58. 兄弟② ※ ロアン視点
ロアンはふと息を吐いた。
父のようにはなるなと、言い含められていた兄は、真面目な男であったのに。
けれど、それゆえ彼は脆かったのかもしれない。
ロアンと兄は三十も歳が離れているから、物心ついた時はもう兄は大人で。歳が離れすぎて祖父のような父よりもずっと、父親のような頼もしさがあった。
けれどやはり、と言うべきか……兄の結婚は遅かった。
国内では父王の臣下たちがよく言い含めていたのだろう、気安く兄に近づく女性はいなかった。
兄もまた、女嫌いだったのだと思う。
ロアンが物心ついた頃でもまだ、彼は結婚どころか婚約者すらいなかったのだから。
けれどある時、国としてどうしても断りきれない縁談が他国から舞い込んだ。
ようやっと兄は結婚をし、その時初めて、ずっと遠ざけてきた女に触れて───それが多分、良くなかった。
元父の臣下たちがそれを以て引退した事も重なり、
(妃はやりやすかっただろうな……)
兄の周りに女はいなかった。
けれど近付く理由が公的なものなのだ。
夫婦として仲良くしようと言われれば、断る理由などなかったのだから。
第一妃に何と吹き込まれてきたかは、聞いていなくとも思い当たってしまう自分が嫌になる。
『私はあなたの味方ですわ、ロアン様』
ティリラがよく口にしていた、分かったような科白。
『あなたの辛さを癒やして差し上げたい』
一体何様なのかと思って不快を覚えたのは、恐らくティリラに兄の妻たちが重なって見えたから。
甘ったるい表情で誑し込み、隙を作って誘い込もうと、けれどその目の奥は爛々としている。
ロアンにはそう見えたというだけで、実際はどうだは分からないけれど───
ロアンは一人だったから。
ロアンの母は離宮に召し上げられたものの、直ぐに辞去した。
他の愛妾たちに追い出されたと言っても過言では無い。
父王に見染められ囲われた母の年齢は、王位を継いだ父と大して変わらなかった。
箱入りだった母には辛い環境だっただろう。年齢的にも、まだ幼さの残る彼女では、戦い抜く力など無かったのだ。
だからロアンは一人、残された。
背を向けられる事に慣れすぎて、近づいてくる者には警戒か威嚇しか出来なかった。そんな中で、
大丈夫大丈夫と声を掛けながら伸びてきたティリラのあの手は、自分を犬猫のように飼い慣らそうという卑しさしか感じられず……
自分の傍にいる女性と言えば、乳母のエンラや侍従の娘や弟妹たち。
兄と同じようにロアンの周りの女たちも皆、ロアンに色を見せないように教育されていた者ばかりだった。
婚約者のナタリエでさえ、そうだったのだ。
けれどそれが普通だと思ってもいた。
恋の一つでも……と、嘆くエンラには申し訳無かったが、ロアンは、ロアンこそが父や兄のようになる事が御免で、怖かったのだ。
(だから……)
背後でこちらを見守っているであろう気配に意識が取られる。
だからもし、自分が妻に望む事が許されるとしたら、その相手は庇護欲を唆るでも、心を癒してくれる人でもなく、共に立ち向かい、乗り越えようとする誰かがいいのだと───
そんな考えを振り払うべく首を横に振り、意識を目の前に向け直す。
今はそんな事を考えている時では無い。
同じく背後にある、強い意志で立つ隣国の王弟の気配が、何かを察したように揺らいだのが感じられて。
思わず漏れそうな苦笑を噛み殺し、ロアンは呆然と自分を振り仰ぐ兄王を、改めて見下ろした。
父は女に溺れ、兄は女の傀儡となった。
どうせ第二妃第三妃の選別も、行ったのは第一妃。
男児が産まれないが為に皇室から出た要望を逆手に、彼女は自分の有利に事を進めたのだろう。
子を成せない事を理由に、涙ながらに自ら側妃を選ぶ姿は、さぞ兄の同情を誘ったに違いない。
幼い頃から厳しく躾けられ、王たる器たれと、臣下たちから多くを求められてきた人───
そんな兄に彼女のその姿がどれ程切なく甘く響いたのかは、想像だに難く無い。寄り添う存在。そんな人の有り難みを、ロアンだって分からなくも無い。
ロアンは兄を憐れんだ。
何故なら結局、人は、身近に誰かがいても、いなくても、脆く堕ち易い。或いはそこにへたり込んでいたのは、自分だったのかもしれないのだから。
何かを辿るように視線を彷徨わせる国王を見据えた。
ふと兄弟の視線が絡む。
互いの眼差しの中で、嫌悪と、僅かに灯る兄弟の情。
けれどそれを遮るようにロアンはきつく目を閉じた。
過去はいらない。
「もう結構です、兄上。話し合うのは今までの事では無く、これからの事です」
ロアンは進むと決めたのだから───
イルム国の要人に危害を加え、内乱に巻き込み世界遺産を破壊した行為。
そしてそれを妃が軽んじていたという事実───妃教育を放棄する事を許し、甘やかしてきた王。
目の前に突きつけられた刃に退位と崩御のいずれかを迫られ、王は肩を落とし前者を選んだ。
何かを言いたそうにしては口籠る王を、ロアンは一瞥もくれずに無言を貫きやり過ごす。
「陛下! こんな茶番に付き合う必要はございませんわ!」
いつからいたのかは分からないが、妃の一人が声を張り上げた。三人の妃たちに、侍女も合わせて十人程の女性たちが、皆揃って不遜な態度でロアンを睨みつけている。
「あなた方は陛下の退位と共に離宮への幽閉が決まっている」
(とりあえずの処置として、な)
静かに告げれば第一妃は目を剥いて吠え出した。
「ふざけるな! お前如きが我らに何を命じられると思っている! 自惚れるのも大概にせよ!」
気の強い事で、彼女たちは誰一人ロアンに屈服する素振りも見せる様子は無い。
ロアンを侮っている。
少し押せば転げ落ち、あっさりと視界から消えた、ただの弱者。
だから逃げも隠れもしなかったのかもしれない。
この場に似つかわしく無い妃たちの煌びやかな衣装が、彼女たちの心情を物語っているように見える。
彼女たちにある、驕りと慢心が……
「悪いがこれ以上、話す事は何も無い」
連れて行けと暗に示唆するロアンに応じ、騎士たちが妃たちを引き摺っていく。その様を王は呆然と見送っていた。
彼女たちはまだ信じていない。
自分たちがこれから罪に問われ、裁かれる事を。
ロアンを嵌めた罪に始まり、違法薬物の所持使用。国宝の建築物の崩壊。殺人に手を染めなかったのは、それが他国でも「犯罪」だという認識があったからだろうか……
ならば不貞はどうなのだろう。
妃たちが国を牛耳る勢いで城を制覇していると、当然彼女たちの母国は知っていた。
国を乗っ取るなど、簡単なのだ。
血を混ぜてしまえばいい。
そしてそれを正当なものとして国に立たせてしまえば、後から全て奪うのは容易いだろう。
既に城を牛耳る者は皆、異物なのだから……
乱暴な考え方だが、先代の臣下たちには考えつかなかったようだ。まさかそんなやり方などありえない。国を制するなら戦だろう、と……そんな無骨な考えの者しかいなかった。
それもまた、父王が女に溺れたが故の人選だったのだろうけれど。
高い確率で兄の息子はこの国の王家の血を継いでいない。
この国では犯罪だが、妃たちの国にとっては「正当」な行為だったのかもしれない。
彼女たちもまた、母国の傀儡なのだから。
いずれにしてもその「何故か」は裁判で後に彼女たちが語るだろう。
ロアンは兄を見た。
王位を奪われ、縋ってきた妃たちは捕らわれ、やっと授かった息子は他の男の子───
けれど今の哀れなその様は……
「その今のあなたの姿が、この国の現状なのです、兄上」
その言葉に王ははっと身動ぎをした。
「彼らは全て奪われ打ちひしがれ、今城外でこの国の元凶が排除される事を望んでいます。願わくば……」
せめて最後は王として
静かに口にするロアンにノウル国王はがくりと頭を下げた。




