問したいんじゃないのか?」
アイラがそう尋ねると、伯爵はおかしそうに小さく笑った。
「アイラ様を獲物としては見ていませんよ。娘にはしたいと思いますが」
意外な事を言われてアイラは目を丸くする。
「私を娘に? 本気で言ってるのか?」
「そうですよ」
「だが、お前にはちゃんと跡取りがいるだろう」
グレイストーン伯爵は妻に先立たれているが一人息子がいて、彼は今、異国に留学中なのだ。
「ええ、優秀な息子です。けれど私は別にアイラ様を跡取りにしたいと思っているわけではありません」
「じゃあ何故……」
「あなたが家にいれば毎日楽しいだろうと思いましてね」
冗談とも本気ともつかぬ口調だ。
「また私をからかっているのか?」
「さぁ、どうでしょう」
伯爵はあやふやに言ってから、優しく冷たい灰色の目でアイラを見て続ける。
「けれど、あなたが生まれた場所があの家族のもとだった事は、常々残念だと思っていました。人間は生まれた時点で悪人と善人どちらかの資質を持っているのなら、あなたは善人の心を持っていた。他の人間よりずっと輝く美しい魂を持っていただろうにと。ですから私が引き取って育てて、あなたが本来のあなたに変わるのを見たかったのですが――」
そこで伯爵はゆるく笑った。
「――その必要はないかもしれませんね。あなたは城を出て、家族の呪縛から逃れて自由になった。今のアイラ様は城にいた時のアイラ様より輝いて見えますよ。たとえドレスや宝飾品を身にまとっていなくてもね」
「そうか?」
アイラは伯爵に褒められてちょっと照れた。魔力封じの腕輪をつけたりした事は許してやろうと考える。
「でも私、お前の事ずっと怖かったんだ。それはお前が私を獲物として見ていたからだったのかと、さっき思ったんだが、違うんだな?」
「違います」
「じゃあなんで怖かったんだろう」
「悪人相手とは言え、私は人をいたぶるのが趣味な人間ですから。私のその裏の顔を知らなくても、動物的な勘が働いて恐ろしく感じたのでは? あなたはそういう本能的な直感は鋭そうですからね」
そう言ってから話を変える。
「ところで行方不明の子どもたちの事ですが」
伯爵は汚れたハンカチをロンに渡し、再びソファーに腰掛けた。アイラも座って話を聞く。
「何だ? お前はケビンたちの事を知らないんだろ?」
「ええ、知りませんが、ちょっと気になる事がありまして。その子どもたちがいなくなったのは昨日ですよね?」
「ああ。昨日の日中だ」
「実は、昨日今日で他にも子どもが行方不明になっているのです。届け出があった人数は四人で、それぞれ別の家庭の子です。年齢は三歳から十一歳まで、男児が一人に女児が三人。使いに出て戻らなかったり、友達と遊ぶと言って帰らなかったり、母親が目を離した隙にいなくなっていたりと様々です」
伯爵の話に、アイラは眉をひそめた。
「二日で四人もか。ケビンたちも入れれば七人」
「そのケビンたちのように届け出が出されていない者もいるとすれば、人数はもう少し増えるかもしれません。例えばこれまでどこかの主人の元で働いていた奴隷の子どもがさらわれても、主人は行方を捜さないでしょう。奴隷制度の廃止が決まりましたからね、主人は奴隷がさらわれたのではなく、自分から逃げたのだと思うはずです」
「犯人の目星はついているのか?」
「いいえ、まだです。けれど組織的な犯行だろうと思っています」
そこまで話すと、伯爵は少し姿勢を崩してこう言った。
「続きは夕食を取りながら話しませんか? 今夜はうちに泊まってもらって構いませんし。アイラ様なら大歓迎です。もてなしますよ」
「ええ? なんか怖いな。食事に何か入れそうだし、寝てる間に拷問部屋に連れて行かれそうだ」
「そんな事しませんよ。ここを自分の家だと思って、私の事は父親だと思ってゆっくりしてください」
「地下に拷問部屋がある家も、拷問が趣味の父親も嫌だ」
そう言いつつも行方不明の子どもたちの話もしたかったので、アイラは伯爵と一緒に夕食を取る事にしたのだった。
アイラたちを迎賓室に残したまま、伯爵とロンは一度自室に戻った。アイラに葡萄酒をかけられて服が汚れたので、着替えるためだ。
伯爵はアイラがお気に入りなのか、今はとても機嫌がいいようだとロンは思った。
そして服を着替え終えたところで、部屋の扉がノックされた。せわしないこのノックの仕方はイディナだなと伯爵が予想したところで、扉の外から声がかかる。
「イディナです。伯爵様、今よろしいですか?」
「構わないよ」
許可を出すとイディナは部屋に入ってきた。アイラに水をかけられていた彼女もすでに着替えたようで、髪がしっとりと濡れているだけだ。
「彼らどうなりました? 今、拷問部屋ですか?」
アイラの事をまだ少年だと思っているイディナは、伯爵に愉快そうに尋ねた。声が弾んでいる。
伯爵はそれには答えず、こう言う。
「イディナ、よくあの子をここへ連れてきてくれた。けれど勝手にうちの馬車を使ったね? それにロンの事も。ロンは君の召使いではないのだよ」
「申し訳ありません。ですが伯爵様に獲物を届けたかったので」
早口で謝って、そわそわしながら再び尋ねる。
「彼らはまだ生きていますか? あの子たちには私もひどい目に遭わされたので、よければ彼らが苦しむ様を見たいのですが」
イディナは平静を装っていたが、抑えきれないというように口角は少し上がっていた。
伯爵も唇の端を上げてイディナのその表情を眺めると、こう言う。
「いや、二人は迎賓室にいるよ。これから一緒に食事をしようと思っているところだ」
「……食事ですか?」
イディナは不可解そうに片眉を上げる。
「料理に何か仕込んで、それから拷問部屋に連れて行くおつもりですか?」
「いいや、違うよ。君はどうも勘違いしているようだが、私の獲物になるのは悪人だけだ」
伯爵はそこで少し視線を鋭くした。
「お前は以前も、自分が気に入らないだけの女性を私のもとに連れてきたね。けれど彼女も拷問を受ける事なく生きている。どこかで元気にやっているよ。もうすぐ幼馴染と結婚するんだと言っていたかな。きっと幸せにやっているだろう」
「え……」
戸惑うイディナに、伯爵は声を低くして言う。
「私はお前のために、お前の気に入らない人間を拷問しているわけではない。私を利用しようなど千年早い」
「私、そんなつもりじゃ……」
イディナは焦り始めたが、後悔してもすでに遅かった。
「ところでお前のその最悪な性格は私好みだ。獲物としてちょうどいい悪人だ」
「は? ……ま、待って。待ってよ!」
後ずさりするイディナの腕をロンが強く掴む。
「地下に運んでおきます」
「頼んだよ」
「ちょっと待ってッ! 待ってったら……!」
ロンに連れて行かれるイディナを、伯爵は機嫌よく見送ったのだった。




