十二弦の奏者
一回目はタイミングが悪かった。
二回目は耳に入り、三回目からはゆっくり歩くようになった。
そして、それが習慣になった頃。最後に弾かれた十二番目の糸と共に、僕は足を止めた。
知っているヒトは知っているし、知らないヒトは知らない。そんなのあたり前のことで、僕は音楽をやっていることもあって、多少の知識は持っていた。本当に多少程度だけど。それでも知っていた。だからそれがよく分からないでいた。
地下鉄の連絡通路。毎日の朝と夕方、不味い飯を水で流し込む作業のような気怠い通学の時間。色白で、肩に掛かるほど長く、まっすぐ地面に垂れる金髪をもった男は、気付けばそこで演奏を始めていた。ヒトが多そうな時間を狙って演奏しているだけなのかもしれないが、僕の通学のタイミングと彼の演奏時間が合っているらしく、週に一度は必ず姿を見る。足を止めて見るのは、なんだか気恥ずかしくて、ゆっくりと歩きながら鑑賞するくらいだったが、そのうちにいろいろな違和感に対する興味が抑えられなくなっていた。
なんで。
なんで!
なんでなんだよ!
だが今日はタイミングよく、目の前で演奏が終わったので、つい足を止めてしまった。本当に「しまった」と思った。
どうするんだよ、とりあえず拍手でもしようか。ついでに気になっていたことも訊いてやろうか。
拍手。拍手。拍手。拍手。拍手。
「ありがとう。今日は止まってくれたんだね。最後まで聴いてくかい」
今日は? もしかして気付かれていたのだろうか。恥ずかしいな。
まあ。日本語が話せるのか訊こうと思っていたのだが、なかなか流暢に使いこなすらしい。
「どのくらい弾くんですか」
「今日はあと二曲の予定だから、15分もかからないかな」
「じゃあ。せっかくだから」
彼は微笑むと、次の曲を弾き始めた。
耳馴染みのある、日本のポップソングだ。
「ねえ、おじさん……」
「おいおい、おじさんはやめてくれよ。僕はまだ三十前だよ」
「ああ、すみません。じゃあ……」
「コチョウ、と呼んでくれ。そういう名前で活動しているんだ」
確かに、楽器の前には、厚紙で作ったプレートに『胡蝶』と書いてある。ミーハーな日本大好き外国人?
「コチョウさん。箏って、糸の数、十三本ですよね。でもこの爭、やっぱり近くで見ても十二本しかない。なんで一本糸を張ってないんですか」
一般的に琴と呼ばれるこの『箏の琴』は普通十三弦だ。一本減らすことに意味があるのだろうか。
「ああ、これね。日本に来る前から弾いていたんだけどさ、『サーティーンは不吉だ』って嫌がられてね。アハハハハ」
そんな理由かよ。ありそうと言えばありそうだけど。
「それじゃあ、大した意味はないんですね……」
「そうだね」
僕の長い間訊きたかったことの半分が、こんな理由だったとは……まったく。高かった壁は、越えてみたらただの段差だったって感じだよ。
「じゃ。最後ね」
コチョウは、今日の最後を奏で始めた。
こんな200bpm越える早い曲、この楽器で演奏できたのか……僕は音楽を知らなかった……。
「どうだった」
うっすらとこめかみに汗を溜めながら、演奏し始める時と変わらない……むしろもっと楽しそうな顔で尋ねた。
「――いや。なんというか、箏ってこんな格好良かったんですね」
「だろう」
より一層うれしそうだ。わからなくもない。でもわからないでもいい。
わからない奴にも伝わらなかった奴にも無理矢理わかってほしい訳じゃない。押しつけることには、きっと意味がない。たくさん仲間を集めたり、同調できる仲間を集めたい訳でもない。
でもやっぱり。なかなか理解されなくても、自分のかっこいいと思うものを認めてくれる奴が現れたら、それは嬉しい。
「でも、日本でもマイナーなこの楽器をよく日本に来てまで弾こうと思いましたよね」
片付けをしながら返事をする。
「それは偶然なんだ。仕事でコッチに来ることになってね。でも、この伝統は絶やしたくないと思ったんだよ」
「それでこういう活動を」
「古い伝統って、変わり続ける時代の中で残し続けるのはすごく難しいと思うんだ」
「そうですね。変わる時代に対して、変わらないのが伝統ですからね」
街頭を流れる音楽は、和太鼓や三味線、尺八ではなく、ドラムにギター、グランドピアノ。逆転は考えづらい。
「でも初めてこの箏の音を聴いたときに、震えたんだよ。肌がビリビリと。これはすごい楽器だ。もっとすごいことができる楽器だってね」
コチョウが糸を指で弾く。さっきの演奏を聴いた僕には、その一音だけで、魅力を感じることができた。
「生物は環境が変われば順応する。けど楽器は、環境が変わろうと、時代が変わろうとそのままなんだ。だったらやっぱり変わらなきゃいけないのは奏者なんだよ」
「それがさっきの、ものすごく早い曲、ですか」
「それだけじゃあないけれどね」
彼の片付けが終わった。
今日はそろそろお別れだ。
「伝統を絶やさないためには、伝統が時代に順応していくべきだと思うんだよね。こうして現代の音楽を奏でる箏から興味を持って、本来の箏の演奏に魅せられるヒトだっているはずなんだから」
きっと、糸の本数を減らしたままなのも、順応するという事の一部なんだろうな。
機会があれば、またゆっくり聴いていってね。と、彼は背を向けて歩き出した。
そういえば。もうすぐ学祭の時期だ。
僕のバンドも出演することになっているのだが。
歩き去る背中を見つめる。
彼もよく、こんな風に僕を見ていたのだろうか。
今日、二つの質問をするのに、今まで何回ここを通り過ぎただろう。もうそんなこと覚えていない。だって、越えればそれは、ただの段差だったんだから。
もうハードルでも何でもない。
もう一度金髪の奏者に問いかける。
離れた背中に。
「コチョウさん!」
雑踏の中、優雅に振り返る。立つとかなりの長身だ。まだ若いし、顔もいい。そして何より、彼の音楽は格好いい。
「コチョウさん。僕達と一緒に演奏してくれませんか?」
僕が今したい、ただの質問。
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意味が伝わらなければ、僕がそれだけのものしか書けなかったということ。っていうお話。