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「それじゃあ貴方は合格よ。今日から貴方は私の子供」
話が終わった頃に、椛沢さんが襖から顔を出して、僕達に冷たいお茶を持ってきた。卓上にお茶を乗せるために伸ばした手はどこか震えている。椛沢さんは、小さくお辞儀をすると直ぐに部屋を出ていった。
「どうぞお飲みになって」
御堂美矢は手で促した。僕は軽く頭を下げて頂きますと言い、黄緑色に濁った小さな湖を、僕は口の中に流し込んだ。喉がひやりと冷たく潤う。
「これから、仕事の内容についてお話するわ。貴方には守ってもらわないといけない事が幾つかあるの」
僕はコップをテーブルに置くと、息を飲んで姿勢を正した。
「まずその1、貴方は私の赤ん坊として過ごすこと。勿論言葉を発してはいけないし、勝手にどこかへ出歩くのも駄目。その2、母からの愛情は喜んで受け入れること。その3、決して庭園にある小屋には近づかないこと」
「小屋には何が?」
僕がそう聞くと、御堂美矢の眉の間に皺が出来た。
「私の子供になるのなら気にする必要は無いでしょう」
「拘束期間はどの位なのでしょうか?」
「……一ヶ月よ」
一ヶ月。喋らず黙って寝ているだけというのは、とても長く感じるに違いない。ただし一ヶ月を過ぎれば、百万円という、今の僕にとっての大金が貰えるのだ。
「分かりました」
「支払いは現金を手渡しのみしか不可能なの。それでもいいかしら?」
別に困る事はなかったので、僕は頷いた。
「はい」
「それじゃあ、今から私の赤ん坊として貴方に名前を授けるわ。名前を授けた時点で、貴方は私の赤ん坊となるのよ」
彼女はアンティーク調の小さめの箪笥へ手を伸ばすと、引き出しから墨と書道紙、それから毛先の太い筆を取り出し、墨の湖へと溺れさせると、透けた空白の中へ滑らせていった。彼女の緩やかな動きが止まり、僕に完成された文字を見せると、笑った。
「貴方の名前は陽一よ」
彼女はそう言うと立ち上がり、部屋の脇へ向かうと、何かを移動させるような物音をさせた。やがて影の中から、大きな乳母車が顔を出した。
「貴方は歩く事は出来ない。だから、これに乗って私が移動させてあげる」
僕は喉の奥で声を押し殺した。彼女の顔は出会った頃と違い、すっかり晴れやかだった。