5章 狩るもの (前編)
「・・・おい」
「・・・・・・・」
「・・・・・おい・・・・・起きろ・・・・・」
「・・・・・ん・・・・・・・」
「起きろ・・・・・・来たぞ・・・・・」
「・・・・・え・・・・・あ!」
「しっ・・・! 大きな声出すなって・・・・・・逃げられるだろ」
「・・・・・・ごめん」
「お前なぁ・・・・・寝るなよ・・・・・・・見たいって言うから連れて来たんだろ・・・・・・」
「うん・・・・・・」
「ほら・・・・・あそこ・・・・・・・見えるか・・・・・・?」
物音一つしない夜の静寂。
鬱蒼と茂る草に寝転び、静かに身を潜める2人。
闇に目が慣れたとはいえ、月も隠れた完全な闇の中に 「それ」 は影としてしか確認できない。
「・・・・・・あれが・・・・・?」
「・・・・・ああ・・・・・・もっと近づいて来ればいけるんだけどな・・・・・」
鋭く尖らせた木製の槍を握り直すその手にも自然と力が入る。
「・・・・・いけそう・・・・・・?」
「・・・・たぶんな・・・・・・・でも逃げられたら追いつけない・・・・・・」
音も立てず移動する影は確かに見えるが、どこに向かうのかまだ分からない。
「もし・・・・・こっちに向かって来たら・・・・・・・」
「・・・・・・その前に仕留めるさ」
その 「影の主」 が非常に鼻が利くのは以前に確認済み。
対策として、水で濡らした体中に砂を擦りつけ、できる限り匂いを隠している。
目を逸らさず追い続けていると、影が僅かに大きくなったのがはっきりと分かった。
確実に影との距離が縮まっている。
今はもう、衣擦れの音でさえ立ててはいけない。
耳を澄ませ我慢強く自分の間合いまで近づくのを待つ。
(もう少し・・・・・・)
影が更に近づく。
その距離はもう5メートルもない。
(・・・・・・よし、今だ!)
ザッ!
静寂の中、自分の立ち上がる音があまりにも大きい事を、その瞬間激しく後悔した。
しかし、躊躇いはもう無い。
ズサッ
勢いよく飛び出し握り締めた槍で影の正体を突き刺す。
フッー!ゴフッ!
「やった!」
死角からの突然の脅威に影の主の全力の回避も虚しく、背中にその攻撃を浴びせられた。
狩人の手は突き刺した槍を握り締めたまま。
だが痛みに暴れ回る影の主のあまりの勢いに、思わずその手を離してしまう。
振り払われた形になった狩人は体勢を崩し尻餅をついてしまった。
ンッーフッッフブッー!
激痛と興奮で数秒間はその場で暴れ狂っていた影だが・・・・・
次の瞬間。
猛烈な勢いで狩人と反対の方向へ走り出すと、そのまま深い闇へと去って行った。
「あっ! くそ・・・!」
どうやらダメージはあったものの、致命傷には至らなかったらしい。
「・・・・・・逃げられたか」
走り去って行く鈍い足音は、その姿より数秒遅れて完全に消えてしまった。
「タクヤ! 大丈夫!?」
その足音が消え去ると同時に勢いよく飛び出し駆け寄る人影。
「あぁ平気だ・・・・・・レイカごめん、失敗だ。」
その場に座り込んだまま悔しがっているタクヤ。
「いいよもう! やっぱり猪なんか危ないよ!」
影の正体は猪。
以前に猪を見つけ、食料にしようと猪狩りを言い出したのはタクヤ。
「でも、惜しかったろ? ちゃんと急所を狙えてればな・・・・・・」
「でもじゃないよ! 危な過ぎるってばぁ!!」
怒りで興奮してしまっているレイカ。
「落ち着けって・・・・・・」
「だって! タクヤにもしもの事があったら私どうすればいいのよぉ・・・・・・」
よほど怖かったのだろうか、レイカは泣き出しそうな勢い。
さすがに泣かれると弱いタクヤ、この状況で下手な言葉は逆効果だと百も承知。
「分かった、もう諦める。」
すでに泣き出してしまったレイカの肩に手を回し、俯く彼女にそっと囁く。
「ほら、帰ろう?」
「・・・・・・うん」
穏やかな声に安心したレイカはすぐに泣き止み、タクヤに身を寄せると、2人は暗い森を家路に向けて進み出した。
危険な状況で危険な目にあったタクヤを見て完全に恐怖を味わったレイカ。
こうなることを恐れて本当は連れて来るつもりはなかった。
あの場では 「諦める」 と言った。
だがタクヤは決して諦めていない。
惜しくも逃がしてしまった現実を目の前に、そう簡単に諦めることはできない。
猪狩りを実行に移そうとしたきっかけ。
それは、昼間1人で食料調達へ出かけた際に偶然見かけた猪。
なんと川で水浴びをしているではないか。
記憶は一切無くとも、猪の姿形や習性ぐらいは知ってるつもりでいた。
だが、さすがに猪が自分から水に入る習性は知らなかった。
陸上動物で水を浴びる・・・・・・自らの汚れに敏感・・・・・・鼻が利く・・・・・・?
それとも単に・・・・・・・体温を下げるため?
この時点では、狩るという考えはまだ無かった。
昼間にしか行動しないと思っていたからだ。
明るい場所では姿を見られてすぐに逃げられてしまう。
その上、もし鼻が利くとなれば問題外。
ところが別の日、夜に行動する猪を見てしまった。
闇の中で姿ははっきり見えずとも、足音から察するに間違いなく猪。
周囲に人間の住処や匂いを嗅ぎつけると警戒のため行動時間を反転させる動物もいるという知識が頭の片隅にあった。
夜間で視界を奪えるなら、あとは匂いを何とかすれば捕まえられるんじゃないか。
ここに来て2ヶ月半は経つが、野生の動物で鳥と野犬以外に出会ったのは猪だけ。
さすがに犬を捕まえて食べる発想は無い。
鳥を捕まえる事は考えたが、罠を作る技術も撃ち落とす道具も無い。
猪なら、捕まえる事ができれば食べられる。
この見覚えのない場所を1人で彷徨った最初の2週間程で食したのは魚のみ。
レイカと出会ってからは、食料を求めてそれまでより遠くへ行く事が出来なくなった。
1人で探索すると言うと、住処である洞穴で待つレイカは 「遠くへは行かないで」 と言う。
一緒に遠くまで探索しようと言うと、怖いのか 「行きたくない、今のままでいい」 と強く言う。
そんなレイカの言葉を無視する事など出来るはずがない。
タクヤがもし、今も1人なら。
レイカという存在が無ければ、わざわざ猪を捕まえて食べようとは思わない。
共に過ごした2ヶ月もの間でレイカに食べさせてきたのは魚か、稀に採れる木の実だけ。
元々体が弱いせいもあるかのもしれないが、レイカが最近よく体調を崩す。
食べて休めばまた元気になるのだが・・・・・・
心なしかレイカの顔はやつれ、以前より少し痩せたように見える。
考えた末にタクヤが出した結論。
「レイカに栄養を」
肉を食べさせてやりたい、ただそれだけ。
自分がいなければレイカは何もできない。
始めて声を交わした時、レイカは怯えていた。
自分の今置かれている状況が分からず、記憶も無い。
そんな2人の間に仲間意識はすぐに芽生えた。
タクヤの道具作りを手伝う程度しか出来ないレイカだったが、それを役立たずや足手纏いと思った事は1度も無い。
1人では何も出来ず、いつも自分を頼ってくる妹のような存在。
自分にもどこかに家族がいるはず、親や兄弟もいるのかもしれない。
だがここでの生活を続けているうちにこれが自分の日常になってしまっている。
同じ血を分けた兄妹のような存在。
それがタクヤにとってのレイカ。
2人が住居として利用する洞穴、その周辺には池や川といった水場が多く、海岸にも近いため生活するには文句の無い条件だった。
闇の中レイカの手を取り、慣れた目でひたすら進む帰り道。
眠いのか、疲れたのか、道中レイカは一言も喋らない。
何事もなく無事に帰り着いた洞穴の奥まで進む。
ここには寝床と幾つかの道具が置いてあるのみ。
「眠いか? もう遅いし今日は寝よう。」
無言で頷いたレイカは、眠いというよりどことなく元気が無い様に見えた。
普段は手を伸ばしても届かない程度の距離は空け、並んで寝る2人。
それも今日ばかりは違った。
タクヤの腕に両手でしがみ付き、すぐ隣に寄り添うように眠りに就くレイカ。
いつもの調子でふざけてやった行動ならすぐに振りほどく腕も、今夜はそうしない。
その強く締め付ける両手がレイカの気持ちを鮮明に映し出している。
レイカが寝入った隙に、今夜再度挑戦しようと考えてたが、さすがにこれでは行けない。
これ以上心配はかけたくない。
だが、諦めるつもりもない。
(明日にするか・・・・・・・)
見上げる真っ暗な天井。
肌に感じるひんやりとした空気。
それと裏腹に片腕を包む温もり。
耳元から聞こえる小さな寝息を静寂の中に聞きながら、タクヤはゆっくりと目を閉じた。
ここで迎える朝はいつも仄かな明るさに包まれる。
洞穴内の闇と穴の奥へ向かって射す朝日が絶妙にブレンドされた不思議な色。
その僅かな変化と外のスズメらしき鳥の鳴き声でタクヤはいつも目を覚ます。
レイカは今日も相変わらずまだ眠っている。
その両手は昨晩と全く同じ状態のまま、タクヤの腕にしがみついている。
(珍しいな・・・・・・いつも寝相悪いのに)
ここで共に暮らし始めてから只の一度もレイカに起こされた事は無い。
例外があるとすれば、夜中に強引に起こされ外に連れて行かれる。
用足しのため。
未だに1人で外に行くのが怖いらしい。
「仕方ない奴だな」 といつも渋々ついて行く。
レイカがいつも自分より多く睡眠をとる事。
単に女性だからか、体力が無いのか、そんな理由を安易に考えていた。
だがそれは全くの考え違いだった。
タクヤはレイカに1度言った事がある。
「よく寝るよなレイカは、俺が起きたらいつもまだ寝てる。」
するとレイカはこう言った。
「いつも私のせいで疲れてるでしょ? だから先に起きても起こさない、また寝るの。」
その言葉を聞いた時以上に、レイカを愛おしく思った事はおそらく1度も無い。
以来、タクヤは無意識に、それまでより早く起きている事に自分でも気付いていない。
「レイカ。」
腕を掴まれているタクヤは起き上がる事も出来ず、横になったまま顔を向けその寝顔を見た。
「・・・・・・ん」
「朝だぞ。」
気持ち良さそうに眠っているレイカを毎日起こすのは嬉しくもありその反面、罪悪感もあった。
「ぅ・・・・・ん・・・・・」
ようやく目を開けたレイカは目の前にあるタクヤの顔をジッと凝視している。
「おはよう」
タクヤは優しく囁いた。
「・・・・・おはよう」
いつもより間近から囁かれた事がよほど嬉しかったのか、レイカは満面の笑みを浮かべている。
「・・・・なんだ、どした?」
「ううん、なんでもない。」
しがみついている腕を更に強く組み直すレイカ。
「まだ眠いなら寝てても・・・・・・」
「起きるー」
いつもお決まりの些細なやり取り。
明らかにまだ眠いのは見れば分かる、どう見てもただの強がり。
「じゃあ行こう。」
朝起きて最初にする事は近くの川にて洗顔等の身支度、その後は海岸へ行く。
魚獲り専用の手作り銛を忘れずに持っていく、タクヤの愛用品だ。
ここで生きて行くためにも主食になる魚を獲る事は重要な仕事だ。
自分の為というより、レイカの為。
最低でも1日2回は海に潜り、毎度必ず食べられる魚を獲らなければならない。
その為にタクヤには絶好の漁場がある。
洞穴から森を抜け、海岸沿いをしばらく行くと大きな岩がゴロゴロと集まった場所がある。
砂浜を遮る岩の群れは本来の砂浜を完全な岩場に変化させている。
多数の岩の存在が近場での水深を稼ぐのに一役買っており、その水深1〜2メートル程の場所に、朝夕関係無く多数の魚が集結する。
その場所を発見してから漁の成功率は格段に上がっていた。
漁には高確率でレイカも一緒について来る。
例外があるとすれば、レイカの体調が優れない時のみ。
水に近い岩場は危険だからと言われていつもレイカがおとなしく待つ場所は砂に囲まれた小さな岩の上。
海に潜って銛で魚を突き刺すなんて行為は、一朝一夕で出来る事ではない。
タクヤにその経験が元々あったわけでも無い。
当初やっと泳げた程度のタクヤの長期間の努力と挑戦の賜物だ。
水中にも関わらず、この日も慣れた手捌きで大漁を収めたタクヤ。
この量だと昼の分も余裕であるだろう、夜にも廻せるかもしれない。
この通り、タクヤがいれば飢え死にする事はまず無い。
問題は栄養だったが・・・・・・
獲った魚は今食べる分だけをその場で火を熾して焼く。
残った魚は持ち帰り、湿度も温度も低い洞穴の奥で保存する。
保存に関して無知なタクヤは、腹を壊すことのない様に保存の期限はその日までと決めている。
朝食を済ませた2人は近くの森を散策し、稀に見つかる木の実を集める。
レイカに体力をつけてほしいと最近では海で一緒に泳ぐ他、時には木登りもする。
2人の毎日はいつもそんな風に過ぎていく。
今日も、何も変わらない平和な1日は終わっていく。
それがお互いの日常。
お互いの・・・・・・?
いや
これは私にとっての・・・・・・・
じゃあ
タクヤにとっては・・・・・・?
私の日常
それはもうここにあるんだよ?
今の生活に不満なんて何も無い
ある筈がない
もうこの場所に来る前の記憶が無いとか・・・・・・そんなことあんまり興味ない
自分が本当はどこに住んでいて・・・・・・どんな人間で・・・・・・どんな家族がいるのか・・・・・・どうしてこんな場所にいるのか・・・・・・タクヤが本当は誰なのか・・・・・・時々考えることあるよ
でもね、いくら考えたって何1つ思い出せないんだよ・・・・・・それなのに 「本当のこと」 にいつまでも執着してても何も変わらない、そんなこと時間の無駄だよ
何より
私はタクヤがずっと傍にいてくれること
それだけで充分なんだよ?
幸せなの
初めて会った時からずっと・・・・・・優しくしてくれてありがとう
1人のままだったら何もできなかったよ私
いつも何も役に立てなくてごめんなさい
少しづつ、何か手伝えるようになるから許してね
たとえ、このままずっと記憶が戻らなくてもいい
タクヤとここで一生暮らすことになってもいい
今が幸せだから・・・・・・
これが私の本心。
タクヤには決して言えない本当の気持ち。
決して言えない。
だって・・・・・・・
タクヤも同じように、そこまで想ってくれてるとはとても思えない。
最近タクヤはよく1人で海を見つめて何か考えてる。
自分の本当の生活に戻りたいのかもしれない。
失くした記憶を取り戻して、早く帰りたいのかもしれない。
それなのに。
言えるわけない。
優しいタクヤはいつも私の為に何でもしてくれる。
最初に出会った時、目を覚まして何も思い出せなくて、怖くて不安で泣いてしまった私に優しい言葉をかけてくれた。
それでも泣き止まない私に心強い言葉で励まし続けてくれた。
何も出来ない私に、今でもずっと私の分まで魚を獲って焼いて食べさせてくれる。
真夜中にトイレに行きたくなって突然起こしても、文句言いつつ絶対に外までついて来てくれる。
何をしてる時にも、私が調子に乗って言ってしまったわがままをちゃんと聞いてくれる。
私のせいでいつも疲れてるよね?
もうこんな生活疲れたよね?
私はね・・・・・・・
タクヤにどう思われていようと、ただ傍にいられればそれでいいの。
嫌われたくない、でも・・・・・
もし嫌われてても、迷惑がられても、それでもずっと一緒にいたい。
一緒にいられる幸せな時間。
それが私の日常になっちゃったから。
今もこうして隣にいてくれてるタクヤ。
もう寝ちゃったかな?
「起きてる・・・・・・?」
囁くように声をかけてみる。
今日は珍しく私に背を向けるタクヤ。
すぐ隣にいるけど、なんだかちょっぴり寂しいよ。
返事は無いけど、静かな寝息だけが聞こえてくる。
私が1人でいろいろ考えてる間にタクヤが先に寝ちゃったんだね。
こんなの珍しいよね、いつも私が先に寝ちゃうのに。
ゆっくり休んでねタクヤ。
私ももう寝ます。
おやすみなさい・・・・・・・・