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彼女は黒い着物を着て、髪は上品に一つに纏めていた。僕はつい姿勢を正した。
「あの、初めまして。黒崎と申します」
「どうも初めまして。さあ、中に入って。外は暑かったでしょう?」
電話越しに聞いたような冷たい声で、彼女は言い、家の中へと僕を招き入れた。僕はお辞儀をしてから、総門の中に広がる庭園へと足を踏み入れた。傍のアカマツが敷石の上に陰絵を残している。緊張で喉が渇いて仕方が無かった。
「何故応募をしようと思ったの?」
と、背中の彼女は聞いてきた。僕は何て答えようか迷ったが、正直な理由を口にした。
「お金が欲しくて」
「そう。正直なのはいい事よ」
「あの、子供になるって言うのはどういう内容なのですか?」
すると、彼女は立ち止まって僕の方を振り返った。
「後で教えてあげるわ」
声色は低く、彼女の顔からは、感情が消えていた。僕はそれ以上、質問はしなかった。
豪邸の中に招き入れられると、女性の曲線のような大きな花瓶が出迎えた。埃一つないような木の床に足を踏み入れる。その時、腰の曲がった50歳くらいの女性がやって来て、僕の顔をじっと見詰めるなり、何かに怯えたように大きく目を見開いた。
「こちらは使用人の椛沢さん。椛沢さん、この方は黒崎さん」
椛沢と紹介された使用人は、直ぐに先程の表情から一転して、何の感情も見えない皮膚一枚の顔となり、丁寧にお辞儀をした。
「よろしくお願いします。使用人の椛沢でございます」
僕は少し遅れて、お辞儀を返した。
「私が案内するわ。椛沢さんはお茶のご用意を。さあ、こちらへどうぞ」
そう言って御堂美矢は、滑らかに床を踏んで先へ歩いた。広すぎる家の中は幾つもの部屋があり、ここに使用人と二人きりで住んでいるのは寂しいと思った。
御堂美矢は椿の描かれている襖の部屋の前で立ち止まった。
「ここで貴方の事を聞かせて貰うわ。さあどうぞ」
僕は椿の部屋へ入った。最初に目に入ったのは、庭園が見える丸窓と、壁に掲げてある屏風だった。御堂美矢は言った。
「この屏風をどうお思い?」
御堂美矢から投げかけられた質問に、僕は屏風の絵をじっくりと見詰めた。そこに描かれているのは、白い肌をしたふくよかな女性が、着物をはだけさせて赤ん坊に乳を与えている姿だった。
「はい。子供を愛する母親の姿が深く伝わってくる絵だなと思います」
月並みな表現だなと我ながら思った。
「そう。母親はいつも我が子を愛している。母と子の絆は例え離れようが、切っても切れない魂から繋がっている。子供が死んだら、母親は魂の片割れを無くしたように、生きる気力を失う」
御堂美矢は屏風の中の赤ん坊を指でなぞった。白く血の通っていないような手は悲しみに溢れている。
「こんな逸話を知っていらして?昔、人里離れた場所で一人孤独に、母親は幼い我が子を育てていた。子は夜毎泣き止まず、母親は心身共に疲れ果て、我が子に手をかけた」
彼女の声は力強く、心の奥底から話しているようだ。彼女の言葉にはまだ続きがあった。
「それから母親は子を追って自殺をした。手首を切ったの。しかし、母親の魂は永久に朽ちる事が無かった。何度死んでも、また来世に蘇る。これは呪いよ。我が子を殺した母の罪。母親は永遠の孤独と共に、生きていく。もう一度子を愛せない限り」
振り向いた彼女の目は、夜の海よりも暗く沈んでいた。そこに船を浮かべたら永久に戻ってこれないだろう。