2. 結婚いたしません
「本気で婚姻なさるおつもりですか?」
馬車に乗り込むマリュアンゼを見送った後、後ろから掛かる声に振り返る。この従者にしては珍しく戸惑った表情を一瞥し、フォリムはふと息を吐いた。吐き出した息が今までの時間を消すように感じる。
「……無理だろうな」
思い出されるのは兄────国王アルダーノ。
マリュアンゼとの婚約をフォリムが申し出た時、彼は特に何も言わずフォリムの好きにさせた。あの時はヴィオリーシャの意識を、いい加減王妃教育に向けさせたかったのだろうと思う。
現国王アルダーノは儚げな様相の美男子だ。
自分より三つ年上の二十五歳だが、華奢で気の弱そうな雰囲気のせいか、兄弟の印象は常に逆である。
けれど彼は、花のように綻ばせるその口で、平然と人を処分する。王族としての真意を履き違える事は無く、王となるべく教育されてきた者。そして自分は王の盾であり剣となれと育てられてきた臣下。
マリュアンゼを婚約者としてフォリムの横に一時でも並べたのは、アッセム伯爵家の家柄もあるのだろう。
アッセム伯爵は退役軍人だ。軍に所属する者は、秘匿意識が高く、王族に対する忠臣が多い。
あの兄が、王弟である自分の婚姻者相手に、利も何も持たない相手を許す筈が無いのだ。何処かで体よく追い払うつもりだと考える。
「適当に私に勝たせて、いずれマリュアンゼの望むように婚約破棄をすればいい」
「……はい」
当然のように口にすれば、シモンズは一拍置いてから返事を返す。
今だけの関係というのは今までだって持ってきた。いずれ不自由になるのだから、無理なく楽しいは必要だという理由で。けれど、
不思議な事に今回は、それがいつまでなのかが全く想像できずにいる。
それよりもマリュアンゼと約束した王立公園で過ごす日を夢想すれば眩しく、永遠に繰り返す事のように思えた。
◇
数日後、アッセム家へ夜会用のドレス一式が届いた。
横を見れば届いたドレスの見事さに母は咽び泣いている。……いずれ婚約破棄をするつもりだと言ったらどんな顔をするのだろう。
とは言え婚約者から初めて贈られてきたドレスに、マリュアンゼも自分の胸が高鳴るのを感じている。
ジェラシルと婚約していた時は、ドレスは母が選んでいたからだ。
『お義母さんが選んであげて下さい』
ジェラシルからはそんなメッセージと、金額の書かれた小切手が贈られて来ただけだった。母はジェラシルからの手紙を読んでは、『旦那様よりはましだわ!』と明るく振る舞っていた。
実際父のセンスは壊滅的だったそうで、贈られた夜会服を着るのは母にとって地獄だったらしい。
それでも婚約者には自分でドレスを贈りたかったのだ、と恥ずかしそうに口籠る父の隣には、文句を口にしながらも、嬉しそうに寄り添う母の姿があったのだろう。マリュアンゼはそれが普通だと思っていたのだけれど。
母はマリュアンゼとジェラシルの婚約に責任を感じていた。
だから婚約破棄された時、誰よりも怒り嘆いていたけれど一番悲しんでいたのもまた、母だった事も知っている。
そしてマリュアンゼがフォリムと婚約をした事に、とても喜んでいる事も。今はドレスを前にしてそのテンションは爆上がりしているようだ。
群青から白へのグラデーションが美しいドレス。
色は落ち着いているが、全体的に淡く黄色い光沢のあるレースが包み華やいで見える。袖口が躑躅の花のように広がり、中には蔓草の刺繍が覗き見える。派手過ぎず地味過ぎず、夜会慣れしていないマリュアンゼも、気遅れせずに袖を通したくなる作りで。思わずフォリムの顔が頭に浮かんだ。
(どんな依頼を出したんだろう……)
公爵家のデザイナーにドレスの注文をするフォリムが頭を過っては、たまたま店にあった一着がマリュアンゼの好みと一致したのかもしれないと、思わず頭を振る。
(ドレスの好みなんて聞かれていないし!)
「早速着てみせて頂戴な!」
急かす母に苦笑を返し、メイドに手伝って貰って袖を通す。いそいそと鏡を用意するメイドたちに手を引かれ覗いて見れば、見た事の無い令嬢がこちらを見つめ返しており、目を見開いた。
(後ろでせっせと髪を編み込んでいるとは思っていたけれど……)
鏡の中の自分が髪に手を触れている。マリュアンゼの癖の強い赤毛は、青のドレスには合わないかと思っていたけど、そうでも無い。鏡の前で恐縮していると、メイドがにこにこしながら丁寧に首飾りを付けてくれた。
「髪はアップにした方が、こちらが映えますわ」
鏡に映った大きな石の付いた首飾りにぎょっと目を見開いては、視線を胸元に落とす。
触れそうになっては躊躇われ、再び鏡と向かい合う。
それは見たことも無い大きさの、所謂ブリリアントカットをされた円形のエメラルドの首飾り。果たして予算はいくらだったのだろう。と、つい下世話な思考が頭を掠め、喉が鳴る。
しかもエメラルドの周りを小粒で多色な宝石が囲んでいるものだから、彩り鮮やかで煌めいていて……夜会で明かりを受ける度に、さぞ人の視線を集めるだろうな、と思う。
「何て素敵なのかしら……」
溜息を零す母の隣でメイドたちも嬉しそうに頷いている。
マリュアンゼは思わず胸元で両手を重ねた。
(本当に……)
これならフォリムの隣に立ってもおかしくないのではないかと思っては、頬を抑えて慌てて否定する。
(ち、違うわっ。公爵様が恥ずかしく無いようにって、それだけでっ)
着飾って夜会に行く事が楽しみでいる。
なんだか自分の心情とは違うところにいるようだ。
マリュアンゼは知らない人を観察するような心持ちで、自身を映した姿見をじっと見つめた。
(そう言えば私、公爵様のご趣味を知らないわ)
思い返せばフォリムが身につけているものの中にどんな拘りや好みがあるのか。マリュアンゼにはさっぱり分からない。
ただ何を着ても様になる、容姿に恵まれた人物だと思っていた。内心ちょびっとだけ、やさぐれでいたのは内緒だ。
器小さいな、自分……
(よし!)
マリュアンゼは拳を作り、目標を掲げると共に振り上げた。