第一章 魂の奪い合い(3)
【三】
翌日。
飛鳥が目覚めて、なんとなくパンとコーヒーが欲しいなと思って瞬きすると、先程までなかったはずのそれらが、丸テーブルの上に現れていた。
気味の悪さを感じるが、魂だとか特殊能力だとか、殺し合いだとか言っているこの館においては、多少のことで驚くわけにはいかない。驚くことがあるとすれば、飛鳥が目覚めた時には、すでに昼前になっていたということくらいか。
「マーダータイム開始まであと三十分と少し……」
殺し合いが可能となるその時間は、毎日十二時から十八時。その時間が始まる前にロビーに行かなければ、ゲームには参加出来ないルールだ。
飛鳥は決して、積極的に殺し合いを行うつもりはない。ゲーム運営側という黒幕に等しい人間が紛れ込んでいるのか、注視するだけだ。
だから衣鈴と手を組んだのだ。結局、“霊媒師”能力で衣鈴の魂を見てはいないが、ここまで自分を慕ってくれる衣鈴に裏があるとは思えない。思いたくない。
黒幕探しのためには、初日からゲームに参加しないなど言語道断で、大事な情報を聞き逃さぬよう、足はすでにロビーに向かっていた。
「ん……」
大階段を降りた辺りで、衣鈴の後姿が目に入る。
だが飛鳥は声をかけられず、そこに衣鈴がいたことに気付かなかった人間を演じ、少し離れて横を通過していた。衣鈴が別の女と話していたからであり、飛鳥のコミュ障が炸裂したわけである。
衣鈴の隣にいたのは、昨日、妙に冷静な分析をし冷気を纏う眼光を振りまいていた女子高生だった。
衣鈴は昨日全員の所を回った後、『冷たい目の女の人がいたが良い人だった』と言っていた。それはその女子高生のことで、衣鈴と歳が近い同性ということもあり、意気投合したのかもしれない。
「飛鳥さん!」
「ん?」
気付けば衣鈴は、椅子に座った飛鳥を覗き込むように横に立っていた。どうやら横を通り過ぎた飛鳥に気付き、追ってロビーに入っていたようだ。
「さっきの女の人はいいのか?」
「はい、もうお話は終わりましたです。同じことを、飛鳥さんにも伝えようと思って来たです」
「同じ話?」
衣鈴はぐっと近付く。すでにロビーには、離れた所に別のプレイヤーもいるので、聞こえないようにするためだろう。
そうだと分かっていても、衣鈴の目に鼻に潤いのある唇が近付くだけで、飛鳥は目を逸らさないようにするのが精一杯だ。
「はい、参加プレイヤーの情報です」
昨夜は、黒幕について話をした段階で、時刻は一時を指そうとしていた。だから衣鈴が全員を回った際に得た情報は、今日伝えてもらうことになっている。もっと飛鳥が早く起きていたなら、先程衣鈴が話していた女子高生よりも先に聞いていたはずだ。
飛鳥の横に腰掛けた衣鈴は、セーラー服の胸ポケットから、四つ折にした紙を取り出すと、開いて飛鳥に向けた。
十名いる参加者の顔写真と名前が書かれたリストであり、飛鳥の部屋にもあったものだ。ターゲット指定のソフト同様の、五十音で並んでいる。
「まず、先程私が話していた女の人。彼女は御堂美里亜《みどう みりあ》さんで、高校三年生です。私の一つ先輩ですね」
衣鈴は、長い髪をハーフアップにした女をリスト上で指差した後、その指を階段の方にいる本人を差す。
飛鳥らの視線に気付いたのか、長髪を軽くかきあげて、壁にもたれて腕組みをする。その目はなぜか、飛鳥を睨んでいた。
「次に、今私達以外でロビーにいる二人のプレイヤーさん。一人は風祭界斗さんで、刑事。もう一人は、一言も話さないので名前以外の情報がないのですが、仙波戦士さんです」
衣鈴が右手で差したのが、何やら手帳を見ている、いかにもインテリでございという風貌の刑事、風祭界斗。一瞬こちらに流し目を見せたが、すぐにメガネをクイとあげて目線を戻す。雰囲気は一丁前だが、二十代中盤といったところか。
左手の先にいるのは、迷彩服を着込んだ仙波戦士。こちらを見ることもなければ、そもそも目線の先はどこにあるか分からない朴念仁だ。歳は三十を超えているように見え、この中で最も年上だと想像出来た。その服装と十人いるプレイヤーの中で最もガタイが良いことから、自衛隊か何かなのだろう。
「えっと、次は……」
この場にいるのは、飛鳥と衣鈴を含めて五名。
衣鈴と同じ女子高生の御堂美里亜、インテリ刑事の風祭界斗、無口な仙波戦士だ。残りの五名はまだロビーにおらず、衣鈴は次を誰にするかリストを指でなぞって考えている。
「おうおうおう、まだゲームも始まってないってんのに、女をはべらせて良いご身分だなー! なんか甘そうな名前だったようなー……」
二人してリストに注目していたいせいで、背後からの気配に気付かなかった。ビクリと肩が上がるのを抑えて、飛鳥は振り向く。
「天崎……天崎飛鳥ですが……」
「おお、甘崎か! やっぱり甘そうじゃねーか!」
「アマサキのアマは、天気の天です……」
「細けーこと気にすんな! なんつー俺は、見剣みちるってんだ! 見剣! なんてなんか厳つくて嫌だろ? んだから気軽にミッチーって呼んでくれや、だーっはっはっは!」
振り返ると、だぼったいジャージを着用し、綿のように軽いトークをする男がいる。先程の迷彩服の仙波程ではないが、なかなかガタイ良い。見剣は飛鳥の肩をバンバンと叩くと、自身の後頭部に手をあて館全体に響くような笑いを放った。飛鳥達を後ろから見て、プレイヤーリストを確認していると分かったので、わざわざ名乗ったのだろう。
「ちょっとー、あんたもウチっていう女を捕まえてるでしょー。あ……こんなナリで一応ハーフだけどー、心は百パーセント日本人ー。米良メアリーだよヨロシクー」
見剣の後ろでは、彼をチョップする派手な金髪の女もいた。
チューインガムを噛んでいるらしく口は常にもごもごとしており、語尾が伸びるせいで締まりがなかった。膨らませたガムをパンと割ると、見剣と共に席に着く。下半身は七部丈のデニムだが、上半身はビキニのようなものだけを着用しており、着席すれば衝撃で胸が揺れる揺れる。
二人とも、飛鳥より一回りは年上に見えた。
「あの二人……昨日話した限り、お知り合いには感じなかったです。もしかしたら、私達のように昨夜から組んだかもしれないですね」
「どちらかがどちらかの魂を持っているのだろうか?」
「分かりません。ただ、見剣さんの方は、私と同じく皆さんの部屋を回っていたようなので、魂と関係なく仲間になれる人を見付けた可能性もあります」
「なら、警戒しないといけないな。見剣は俺の所には来なかったが……」
見剣とメアリーを見送った衣鈴が小声で補足すると、同じく飛鳥も声をひそめて答えた。
「そうだ、組んでいるといえば。ルール説明の時にお気付きでしょうが、カップルがいて……」
ここで衣鈴は、思い出したようにリストを改めて見て、男女一名ずつを指差す。
「ねぇ鉄地さん……なんか今日、冷たくなぁいぃ……?」
「くっつくんじゃねぇこの寄生虫が!」
「待ってよぉ……私には鉄地さんしかいないのよぉ……?」
「そう思うなら大人しくしてやがれ!」
衣鈴の行動とほぼ同時に、当該人物達が現れた。
一人は、春野晴未という、男にすがりつき、振りほどかれた若い女。腰まで伸びた長く白い髪は少しウェーブがかっているが、天然のもののように見える。服装がパンツスーツなので、OLだろうか。身体のラインを抑えるような着こなしをするも、その胸の大きさは隠しきれていない。
春野を振り払ったのが、寺沢鉄地という男だ。淡い色の、スポーツ用のサングラス越しに見える目は切れ長で鋭く、見る者全てを見下している。髪は至極短く剃り込みが入り、何ザイルやら何代目やらでダンスしていても不思議ではない。
「あれ……おかしいです。昨日はべったりくっついたカップルでしたが、ケンカでもしたのですかね?」
「オイそこのガキ、何こっち見てやがんだぁ!?」
「ひっ!?」
衣鈴がまじまじと、その春野・寺沢カップルを見ていたからだろう。
胸倉を掴まんとする勢いで、寺沢が近寄ってきた。後ろではおろおろとする春野も見て取れるが、止める様子はない。その意志があっとしても止められないのだろう。
「ぐ……」
そして飛鳥も、仲間であるはずの衣鈴に対し、手を差し伸べられない。
頭では何度も、仕方ないと繰り返す。自分は引き籠りだったのだ。こんな恐怖の権化のように凄んでくる男に対し、いったい何が出来るのか。いや、引き籠りだから、なんて関係ない。強面の寺沢を前に、いったいどれだけの人間が堂々と立ち向かえるのだろう。
情けないことは百も承知だが、飛鳥に出来ることは、せいぜいそこから逃げ出さないことだけだった。
「ちょっとちょっとそこのイカついお兄さん!」
と。
「少年少女に絡むなんて、大人のすることじゃないぞ!」
ごく少数派であるはずの、立ち向かう側に票をいれた人間一人現れた。ロビーに最も遅く来た、久龍空奈だ。
人差し指をズイっと寺沢に向けて下がらせると、ニシシと笑って胸を張る。そこに女性としての胸の存在は薄いが、人としての存在感は圧倒的だ。
そうして、サイドテールで巻いた髪を遠心力で開かせながら飛鳥達の方を振り返ると、ニカッと輝く笑顔を見せ付ける。
「大丈夫か少年少女! 恐いお兄さんはこのクゥお姉さんが追っ払いました!」
クゥというのは、久龍自身を指す一人称らしい。衣鈴がこそりと伝えてくれたことだが、二十歳という年齢に対して妙に子供っぽかった。見た目も行動も、かっこ良いお姉さん、という印象なのに。
「人助けの見返りは、今回は笑顔プリーズ! これからも困ったことがあったらクゥに言いな? 次から見返りは、たんまり貰うけどねっ」
久龍は言い終えるが早いか、トンと軽く跳躍してテーブルの上に片手をついて側転したかと思えば、飛鳥らとはテーブル挟んで反対側の席に座っていた。
ショートパンツから覗く脚があまりに眩しいが、彼女はヒールを履いているにも関わらずそんな行動を見せるので、飛鳥に限らず全員が目を見張ったことだろう。
特に男性諸君は、席について頬杖をついた、鼻歌まじりの彼女に対して目線を外せまい。そんなシーンを写真に収めれば写真集を発売出来るような、モデルのような、いやモデル以上の魅力を溢れさせているからだ。
「い、衣鈴。すまん、何も出来なくて……」
「いえ、仕方ないですよ……」
嵐が去り、再びぼそぼそと会話する飛鳥と衣鈴。
お互い鼓動が早く大きくなりすぎて、互いの音が聞こえているのではと思える程だ。飛鳥は情けなさばかり募り、謝罪の言葉以外は浮かばなかった。
「すごいですね、久龍さん。私もああなれるでしょうか……」
「……」
なれると断言してやりたかったが、飛鳥だって尊敬してしまった久龍との比較を、おいそれと口に出来なかった。
二人は久龍を見る。ここが殺し合いの館ではなく洒落たカフェのテラスのように振舞う、ある意味大物な彼女に、これ以上の言葉はいらなかった。
「これで紹介は終わりましたが、いかがです? 詳しい話は、必要に応じての方が良いですよね。でも飛鳥さんは頭が良いですし、一気に言っても……」
「いや……どうも人の顔と名前を覚えるのは苦手らしい。まずはそこからだ」
人付き合いを希薄にしていたツケだった。
「追々覚えればいいですよ」
飛鳥の魂を見た衣鈴も、それに気付いたのだろう。少し申し訳なさそうに、笑みを浮かべた。
当初ロビーにいなかった残りの五名も揃った。
だっはっはと笑う軽い男の見剣みちる、気だるくガムを噛むハーフの米良メアリー、男に依存する春野晴未、剃り込み入り強面の寺沢鉄地、掴みどころがないお姉さん久龍空奈。
これで合計、十名。衣鈴による彼らの説明が終わると、いよいよあと一分程で、マーダータイム開始の時刻となっていた。
「おー、注目ー。そろそろマーダータイム開始の時間だよー」
すると、ガム風船をパチンと潰したメアリーが、相変わらずクチャクチャやりながらそんな宣言をした。軽く上げた手が差すのは、ディスプレイに表示される時刻だ。
「ウチさー、コンパニオンだからちょっと仕切ってみようかなー。代わりの立候補も歓迎するよ。なんて言ってる間に十二時ー、マーダータイムスタートー」
そして誰に言われるでもなく、開始宣言をしたのである。
場は一挙に、締まった空気となった。いつ誰が、殺しのための行動を取ってもおかしくない時間帯になったのだから。
だが飛鳥は、「ふぅ」と溜息を吐き、深刻そうな顔や緊張感溢れる表情など出していない。なぜなら、この殺し合いゲームのルール上、今すぐ殺しなど起こらないと分かっているからだ。
まだ誰が誰の魂を持っているか分からないし、そもそも殺しに使うことが許された武器である拳銃とナイフは、全員部屋に置いている。マーダータイム以外は個室に置いておかねばならないと、ルールに定まっているのだ。
だがマーダータイムに参加するには一旦ロビーに集合せねばならない。よって、マーダータイム参加が認められるためにロビーに集合した後に一度個室に戻らねば殺しは行えない、となるのだ。
「ん?」
と。
どこかから、独り言のような呟きが聞こえたような気がした。それが何と言ったのかは分からないし、誰のものか、ということすら分からない。
が。
「な!?」
次の瞬間、一人のプレイヤーが椅子を後方に蹴り飛ばすように立ち上がり、テーブルを跳び箱のように片手だけついて飛び越え、飛鳥の真横に降り立った。
彼女が起こした一連の流れは、飛鳥の目でも耳でも確かに捉えていた。捉えていたが、どれも残像と残響だけのように、全て彼女の行動に一歩遅れて感じていた。
「え」
気付いた時、飛鳥の目が追った先にあったのは、赤く染まった光景だった。
この館は、多くの場所に赤いカーペットが敷き詰められている。だから赤色は、どこを見ても存在していた。明るすぎる赤に、目がチカチカとしたものだった。
しかし、今見ている赤という色は、どこか黒ずんだように見える。眩しすぎるカーペットを、暗い赤で埋め尽くすようだった。同時に、鉄を含んだ臭いも、飛鳥に届いていた。
それは、血に塗れた光景だった。
久龍空奈が、井口衣鈴の心臓をナイフで突き刺した場面である。
飛鳥には、連続撮影された写真のように、パラパラと断続的に見えた。
衣鈴が驚いたような表情で己が胸を見た姿。久龍が離れると、ゆっくりと床に伏していく姿。裂けた心臓が、体内に血液を循環させる役割を放棄し、体外へ放出させるための器官に過ぎなくなっていた姿。彼女の驚きを残して開いたままの目には、もう何も映っていないだろう。
誰がどう見ても、井口衣鈴は事切れたように見える。
しかしここは、魂がゲームを左右する、殺し合いゲームの館だ。
井口衣鈴の死は、彼女の死ではない。このゲームでは、肉体を殺したところで本人は死なず、あくまで内にある魂が消えるのみ。
昨夜衣鈴は言っていた。衣鈴の内にあるのは、飛鳥の魂だと。
衣鈴は、まだ飛鳥が語っていないことも知っていた。それは衣鈴の言う通り、飛鳥の魂を持っていないと出来ないことだ。
つまり。
今起こったのは、衣鈴が死傷したことで飛鳥の魂が消えたという事象。間もなく衣鈴が受けた傷が、飛鳥に移るのだろう。死ぬのは消えた魂たる、天崎飛鳥だ。
「ぐ……!」
飛鳥は、どこから出したか分からない呻き声を上げる。心臓がいつもの何倍も早く鼓動をしている感覚がして、胸を握り締めるように押さえて、膝から崩れていく。
痛み苦しみよりも先にやってきたのは、ああ、なんと無様なんだろう、というやりきれない思いだった。
大学入試には失敗して引き籠れば、母に売られた。衣鈴の容姿や直向さに惹かれて目指す場所を共有したのに、寺沢にはビビるだけで、さらに久龍に抵抗などする余地もなく殺されてしまう。
結局自分の力など、こんなものなのだ。生きる価値なんてない。生きようだなんて、少しでも考えたことが間違いなのだ。なぜ生きようとしているのか、そんな疑問を抱えた段階で、さっさと自ら死ぬべきだったのだ。
「……少年?」
ああ本当に、なんと無様なんだろう。
久龍が寺沢に立ち向かう姿に少しでも尊敬の目を向けたことを、今更ながら後悔する。せめて久龍に対し、一矢報いることくらいしたかった。
「おーい少年。飛鳥少年!」
幸い、まだ飛鳥の意識は残っているらしい。自分の肩が揺さぶられる感触もあれば、それをしているらしい久龍の声と、ヒールのコツリという音もはっきりと認識出来る。
そしてそれが意味するのは、久龍空奈が真後ろにいるということだ。
「久龍ううぅーー!」
決死の思いで身体を起こし、久龍に掴みかかろうとした。
「お、なんだ元気じゃん。良き良き~」
が、久龍は何事もなかったかのようにするりと立ち上がる。サイドテールを人差し指でクルクルと弄び、勢い余った飛鳥がまた床に倒れたことも見ていないようだ。
飛鳥は倒れた拍子にぶつけた肘をさする。
「あれ」
それで、気付いた。
「死んでいない?」
痛みがあるが、肘だけで、胸はなんら痛みはない。声もはっきり出た。周りにザワめきだって、うるさいくらいに耳が捉えている。死に向かいつつある自分が、痛みとかうるささだとかを感じる隙間などないはずなのに。
ゲームのルール上、死ぬのは飛鳥でないとおかしい。
衣鈴の内にある魂は飛鳥で、刺されたことでその魂は消えたはずだからだ。
だが、飛鳥が感じた苦しみは、単なる勘違いだったらしい。死ぬのは自分だという思い込みが、そうさせてしまったのである。
恥ずかしいような、気持ち悪いような、安堵したような。出来ることは周りを見て反応を伺うくらいだ。目が合ったのは、久龍だった。
「ゴメンね少年。どうもそっちの少女と仲良さげだったのにさー。けれどこれも人助けなのだよ!」
「……少女?」
起き上がった飛鳥に、久龍はぺろっと舌を出した後、床に目線を送る。
久龍は、なぜか他人を呼ぶ時に少年とか少女とかと言うせいで、彼女の口から出た“少女”というのが、誰を差すのか分からなかった。
だがその答えは、まさに目線の先に。
「衣鈴……? 衣鈴!?」
井口衣鈴が、先程久龍に刺されたままの位置から血を流し、そこに倒れているではないか。ナイフをすでに引き抜かれているため、血を止める栓はない。
そんな光景を、確かに見た。衣鈴の名を呼んでも反応がないことは確認した。身体を揺り動かしても見た。だがどうしても、理解出来ない。勉学に埋もれ、理詰めで生きていた飛鳥にとって、疑問を解消せねば頭にスッと入ってこない。
久龍空奈は、なぜナイフを持っているのだろうか? マーダータイムが始まる前から持ち出すのは違反行為であり、罰則を受けるはずだ。その罰則は、当日及び翌日の能力使用停止と殺しの禁止。
だが久龍は殺しを行ってしまっている。もし罰則で殺し禁止の状態なら、久龍も死ぬはずだ。それがこの館における法律だ。
そして何より、このゲームは殺された本人ではなく、その内にある魂が消滅するもの。刺された衣鈴自身が死ぬはずはない。ルール説明の時、実際に目にしたのだから間違いない。
しかし。
久龍空奈は、罰則を受けずに井口衣鈴を刺し、そして刺された衣鈴本人が死んでしまったのである。
「……」
一人、頭を振った。何度も振った。だが、変わらない。
理詰めで考えなければ受け入れられないと言い訳をしてみたが、目の前に広がる光景は消えない。どれだけそれを認めまいとあがいても、やはりダメだった。
衣鈴が、死んだ。自分を認めてくれた唯一の人間たる、井口衣鈴が目の前で死んでしまったのだ。
「んー、ターゲット指定は一日一人しか出来ないよね。クゥがやれること、今日はもうないかー。なら、サラバ!」
飛鳥は、そう言って個室に向かい走り去る久龍を、ただ見るだけ。いや、瞬きほどの早さで姿を消したようにも感じられた彼女の、とうに小さくなった背中を見ることがせいぜいだった。
混乱は、飛鳥だけのものではないようだ。他プレイヤー達も同様に、久龍が去った方向を見ているのだった。