63. 過去の一幕
浮気? って……浮気?
「公爵様で無くて、私がですか??」
思わず飛び出した本音を繕う事も出来ず、自分を指差して目を白黒させる。
その様を困った顔のままで頷いて、ヴィオリーシャは続けた。
「それをね……ジョレットは口留めしていたのだけれど……彼より身分の高い者が促したのでしょうね。戯言が噂となって広まってしまったのよ」
……つまりそれは宰相が、悪意を持ってマリュアンゼの根拠の無い悪評を広めたという事だろうか……よし、訴えて勝とう。
据わりそうになる眼差しを何とか和ませ、そうですかと一言口にする。
「宰相はアルダーノが罰したわ。王族の婚約者を故意に貶めようとしたのだもの。彼も浅はかね。あの人を思い通りに動かせていると勘違いしていたのだから……」
思わぬ話に今度は鉛を飲んだような心持ちになる。
……勘違いでなく、マリュアンゼはアルダーノに嫌われていると思っている。なのに、庇われたという事だろうか??
う、怖い……その代償に今度は何を突きつけられるのだろう。
「ああ、期待しちゃ駄目よ、彼は王族の名誉を守っただけ。むしろ今は王族となる貴方の資質を見極めんと、厳しい目を向けているところでしょうから」
ひっそりと震えていれば、ヴィオリーシャの続く言葉に寒気が背中を駆け上がる。
アルダーノに見張られるなんて……心臓を鷲掴みにされているようで生きた心地がしないじゃないか。要望を突きつけられるよりも、もっと悪い。
マリュアンゼが青ざめていると、ヴィオリーシャが再び言葉を紡ぐ。
「ねえ……あなた、幼い頃に頭を打ったんですって?」
「へ? ええ……そういえばそんな事がありましたね」
───と、言ってもマリュアンゼは覚えていない位の小さな頃の話だ。
子供の頃、乗っていた馬車で事故に遭ったと聞いている。
それは確かノウル国で、父がまだ軍部の現場に勤めていた時の事。
彼の国へ赴く外務官の護衛として、父が選ばれた。
ただ護衛とは言え軍人が付き添いでは雰囲気が悪い。と、妻子を伴い同行する運びとなったという。
大事を取り、跡取りの兄は留守番となり、
そんな中、父が仕事の間に、ご家族の方は是非観光を、と勧められた。誘いを断るのは角が立つ。けれど護衛の身内に護衛を付けるのは体裁が悪いから。と、そちらは断ったのだそうだ。
気丈な母は自分たちだけで行くと、父を説いてマリュアンゼと二人、観光に向かった。
その時だ。
なんでも平民の子供が馬車の前に飛び出して来たらしく、御者が馬の手綱を急いで引いた。その際、馬車の扉が開いてしまい、マリュアンゼは外に放り出され頭を打ったのだとか。
慌てて駆け寄った母が医師の元に急ぎ診せたけれど、傷も残らない程度の擦り傷で、後遺症も残らないだろうと太鼓判を押されてホッと胸を撫で下ろして……
ただ───
好みが変わった、と言われた。
小さいながらもツンと気取ったお嬢様気質な子供だったけれど、何故か事故後は兄について回り、男の子の遊びに興味を持つようになったのだとか。
運動など全く興味を持たない娘だったのに、急に走り回るようになり。まるでうちは息子しかいないように賑やかになってしまったのだ、と。
ぼやくように、安堵を噛み締めるように、何かの折に母に語って聞かせられた……昔話……
『その平民の子は大丈夫だったの?』
飛び出して来た子のその後が気になってマリュアンゼが問いかければ、母は苦笑しながら……確か……
『ちょっと! ヒロインのあたしが怪我でもしたらどうするのよ! ……って、怒りながら駆けて行ったから、多分大丈夫だと思いますよ』
だった。
───お姫様ごっこでもしていたのだろうか……?
平民が貴族を傷つけるのは重罪だ。
けれど、その時はマリュアンゼを医師に見せるのが最優先だったし、その場に他に頼れる者も無く。
母一人の采配では、走り去るその子を捕まえる余裕など無かったのだそうだ。
そんな事があったな、と思い返すマリュアンゼに、ヴィオリーシャが困ったように続ける。
「リランダ嬢があなたの人格がおかしいから偽者だとか、調べた方がいいとか、牢で大分暴れたらしくてね……そのせいでアッセム伯爵は珍しく大激怒されたの。元軍人という立場で、現在は城内でも信のある人物。いずれ王族の傅役をお任せしようという方でもあったから、珍しくアルダーノも動いたようよ」
な、成る程……
そんな噂が、もしかしたら商売人の母の元まで来たのだろうか。そして人格云々の件で母が過去の話を思い出し、つい口にしたのかもしれない。
とは言えそんな話で娘を偽者扱いされた父の怒りが収まる筈も無く……結果アルダーノを煩わせた、と。
若干とばっちりのような気もするが、そのせいで自分は改めてアルダーノに目をつけられたらしい。
とは言え、
「浮気なんて……出来る筈ありませんよ」
ぽろりと落ちるのは本心だ。
だってあんなに追いかけたくなる人、他に会えるとは思えない。
じんわりと熱を持つ頬が悔しくて唇を尖らせる。
(いっそ移り気な性格だったら、こんなに悩まないでいれたのに)
ひっそりと落ち込むマリュアンゼにヴィオリーシャは明るく声を掛けた。
「まあそうよね、その辺は心配していないわ。それにアルダーノの事なら大丈夫よ。あれで人をよく見る人だし、案外情け深いところもあるんだから」
───それは多分ヴィオリーシャ限定だと思う。
口には出来ないそれを飲み込み、胃のあたりで持て余していると、ふと異様な空気が場を占めたように感じ、身構える。
急いで視線をそちらに滑らせれば、そこに佇むのは淡い色彩で朧げに瞬くこの国の王。
「アルダーノ陛下」
固唾を飲んでその名を口にすれば、アルダーノは微笑みで応じた。筈なのに何故か背中が薄ら寒くなる。
対してヴィオリーシャはあら、と柔らか笑みを浮かべ自らの夫を迎えている。
「やあヴィオリーシャ、マリュアンゼ嬢。お邪魔するよ」
侍女と侍従が手早くアルダーノの席とお茶を用意していく中、マリュアンゼは臣下の礼を取った。
「一休みしているところ急に割り込んですまないね。今、大丈夫かい?」
ヴィオリーシャの頬に唇を落としながらアルダーノは優しく問いかける。
この一か月の間で大分慣れてきたものの、未だアルダーノが怖い。いや、国王なら畏怖されて当然かもしれないけれど……
今しがた聞いた話を思い浮かべれば、今まで以上に背中がむずむずと居た堪れなくなるのだ。ヴィオリーシャは良く平気なものだと感心する。結局、大物なのだろう……
───微笑みの王。
一見してそう見えてしまうところが余計に得体が知れず、マリュアンゼの警戒心を強めていく。
そんなマリュアンゼの強ばった表情に気付いたヴィオリーシャが辞去を命じてくれたが、アルダーノがそれを止めた。
「ヴィオリーシャ、今日はマリュアンゼ嬢に話があって来たんだ。少し時間を貰っても構わないかい?」
「ええ……勿論。私も同席しても良いかしら」
「構わないよ、私たちの未来の家族の話なのだから」
そう言ってアルダーノがマリュアンゼに据えた眼差しが、冷たく瞬いた。




