1、あの夏へ
キィーーン
軽快な金属音が青く澄んだ空に響き渡った。
「おー、今のは良いバッティングだったぞ高山!」
俺はマウンドから声をかける。
「へへーんどんなもんだ!コーチなんてもう恐れるに足らないね」
バッターボックスには得意満面な小学生。
「そうか、じゃあ次は本気で投げて良いか?」
「そんなん打てるわけねーじゃん!」
「OKじゃあ次、田島!」
「と、その前に、なにやってんだ騒がしいぞー」
「よお」
にわかにざわつき始めた背後に声をかけると子供達よりも頭何個か高い人物が彼らを引き連れ、笑みを浮かべ手を挙げていた。
「…月島選手」
「練習中にすまんな。少し時間もらってもいいか?」
「練習中ですのでまた今度で」
「そういうなよ頼む」
手を上にし拝むポーズ。
本当にいつになってもこういう態度だから断れない。
「仕方ないですね。おいお前ら!紅白戦でもしておけ」
「やったー!」
嬉々として練習へ向かう子供達を横目に俺達は川辺に場所を移した。
「シーズン中なのにこんな所で油売ってて良いんですか?月島選手」
「今日移動日、これから福岡だよ。てか、その月島選手ってのいい加減やめてくれないか?前みたいに生意気に亮介って呼べよな」
「なおのことダメっすよ。それは何度も言ってますけど球界の宝にそういうわけにはいかないです」
月島亮介選手、俺の幼なじみで幼稚園から高校までの1学年上の先輩。高校卒業と共に鳴り物入りでプロ野球チーム『ゴールデンビーバーズ』に入団し1年目終盤には1軍定着を果たし2年目からは正捕手を務めている。今では近い将来のメジャーリーグ入りも噂されている名実共に日本球界の至宝だ。おまけに涼しい顔のイケメン。
「それで、話ってなんですか?あの事ならもう何度も断ってますよ」
「そうつれない事言うなよ。今うちのチーム。なかなかの順位だろ?」
「みたいですね」
「でもペナントを取るためには何かもうひとつ足りない。なんだと思う?」
実際、月島選手の所属しているチームは8月の時点で2位と奮闘しているものの首位とは6ゲーム離されている。
「さあ」
「冷たい反応だな。エースだよ、それも絶対的なエース」
「エースなら郷田投手がいるじゃないですか」
「確かに郷田さんは頑張ってる…郷田さんだけじゃない投手陣は良くやってる。もちろん打者も良くやってる。でもな……」
「でもなんですか?」
「現実問題としてチーム防御率が4割を越えてるんだよ…」
「あー」
思わず同情してしまう。
「ここまで言えばなにが言いたいか分かるよな」
「ん?」
「ん?じゃないんだよ」
「…あー判りましたよ。あれだ俺がここでガキ達を育てて月島選手の球団に送り込めばいいんですね」
「違う。第一それ何年後よ俺引退しちゃってるよ」
「月島選手なら大丈夫ですよ!」
「いや、その話はもういい…直人…お前、もうとっくの昔に投げられるんだろ」
そう言う月島選手の顔はさっきまでと違い真剣なもので両の眼は射ぬく様にこちらをじっと見つめていた。
「…投げられるからってなんですか?まともなピッチングなんて10年以上してないんですよ」
「そんなブランク天才夏木直人には関係ないだろ?」
「無茶いわないでくださいよ」
俺は自嘲的な笑みを浮かべた。
「とにかくだ!9月にゴールデンビーバーズの入団テストがある。それに来い。そしたら今年のドラフトにかかって来年の春には直人もあの大観衆の中で投げてるんだよ。そしてゴールデンビーバーズは優勝する」
月島選手の目はサンタを待つ少年の様にいずれ来る必然と期待でキラキラと澄んで輝いている。
「自分がなに言ってるか分かってます?」
「当然だ。それにここだけの話、俺は乃蒼の事も直人になら任せて良いと思ってる」
突然、名前が上がった人物に虚を突かれた。
「つ…月島は関係ないじゃないですか」
しどろもどろになりその言葉だけを絞り出した。
「俺にとってはこれも大事だよ」
その言葉に俺は何もかえせなくなる。
「おっと、もうこんな時間か」
腕時計を一瞥した月島選手が長くも短くも感じる沈黙に終止符を打った。
「そろそろ行く。また来るわ」
「もう来なくていいですよ」
俺の軽口を曖昧な笑みで受け流しヒラヒラと手を振り月島選手は去っていく。
「直人!!ほれ!」
やや傾き始めた日差しを背に受けた月島選手がこっちを振り向き何かを投げた。
「うわっ」
咄嗟にキャッチした手からじんわりと熱が広がり火を吹いた。
「いっってーー!!」
「さっすが!やるねー!」
「やるねーじゃねーよ亮輔!なんつーもん投げてんだよ軟式でもいてーよ!」
俺の右手にはいつの間に拾ったのか野球ボールが収まっていた。
「天才夏木直人!いつまで腐ってんだよ!ぐだぐだ言ってねーでこっちに戻って来い!!皆待ってるぞ!」
日に照らされた亮介は輝いていて眩しい。
「別に腐ってなんか…」
「あ?聴こえねーよ!とにかくだプロテスト、絶対こいよ!」
その言葉を最後に今度こそ亮介は去っていった。
俺はただその後ろ姿を見ていた。
「…好き勝手言うなよ」
ポツリと溢した言葉は宙をさ迷い消えた。
亮介が去った川辺には踏み出せない自分と冷ややかな白球だけが残された。
軟式球を左手に持ち替える。
「俺は…」
両腕を振りかぶる。
踏み慣れていた6足半の距離を踏み出す。
始動した下半身に連動した上半身が動く。
肩、肘と力が伝わり指先からボールが放たれる。
『忘れていた感覚』
「腐ってなんかねーー!!」
10年ぶりの利き腕での全力投球は空を切り水面に沈んでいった。
力任せに投げたからか、10年ぶりの投球のせいか。あの日から輝きを失った代わりに、何年かは痛みを感じる事も無かった左肩が微かに痛んだ気がした。
「もう遅いんだよ…」
「コーチ危ない!!!」
「は?」
ゴンッ
聞こえた声に振り返る間もなく頭に鈍痛が広がった。
体が動かない。思っているよりもずっとゆっくり倒れていく。
うるさいくらいの蝉の声だけが聞こえた。