42. 懐刀
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
ロアンは突然泣き出したマリュアンゼに動揺を見せたものの、何とか部屋までエスコートし、急いでエンラにお茶の用意をさせた。
今エンラは部屋の端に控え、にこにこと二人の様子を見守っている。
「お、落ち着きました。もう大丈夫です」
そう言ってマリュアンゼはズビリと鼻を啜った。
「そ、そうか」
その言葉にロアンは救われたように力を抜く。
そんな初めて見るロアンの表情に、マリュアンゼはぱちくりと瞳を瞬かせた。
「な、何だ?」
マリュアンゼの視線に気付くと、再び嫌そうに顔を歪めるが……多分この人は優しいのだろう、と思う。
なのに……
「どうしてティリラ妃はロアン殿下を見限ったのでしょう」
残念なものが込み上げる。
ロアンがティリラと夫婦の絆を築いていてくれたら……なんて思うのだ。
(そしたら公爵様がつけ入る隙なんて無かったのに)
なんて勝手な事を考えてしまう。
何だか自分らしくない思考に苦いものが込み上げた。
(……こんな事考えたくなんてないのに……)
そんなマリュアンゼの心情は関係無く、ロアンはその言葉に心外とばかりに声を荒げた。
「はあっ? 急に何を言い出すんだ? しかも誰がどう見ても相手にしていないのは私の方だろう! 私が振られたみたいな物言いは聞き捨てならん!」
その言いようにマリュアンゼはやれやれと首を横に振る。
「振られた人は大抵そんな物言いをするものです」
根拠がないくせに諭すように告げれば、ロアンは思い切り顔を顰めた。
「適当に纏めるな!」
「相違無いと思います」
ぽんぽんと言い合うやりとりに、マリュアンゼの強張った心が少し和らぐ。ふにゃりと笑みを漏らせば、ロアンはほっと息を吐いた。けれどさも不思議そうに首を傾げる。
「何故そこで笑うんだ?」
本気で意味が分からないという風に笑うもので、これにもまた驚く。ノウル国に着いた時に次いで、これで二度目だ。
「あ! また笑いました?!」
「な、何だ急に? 笑っていない!」
「笑いましたよー。なんだあロアン殿下ちゃんと笑えるんですねえ。眉間に皺ばかり溜めてばかりいるものだから、表情筋が死んでいるのかと。……ていうか、無愛想のままだと老けて見えますよ?」
「おまっ、王族に向かって何て暴言をっ───ふっ」
そう言って背けた顔を腕で隠し、肩を振るわせていれば丸わかりなのだが。ロアンの様子がおかしくてマリュアンゼも一緒になって笑ってしまった。
◇
「フォリム殿下の様子がおかしかった?」
一息ついた後、先程のフォリムの様子をマリュアンゼはロアンに話した。
ロアンは何やら思案顔になって考えている。
「フォリム殿下が離宮に来た知らせは私にも届いた。てっきりお前を追って来たのだと思ったのだがな───」
言いかけるものの、マリュアンゼが顔を俯ける様子に言葉を区切り、コホリと咳払いをした。
「あの女は婚約者がいる相手でも擦り寄り気を引くのが得意だった。相手もいつの間にか虜となり、周りはそれを恋と呼んだ。が、私にはそれが異様な光景に見えた」
突然のロアンの告白にマリュアンゼは首を傾げる。
「私とティリラ妃の仲が良くない事は、もう察しているのだろう?」
マリュアンゼの様子にロアンは端的に告げた。
マリュアンゼも素直に頷く。
「三年前、私たちの婚姻は仕組まれたものだった。恐らくあの女一人で画策したものでは無いだろうが、あいつが放つ、妙な気配に充てられた者たちは当時多くいたからな。そいつらを巻き込み、計画は遂行してしまった」
身を固くし聞きいるマリュアンゼにロアンは続けた。
「だが私たちの婚姻後、取り巻きとあの女の接触を断てば、その効果は無くなった」
マリュアンゼは目を見開く。
接触を断ったところ、作用が無くなったという事か。
「薬……でしょうか?」
顎に人差し指を添え、エンラの淹れてくれた紅茶を見つめる。
或いは常習性のある薬を用いて、相手を虜にする? けれどもし薬が切れる様を健常者が見れば、異変を感じるのではなかろうか。中毒症状には治療が必要だと聞いた事もある。だから───
「……医師ですか」
呟くマリュアンゼにロアンは重々しく頷いた。
「あの頃の学医とカウンセラーの身柄を押さえた。学園生活は全寮制で、医師も決められた者しかなれない。しかも、あの時は王族である私が在学していたから、宮廷侍医と同等の地位を持つ者が必要だった。
───当時の学医は妃の国の出身の者だ。私に盛った薬もそいつが処方したのだろう」
「えっ」
口から飛び出た疑問を急いで噛み締める。
公では二人は恋愛結婚。
けれど、それはロアンの暴走による、ティリラの名誉毀損から来た婚姻───とされていた。
更にその真相は、ロアンの動きを制する為の、策略による婚姻だった、という事か。
何故ならロアンは第一位王位継承者。現王に万が一があった場合、その後継者の筆頭なのだ。
しかも学園卒業と共に、ロアンは成人年齢に達してしまう。
だから妃はそこで仕掛けた。自分が産んだ男児を王にするために。ロアンの王への道筋を断つ為に。
「何て執念深い」
ついそんな言葉が口から零れる。
「……それだけ王が妃たちに与えた既得権益が大きかったのだろう。味を占めた者たちはもっと欲しがり、見栄を張る者は、そこで自分の優位性を示す為だけに愚かな事を繰り返す」
国より自分たちを可愛がり甘やかした。
そして恐らく現王政は弁解の余地が無い程荒れている。だからロアンは立ち上がった。
静かな、けれど確かな苛立ちが垣間見える金の眼差しが、マリュアンゼを見据え───僅かに緩んだ。
「……信じるか?」
その言葉にマリュアンゼは目を見開いた。
きっとあの時、ロアンの言葉は、弁明は、全て握り潰されてきたのだろう。周到な彼らの包囲陣に、恐らく抵抗すら出来なかった。人間不信に……女性不信になっても仕方が無い位の虚無感に襲われたに違いない。
そんなものを振り払いたくて、マリュアンゼは力強く頷いき。
「勿論です! よく今まで耐えて下さいました!」
その物言いにロアンは苦笑する。
「まるで私の臣下のようだな」
「……今はそうでしょう? 今、私はあなたの懐刀ですよ!」
そう言って不敵に笑ってみせるマリュアンゼに、ロアンは少し面食らった顔をしてから、柔らかな笑みを返した。