Crônica #1: 「腰ほど重いものは無い。特に曇りの日は」
18時24分37秒。1LDKのアパートの静寂は、生理的欲求から来る異音によって切り裂かれる。同居人の居なければ物も余り多く無いその一室で、その音はやけに耳についた。
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詰まる所、腹の虫が鳴ったのだった。考えてみれば、今日は間食を一度も摂っていなかった気がする。作業に没頭すると空腹を忘れるというのはどうやら事実らしい。どうせ没頭するなら、大学の課題にではなく趣味に没頭したかったけれど、残念ながら「単位」というニンジンを目の前にぶら下げられた馬には「止まる」という選択肢は与えられていない。奇しくも自分は午年生まれである。
取り敢えずまず伸びをする。あ、やばい。つった。腕つった。いててててて。慌てて腕を下ろし、攣っていない方の腕でマッサージする。…よかった、良くなって来た。ただ、そっちが落ち着いたら今度は背中と首が痛くなってきた。また猫背のせいかなぁ。本当はヨガでも始めて姿勢を矯正したいくらいなんだけど、時間が取れなくて断念中。あと眼も疲れてるっぽい。こりゃ眼鏡を使い始めるのも時間の問題だな、俺としてはあんまり使いたくないけど。高いし、どうせ年取ったら使わなきゃいけなくなるだろうし。ただ、モニターと睨めっこする事に疲れた両目や、若人に似つかわしくない背中や首の痛みよりも、自己主張の激しい胃袋のほうが事は重大だった。「閑さや 壁にしみ入る 虫の声」…思わず一句出来てしまった。腹にいる蝉を大人しくさせた後に小林一茶に謝っておこう。
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さて、腹を満たすには当然夜食を作る必要がある。無論、夜食を作るにはその為の材料がいる。そして材料は冷蔵庫中に入っている。今日は無償にカレーが食べたい気分なので、せめてジャガイモと肉ぐらいはあってほしいところだ。情けない事に、俺は冷蔵庫の中身を一切記憶する事の出来ないタイプの人間だった。
唐突だが「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験がある。箱の中に入れられた猫はその箱が開けられるまでは「生きた状態」と「死んだ状態」が重ね合わせで存在していて、誰かが箱を開けてその猫を実際に観測した時に初めてどちらかの状態に固定されるというものだ。(かなり大雑把な説明だけれど所詮これはモノローグなので敢えてこのままにしておく。)なぜ藪から棒にこんな薀蓄を傾け始めたのかというと、「猫」を「材料」に変えれば今の状況に当てはめられるからだ。…頓珍漢な事を考え始めるのは空腹の所為だけだと思いたい。ともかく、果たして、冷蔵庫は「材料の在る」状態と「材料の無い」状態、どちらに固定されるのだろうか?明らかに大袈裟過ぎる考えを胸に、俺は扉を開けた―――
…現実は残酷だった。ギリシャ神話において、「パンドラの箱」にはあらゆる災厄が詰められていて尚、たった一つだけ希望が残っていたといわれている。災厄もジャガイモと肉すらも入っていなかったうちの冷蔵庫は話のタネにすらならなさそうだった。当然、材料が無ければ買いに行くしかない。幸いにも近くにスーパーが二件もある。だが物事がうまく行かない時にはとことんうまく行かないのが世の常で、今にも雨が降り出しそうなくらい空は重苦しい灰色で覆い尽くされていた。正確に言えば、灰色のヤバそうな雲に混じって、ドス黒い激ヤバな雲もちらほら見られた。そして、こちらの焦燥感を嘲笑うかのように、空を睨め付ければ睨め付けるほど、空模様は怪しくなっていった。
もはや意気消沈なんてものじゃないくらいにテンションは下がっていたけれど、買出しに行かないわけにはいかない。いや、本当に行かなきゃいけない?カレーは明日でもよくない?やっぱ今日は外出はやめておこう。ずぶ濡れになるリスクを考えると、別にカレーじゃなくてもいいし、何より面倒臭い。怠惰というのは中々厄介な物で、時には空腹すら凌駕してしまう。うん、明日行けばいいよ、明日行けば。取り敢えず今日食いつなげれば…よく考えてみたらカレーの代わりに何か作れたっけ?あれ?今ある食材で何が作れたっけ?…ああ、何だ、ご飯とふりかけがあるじゃないか。一汁一菜、致し方なし。今日はそれで我慢する…あっ、ふりかけ無いんだった。じゃあ白米とサラダでってそういえばレタスもトマトも無かったんだった。というか野菜が無かったんだった。凄いな、どうやってこの一週間生きてきたんだ、俺。それもこれも全部大学の課題が悪い。うん。絶対そうだ。決して冷蔵庫の中身を一度たりともチェックしていなかった俺が悪いんじゃないんだ。ていうか今そんなこと考えている暇無いし、何やってるんだ俺!
自問自答を繰り返している内にも腹の虫はどんどん俺を急き立てる。怠惰という一人で立ち向かうには余りにも強大すぎる敵と、孤軍奮闘していた。やがてブドウ糖不足が俺の考えを鈍らせていく。マズイ。このままでは無気力が体を支配してしまう。それは色々と危険だ。優柔不断を克服しろ!快刀乱麻を断つんだ!
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結局空腹感は面倒臭さを上回った。かれこれ5分以上、台所で呆けたまま立っていた。「この5分が以下に無駄だったか」ということについては今は気にしないことにしよう。よし、どうせ外に出なければいけないのだからカレー用の材料買って帰るぞ。今の苦労は、後のカレー。一労永逸、一労永逸…ひたすらそう自己暗示して、この風前の灯のような気力を保とう。
そうと決まればグズグズしている暇は無かった。まごついている内に雨に降られては一巻の終わりだ。そんな急いでいる時にすら、藁をもすがる思いで空を見上げるのは人間の性か、そんなことしても、我が物顔で鎮座する雨雲どもと睨めっこするだけなのに。それでも、事ここに至って、性懲りも無く、晴れ間を望んでしまう。
―――男なんだから諦めが肝心だろ?とっとと準備して行けよ!
俺が俺を急かす。何度か聞こえないふりをしたけど、ついには心の声に折れて準備に取り掛かる。ま、準備といっても財布とって靴を履くだけだけど。寝癖?…死にはしないだろ、ことは緊急性を要するし。服装?…さすがに昨日こぼしたケチャップのシミ付きTシャツ(※ちなみに白)着ていったらマズイか。服を着替えたら、ジャケットを羽織って鍵をポケットにねじ込む。このジャケットはよく水を弾くから多少なら雨を凌ぐのに使える。長い事使っていなかったから少々カビ臭いのは内緒だ。さて、後は玄関のドアを開けるだけ。さあ、いざ買出しの旅へ―――
行けなかった。考えてみたら、ドア開ける前に、ポケットに鍵捻じ込んでるじゃん。なんか自分の間抜けさに涙が出てきた。気を取り直して、扉を開錠する。今度こそ買出しにいくぞ。
やっぱり行けなかった―――なんてことは無く、無事アパートの一階に降りて、正門を開ける。普段から運動しない俺には三階にある自室から一階へ移動するだけでフルマラソンしたかと思う位疲れる。まあ、時間が相対的なら距離も多分相対的だし、もしかしたらほんの十数メートルの距離が俺には42,195kmに延びしていたのかもしれない。そんな下らない事を考えてるうちにある疑問が頭を過り、思わず口にしていた。
「あれ、窓、閉めたっけ?」
科学において、難題には必ずしも複雑怪奇な問題文が必要というわけじゃない。至って単純な疑問から、数世紀、世の頭脳達を悩ませる難題が生まれる事も珍しくない。科学ではないけれど、今の俺にとって先の疑問は、そういった類の物だった。タイムマシンを作るかこの疑問に正しく答えるか、どちらかを強制されたら、時間旅行機の作成を選択していたかもしれない。とにかく、ひたすら家を出る前の部屋の様子を必死に思い出してみる。が、出てきたのは実に曖昧模糊な景色だった。よりにもよって窓の部分がはっきり思い描けない。マズイ。窓際にはベッドやパソコンが置いてあって、少しでも風が吹けば雨で濡れてしまう。そしてこの空模様…
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結局、施錠したのかしていないのか思い出せなかったので、また「フルマラソン」を一往復分する羽目になった。そしてちゃんと窓はすべて閉まっていたというオチ。死にたい。
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こうしていたずらに時間を潰している間にも、空はどんどん暗くなってくる。それは雲だけでなく、時間帯の所為でもあった。考えてみれば今は18時50分くらい。スーパーは今まさに夜食代わりの弁当を買いに来ている客で溢れ帰ってる頃だ。歩きながら、レジでどれだけ時間を取られるのかシミュレートしてみる。計算が進むにつれて自然と足取りは重くなっていった。そして、止せばいいものを、帰りにどれほどの重さを抱えなければいけないのか、果てはどれほど高くつく買い物になるのだろうか、と余計な事まで考え始めてしまう。陰陰滅滅、ってこういう心情を表すんだろうか。もし俺のオーラが見えるのであれば、きっとそれは今日の雲のような色をしているに違いない。神社によったら何か憑いているんじゃないかと心配されるかも…いや、さすがにそれは無いか。
幸いにも人間とは器用な生き物で、うんうん唸って考え事をしてても、足さえ動けば目的地に辿り着いてしまうものだ。途中で2回ほどコケそうになったのは気にしないでおこう。スーパーは案の定いっぱいだった。だが、それでも、俺を萎えさせるほどではなかった。何せ、ここまで来れば、後は天気がこれ以上崩れる前に買い物を済ませて、急いで帰宅するだけ。買い物は少なくとも達成されるわけだ。例え帰りにずぶ濡れになろうとも、カレーは食べられる。それだけでも気持ちが幾分か軽くなった。
さあ、いよいよ後半戦だ―――
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雨音を聞きながら食べるカレーは、俺に「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という諺を思い出させた。
■「小説家になろう!」における処女作です。そもそも小説を執筆すること自体が初めてです。
今まで作文といえばせいぜい受験で書いた(書かされた)小論文ぐらいでしたが、小説としてのアイディア、つまり「物語」としてのアイディアだけは割りと常に沸いていました。ただ、大した文才も無いのに、拙い文章を不特定多数に見せ付けるなんて、流石に恥ずかしすぎると思い、今日の今日まで碌な小説を書かないで胸の内にしまっていました。時間がたってある程度自分も吹っ切れて、ようやく何でも良いから取り敢えず投稿してみようと思い立ちました。それで出来たのがこの小説です。
■そもそも「Crônica」って何ぞや?そう思っている人が殆どでしょう。日本どころか、世界でも知名度はすこぶる低いので当然といえば当然です。ただ、個人的にはこの形式は色々可能性を秘めていると思っています。具体的には、Crônicaの利点あるいは特色は、
1.軽く読める。内容が重い事が少ないので、箸休め感覚で読める。
2.早く読める。原則読みきりな上にページ数も少ないので、短時間で読破出来ます。
3.書き上げやすい。1と2の要素が合わさって、一話一話を仕上げる時間が少なくてすみます。(勿論、相対的に、ですが)
4.日常的なテーマを扱うので読書層が広い。勿論一部の形式はこれの限りではありませんが。
興味をもたれた方は、ぜひ自分でもCrônicaを一つ、お試しに執筆してみては?
■最後に、ここまで読んで下さりありがとうございました。ご意見・ご感想など、常に歓迎しております。