第12章 12話目
彼女が手にした本は三百ページほどの表紙が赤地の文庫本だった。表紙には制服姿のヒロインらしき女の子が大輪の笑顔でエロ本を差し出しているイラスト。
「ご予約の商品はこちらになります。『秘密の本は、私のお店で買いなさい!』第一巻、税込みで六百四十八円になります」
そう言うと彼女は丁寧に透明のブックカバーを掛け始める。
「あ、そこまでしてくれなくても……」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
彼女の本の記念すべき最初の販売、きっと思い入れもあるだろう。彼女の作業を見ながら僕はこの本を大切に読まなきゃと思う。
ブックカバーを綺麗に装着した彼女は、続いてその本にリボンを掛け始める。
「あ、僕が読むだけだから、包装とかしなくてもいいよ」
今度は思わず声が漏れてしまう。
「いいえ先輩。ご迷惑かも知れませんがラッピングさせてください。これは初めて売れたわたしの本なんです。私の初めてなんです。それを先輩に捧げられるなんて、涙が出るほど光栄なんです!」
少し微妙な言い回しで彼女が答える。僕は彼女の作業を見守った。本を真っ赤なリボンで丁寧に十文字掛けにすると、用意していたらしい巻き薔薇を取り付けた。真っ赤な薔薇で飾られたその本はとても可愛らしかった。
やがて彼女は小さな箱を取り出した。それは彼女の本にぴったり合うように厚紙と包装紙を貼り合わせ作った箱だった。
「すごく手間が掛かってるね。その箱、手作りだよね」
「はい、ご明察です。でも安心してください、材料費は安いんですよ。ただ作るのに三時間も掛かってしまいましたけど」
「六百円ちょっとの本一冊売るのにも、そんな手間を掛けてくれるんだ」
「はい、採算度外視です。でもこの事も内緒ですよ。他のお客さんにもこんなことしたら、本屋が大赤字になってしまいます」
リボンを巻いた本を、その可愛らしい箱に入れてふたをする彼女の頬は少し赤く染まっている。朝焼けが差し込むには、もう遅すぎる時間なのに。
本を箱に入れた彼女はその箱を包装紙の上に置いた。
「ちょっと待って。それ以上の包装はしなくていいよ」
「えっ……」
少し驚いたように顔を上げる彼女に僕は努めて笑顔で語りかける。
「これ以上包装して貰ったら、勿体なくって開けられなくなっちゃうよ。立花さんの本が読めなくなっちゃうよ」
「そう、ですか……」
彼女は僕の言葉に小さく肯くと、本が入った小さな箱を紙袋に入れた。そして僕に柔らかな笑顔を見せる。
「読んで戴かないと意味がありませんからね。はい、大変お待たせしました『秘密の本は、私のお店で買いなさい!』第一巻、六百四十八円になります。七百円お預かりします」
僕が置いた硬貨をレジに仕舞うと釣り銭を用意する彼女。
「あのう先輩、ひとつだけお願いがあるんです」
「えっ、何? 僕に出来ることなら何だってするよ」
「はい、あのう……」
珍しく言い淀んでいた彼女だが、やがて意を決したように言葉を紡いだ。
「本をお読みになったら感想を、一言でもいいので先輩の感想を聞かせて欲しいんです」
「な~んだ、そんなことか。分かったよ、だって立花さんの記念すべきデビュー作だからね」
「ありがとうございますっ」
およそ本屋さんの商品受け渡しとは思えないほど恭しく丁重に、頭を深々と下げながら両手で商品を手渡す彼女は、同じ丁寧さで五十二円の釣り銭を僕の掌に手渡してくれる。柔らかい彼女の白い手に触れられて僕の胸が一気に高鳴る。
「本、楽しませて貰うね。立花さんの作品だからすっごく楽しみだよ」
「はい、お買い上げ誠にありがとうございますっ」
* * *
本屋さんを後にした僕は、次の行き先を思案した。
時計の針はまだ八時半にもなっていない。
「そうだ!」
独りごち、少し急ぎ足で歩き始める。今は少しでも早く手に持った本を読みたい。まだ人の姿もまばらな日の出商店街を進んでいく。そしてとある雑居ビルの二階を見上げる。
『喫茶・シュレディンガーの猫』
店の窓から優しい光が漏れていた。よかった、開いている。
この辺で僕が知っている喫茶店はここだけだ。ここならゆっくり本が読めるだろう。
からんからん
扉を開けて店内を見回す。お店は結構空いていた。
「こちらの席で宜しいでしょうか?」
馴染みの店員さんが四人掛けの広いテーブルに案内してくれる。
「いえ、今日は僕ひとりですから、こっちでいいです」
普段この喫茶店に来るのは名崎新聞の宮脇さんとの打ち合わせの時だ。いつも机の上に原稿を広げてあれやこれやと話をしていた。だから店員さんは僕を広い席に案内したのだろう。でも今日は違う。待ち合わせなんかしていない。僕ひとりだ。
「失礼しました……」
「注文はいつものやつで」
「はい、かしこまりました」
常連の店で「いつもの」だけでオーダーが通るって、かっこいいよね。映画とかドラマみたいで。椅子に座りながらそんなことを考える。
でも、それで出てくるのはプリンアラモードだ。
「やっぱ、絵にならないかな」
独り呟きながらさっき買った本をテーブルに載せる。
紙袋を丁寧に開けると中から出てくる可愛い小箱。
箱のふたを開けると赤いリボンで十文字掛けに飾られた文庫本が姿を現す。
その本を取り出すと、箱の下に四つ折りの紙が一枚。
「はて、なんだろう」
その紙を取り出し広げてみる。
■取扱説明書
この度は数ある本の中から拙著をお買い上げ戴きありがとうございます。
本著は作者が一字一句を入念に吟味し調合した「生もの」です。
開封後はなるべく早く読み終えて戴くようお願いします。
禁止事項
一、本書の角で人を叩かないでください。痛いです。
一、本書を人に投げつけないでください。痛いです。
一、本書を丸めて人を突かないでください。痛いです。
注意事項
一、本著は山羊さんの手の届かないところに保管してください。
一、本著に汚れが付いても中性洗剤で洗ったりしないでください。
お願い
本書は大変デリケートな商品ですので優しくお取り扱いください。
週に数回、よしよしと表紙を撫でて戴くと美しさがより長持ちします。
いつまでも貴方さまにご愛読戴けるよう万全の努力をして参ります。
是非とも末永くご寵愛お願いします。
青いインクで手書きされた綺麗な文字の列。
うん、わかったよ。
要はこの本は大事に扱えって事だね。
僕は説明書を折り畳んで箱に戻すと、本に掛かったリボンを丁寧に外していく。
「お待たせしました、プリンアラモードです」
店員さんの笑顔と共にテーブルに並ぶプリンアラモードと銀色の食器。僕はそれらを眺めながら本の表紙を開いた。心臓が高鳴る。気分が高揚する。本を読むのにこんな気持ちは初めてだ。僕は本のカバーに書かれた紹介文には敢えて目を通さず、本文を読み進めていくことにした。
さあ、いよいよだ。彼女の本を読もう。