8章 発見
『 ここ 』 の気候は不思議と常に安定していた。
春のような温暖な気候に、雲一つない快晴が毎日続く事も珍しくはない。
しかし、この日ばかりは違っていた。
早朝からずっと変わらず空一面を覆い尽くしていた分厚い雲は、強い風に流されても全く途切れることが無く、加えて昼前からは大粒の雨も降らせ始めた。
いつもより昼食の時間がひどく遅れてしまった事を、天候のせいにするつもりはなかったタクヤだが、風と雨の影響で海が荒れ、魚を獲ることが不可能になってしまったのは紛れもない事実。
結果、手に入ったのは森で生っていた果実が1個だけ。
この果実、今までに十数回しか見つけたことがなく、食べた事も当然それだけしかないが、 名前も分からない果物とは言え、その甘く濃厚な味は疲労感を和らげてくれる。
1個しか採れなかった物となれば、当然レイカに食べさせたのは言うまでもない。
一昨日の夜、見事に仕留めることに成功した猪の肉は、翌日の朝食から焼いた肉として取り入れる事ができたものの、確実に食べられる部位を見分けられなかったせいか、その日の夕食で早くも底を尽きた。
正確にいえば、食べられる部分はまだ大量に残っていたのかもしれないが、知識不足のタクヤが無計画に捌き、保存の事も考えずに切り分けていたせいで、丸1日と持たずに余った肉が腐り出してしまっていた。
大事な肉が早々(はやばや)と尽きてしまった今朝の食事は、いつも通りの焼き魚。
怪しい空模様ではあったものの、漁を行うこと自体にはそこまで影響はなかったからだ。
しかし、やはり強風で海が荒れていたせいか魚が少なく、昼に廻す分まで獲る事はどうしても出来なかった。
「あの実、やっぱり1個しか採れなかったんでしょ?」
雨風まだ止まぬ昼下がりの洞穴内、レイカのしつこい追及にタクヤはずっと誤魔化し続けていた。
「だから何度も言ってるだろ、2個採れたから1個づつ分けたんだって。」
「じゃあなんで一緒に食べなかったのー? なんで先に食べちゃったの〜?」
タクヤは、レイカの嘘を見破るのは得意ではない。レイカが嘘をついた事がないからだ。
レイカは、タクヤの嘘を見破るのは得意だった。タクヤの行動と態度が余りにも分かりやすいからだ。
「言ってるだろ、見慣れない実だったから毒見するのにその場で食べた。」
こういった嘘なら幾らでもつき通す覚悟がタクヤにはあった。
「ふ〜ん・・・・・・・・・これだけ言っても白状しないんだね。」
ここまで来るとまるで尋問だ。 外に出られないこの状況でレイカの出来る事は 『タクヤを責め倒す』 という遊びしかなかったからかもしれない。
「・・・・・・・・・・それはもういいだろ。 でも、夕方にはこの雨止んでくれるといいんだけどな。」
天候はまだ変わらない。 雨と風が激しく続き、その様子をただ見守る事しかできないタクヤは洞穴の入口付近からずっと様子を窺っていた。
「雨が止んだらすぐに食べ物探しに行く! タクヤに無理矢理でも何か食べさせるんだから!」
「分かった分かった・・・・・・・・・」
以前にもこれぐらい荒れた天候になったのを1度だけ見たことがあるタクヤだが、その時は何の前触れもなく唐突に雨が止み、風もそよ風程度まで収まると、雲の切れ間から陽の光が射した。
そして、それからおよそ十数分後には雲が完全に消え去り、空一面が晴れ渡るという、驚異的な空模様の変化を目撃した。
丁度その雨が止んだ瞬間は、体調を崩して寝ていたレイカを洞穴に残して、雨の中、食料を探しに外に出ていたのでレイカはそれを見ていない。
記憶が無いとはいえ、自分に身に付いている常識から考えるとあんな事はあり得ないし、起こり得ない筈だと思っていた為に、今も鮮明に頭に焼き付いている。
今回のこの雨と風もまた同じなんじゃないだろうか。 何の根拠もないが、何となくそれを期待してしまっていたタクヤ。
仮にこんな天候が長期間続けば、自分達にとっては食料の調達に大きな支障が出てしまうからだ。 それはつまり、生きていくことが困難になるということ。
「雨さえ止んだら本当にすぐ出よう、またいつ降るか分からないんだ。」
タクヤはとにかく食料の心配が尽きない。 いつも晴れているのが殆ど当たり前だったここでは、普段考えることもない大きな不安。
ただ待つしかなかった。
たわいもないレイカとの会話で、その時間の長さを埋める事が出来たのはタクヤのとっては唯一の救いだったのかもしれない。
どれくらいの時間が経っただろうか。
夕暮れまでには、まだ随分時間があると思われる。
外の天候だけに気を張っていたタクヤは何かの変化に気付いた。 それは湿度の変化。
髪や顔面の皮膚で感じられる僅かな湿り気が減少した事で、 『天候が変わる』 と直感的に分かってしまった。
「レイカ、雨が止むかもしれない。」
自らの直感を信じたタクヤはレイカを入口まで呼び寄せた。
「そんなの分かるの?」
「なんとなく」
疑わしいのは当然だろう、普通に考えてそんな事が分かる訳がない。
降り続く雨の影響で、洞穴内に流れ込んだ雨水は足元の土を泥に変化させ、その足場を悪くしていくが、ただ待つのみのタクヤには気にならない。
その隣で待つレイカは基本的に雨が嫌いらしく、濡れる事も湿気さえも嫌がるために不満を漏らし始める。
「今日1日は止まないと思うよ。」
「・・・・・・・・・」
「ねぇ奥に行こうよ、タクヤ。」
「・・・・・・・・・」
「もう今日は1日寝てようよータクヤ〜!」
「・・・・・・・・・いや」
駄々(だだ)をこね始めるレイカに見向きもしないタクヤは、ただひたすら外を見つめている。
「こんなに降ってるのに止むわけな・・・・・・・・・」
呆れたレイカがタクヤに寄りかかり、ふと外を見たその時だった。
「あ・・・・・・・・・!」
レイカは目の前の光景が全く信じられなかった。
突然、雨が止んだ。
例えるなら、全開で出していたシャワーの水を、蛇口を勢いよく捻って止めた様な唐突さ。
「うそ・・・・・・・・・」
呆気にとられるレイカを残し、外に1歩出てみたタクヤに降ってくるのは、洞穴の上部から落ちる水滴のみ。
「やっぱりだ、レイカ行こう。」
さほど驚く様子もないタクヤは、予め近くに置いていた愛用品の槍を手に取り、レイカを誘うとすぐにびしょ濡れの地面を歩き始めた。
「・・・・・・・・うん」
レイカにはこの目の前の信じられない光景よりも、それを事前に予測していたタクヤに対する驚きの方が数倍大きかった。
雨はすっかり上がり、風はまだ吹いているが、その勢いは明らかに弱くなっている。
雲はまだ空一面を覆っているが、この分なら以前と同じく、すぐに雲も消え、陽の光も射し込んでくるだろうと容易に想像できた。
まだ2度目の経験でこれだけタクヤが動じないのは、生きていくため。 大雨が突然止んだなら、それは只の幸運だと思って、即座に生活に必要な行動を再開しなければいけない。 今度また、いつ不測の事態が起こるか分からないからだ。
それがここで身に付いた、生きていく為の本能。
雨上がりの森はいつもと違い、どこか異質の静けさを感じられる。
雨粒の重みから少々の風ではざわつくこともない植物。 虫や鳥の気配も何処かに消え、至る所から雨粒の雫が落ちる。
「・・・・・・・ただの通り雨ってやつなのかな。」
海岸への道を進む途中、空を見上げたタクヤが予想通りの晴れ間を見てポツリと呟いた。 レイカには聞こえていない様子。
「私、雨は嫌いだけど雨上がりって好きだな、なんだかキラキラしてる。」
そこら中にできた水溜まりを、避けるように飛び跳ねているレイカはまるで子供のようだ。 それを微笑ましく見ているタクヤは昨日の事を思い出していた。
昨日の朝の出来事。
真正面から本心をぶつけてくれたレイカを何も言わずに抱き締めた。 胸が痛くなるほどに愛おしくて守りたい、ただそれだけの気持ちで。
それから1日以上が経ち、特にまた何かあったわけでも、それ以上何かしたわけでもない。 今まで通りの関係は全く変わらない。
だが、自分の腕の中にいるレイカを見ている内に、今までに無かった感情が湧き出していることに気付いていた。
それが愛なのか、それとも恋なのか、または愛情と呼ぶものなのか、 幾ら考えても分からない。
愛と愛情は別のものなのか、愛と恋とは同じ気持ちのことなのか、それなら恋と愛情の違いはどこにあるのか、恋より大きい気持ちを愛と呼ぶのか。
レイカに対するこれまでの感情が愛情だとすれば、今のこの気持ちは一体何なのだろうか。
ただ間違いなく言える事は、レイカの存在が自分の中で大きくなっていること。 『大切』 だと思う気持ちが以前よりずっと強くなっていること。
好き・・・・・・・・・?
仮にもし、自分がレイカに対して恋愛感情を抱いているなら、それは許される事なのだろうか。
いつも無邪気にはしゃぐレイカは一体何歳だろう。 自分の中から消えている 『記憶』 とは別に残っている 『知識』 から言えば、外見上は15〜16才に見える。
自分の歳は、分からない。 以前レイカに聞いてみたところ、 『よく分かんないけど若くてカッコいいと思う』 といった曖昧で、茶化した様な答えしか返ってこなかった。
自分がまだ若者なのは分かるが、外見も言動もこんなに幼いレイカに、自分が何か特別な感情を持ってしまっていいのだろうか。
自分はもう大人で、レイカはまだ子供かもしれないのだ。
お互いに記憶が全くない。 だが、そのうち記憶が戻るかもしれない。
その前に、この場所から自分の本来いるべき場所に帰る事が出来るかもしれない。
家族や知り合いが、自分達のことを探しにここに来るかもしれない。
ここが何処かの 『島』 か何かで、自分達がそこの遭難者だとしたら、救助隊がそのうち探しに来るのかもしれない。
そう、何がきっかけで別れる事になるか分からない。
記憶が戻り、帰るべき場所を思い出せば、その時から2人がバラバラになるかもしれないのだ。
だから、特別な感情は抱いてはいけない。 昨日から自分にそう言い聞かせていた。
「あんまり喋んないけど・・・・・・・・・どうかした?」
頭では分かっていてもこのレイカの声を聞くと、つい自分の中の感情を隠せなくなる。
「いや、どうもしない・・・・・・・・」
声? いや、違う。 この存在感だ。
「なんか変だよ? さっきから。」
この存在感が、自分の中の感情を昂らせる。
「なぁレイカ。」
「え?」
胸の中で膨らみ続けるこの感情をずっと抑える事ができるだろうか。
「1つ聞いていいか?」
「うん」
いや無理だ。 気持ちに嘘はつけない。 この溢れる気持ちを抑え込む事など出来ない。
「もし、オレがお前のこと好・・・・・・・・」
言いかけてタクヤはやめた。 何かの物音に気付いたからだ。
「レイカ、止まれ・・・・・・・・!」
「え・・・・・・・」
それは余りにも微かな音だった為、レイカには聞こえていなかっただろう。
普段から野生に身を置き、感覚を研ぎ澄ませる術を自然と身に付けていた、タクヤだからこそ聞こえた音。
「何か聞こえた、声を出すなよ。」
少し離れていたレイカを傍に引き寄せたタクヤは、その音がこれまでに聞いた事のない種類のものだと直感し、咄嗟に近くで隠れられる場所を探した。
突然の事で動揺するレイカだったが、タクヤの雰囲気にどこか只事ではないものを感じ取り、黙って従った。
「一瞬だけど、風に乗って聞こえてきた。 何かいるぞ・・・・・・・・・」
用心のため最小限まで押し殺す声。 2人で耳を澄ませる。
まだ何が聞こえたのか分からないが、気のせいなどではない事を確信していたタクヤは、いつ何が起きてもすぐに隠れられる場所、逃げられる道を頭の中で用意した。
「あ、聞こえた・・・・・・・・・・」
レイカの聞いたもの、それは当然タクヤにも聞こえている。
「・・・・・・・・・・声だ、間違いない」
2人が聞いた音、それは紛れもなく人間の声だった。
タクヤはレイカの手を握った。 それは恐怖からではない、危険を感じたらすぐに手を引いて逃げる為だ。
「人が・・・・・・・・いたんだ・・・・・・・・・・」
恐怖と驚きと不安に震え出したレイカを敏感に感じ取っていたタクヤは、逃げるべきなのか、その正体を確かめるべきなのか迷った。
2人に届いた声は甲高い笑い声で、普通に考えると人間の女の声。 それも別に不気味なものではなく、むしろ陽気な感じがする。
上空の雲がどんどん途切れ、切れ間からの陽の光が多くなってきた為に、視界はかなり良くなってきている。 どこかに身を隠し、こちらが先に相手の姿を確認することは可能だろう。
声が聞こえてきた方向も、風向きから大体は予想できる。
考えた末にタクヤが出した結論 『確認するだけなら危険は少ない』
「あそこに隠れて様子を見よう・・・・・・・・・多分さっきより少し近付いて来てる」
タクヤが指示した場所はこの周辺では1番大きな木の根元。 太く左右に広がった根が、身を隠すのにはうってつけと言える。
しかし、レイカはそれに心から賛同出来ずにいた。
「ねぇタクヤ・・・・・・・・・危なくない・・・・・・・・・・?」
繋いだ手を左右に揺らし、必死に 『逃げたい』 という意思表示を示すレイカに対し、揺らされた手を止め、強く握り直すという動作だけで 『大丈夫』 と伝えたタクヤは、そのまま姿勢を低くし、レイカと共にその身を隠した。
風向きから予想した方向をジッと凝視するタクヤ。
そのタクヤの腕を掴み、背後から同じ方向をジッと見つめるレイカ。
雲間から顔を出した太陽がそんな2人をちょうど照らし出す。
声の主はまだ見えない。
しかし、その気配は確実に2人との距離を縮めていた。