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夏が終わりそうな頃、僕は御堂美矢の完全な赤ん坊と化していた。最早脳も萎縮し、逃げるという考えすら起きず、ただ一日を繰り返し過ごしていく。窓の外を眺める気も起きない。僕はただ人間を失い、生きている。

いつもの時間の感覚で、そろそろ御堂美矢がご飯を運んでくる時間だった。だが、廊下を歩く足音がいつもと違った。部屋の扉を開けて顔を覗かせたのは、使用人の椛沢さんだった。椛沢さんは、辺りを気にする様子で顔を左右に揺らすと、部屋の中へ入りゆっくり扉を閉めて、僕に近づいてきた。

憐れに思ったのだろう。涙ぐんで、僕を見下ろしている。僕は唇で、「たすけて」と形を作った。

「申し訳ございません」

そう言うと、椛沢さんは咳が切れたように泣き出した。

「私はもう耐えられません。こんなのは、間違っています」

椛沢さんの肩は震えている。

「今日は奥様は、長く留守の予定です。私は代わりにあなたの世話を頼まれました」

どうでもよかった。世話をする人間が変わったところで、自分はあの頃の自分に、戻れるわけではない。しかし椛沢さんは続けて言った。

「私があなたを逃がします」

その言葉を聞いて、僕は久しぶりに窓の外を眺めた。石の上に雲が淡い影を落としている。本来の色を失ったかのように。

僕は小さく頷いた。椛沢さんは、フェンスを開くと、老いていながらも働き者の両腕で、僕の体をしっかりと抱えながら乳母車へゆっくりと移動させた。

乳母車の中の薄暗い闇の中で、僕の頭の中には様々な情景が思い浮かんだ。それはどれも美しい記憶で、初恋の甘い記憶から、初めて聴いた音楽のこと。夢に向かって頑張って仕事をしていた時のこと。三年間付き合っていた恋人のこと。暖かい日差しの下、将来を語り合った。何もかもが上手くいくと信じていたあの頃を。

ふと、僕の目には涙が伝う。溢れんばかりの記憶の中に、僕はまだ僕らしく生きていた。思い出すほどに、日差しの感触が肌を刺す。土を蹴った、かおりが鼻につく。ああ、僕は生きている。


乳母車は、庭園へと向かった。池の中を泳ぐ鯉は美しかった。僕は乳母車のへりを叩いた。椛沢さんは、僕を覗き込んだ。瞳で訴えかけると、椛沢さんは何かを察したかのように目を見開いたが、直ぐに何度も頷いた。

そうして僕を池の傍まで連れていった。それから、乳母車を傾けて僕を池の中へと落とした。

水面が近くなり、水の板が僕の体を叩く。バシャバシャと勢いよく飛び跳ねる鯉と一緒に泳いだ。

ようやく雲の切れ間から光の粒が降り注ぐ。僕は、光を探ろうと必死に藻掻くが、手のひらは宙を掴んで暗い水の底へと堕ちていった。――きっとこれも夢に違いない。


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