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LUX VAITALITY 第一章  作者: 猫ノ目 ユエ
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泉の持ち主


 静かな夜だった。

 藍色の宇宙には雲ひとつ無い。浮かぶ月と星が下界を優しく照らしていた。

 降り注ぐ明かりに、照葉樹の広い葉が黄緑色に透き通り、湿った地面を埋め尽くすコケと草木を翡翠のように輝かせていた。

 その森には不思議な泉があった。

 そこには池には月と、星と、夜空と、木々の色は・映・っ・て・い・な・い。

 不思議なことに、それぞれの色だけが剥がれ落ちて水面の上をゆったりと流れ、ほかの色と混ざり合ってオーロラのように幻想的な淡い桃色に輝いていた。

 泉の所々にはこぶしほどの大きさの結晶が浅い水面から突き出ていて、『サファイアの王』と歌われるパパラチアサファイアのような桃色と橙色に発光していた。

 しかし一箇所だけ、きちんと周りを移している水面があった。

 そこにはメタルの建物が邪魔くさく映っていた。

まるで泉が意思を持っているかのように、「お前の色は好かん」とでも言っているように、その建物とその周りだけはちゃんと景色が映っているのだった。

 人を寄せ付けない深い森の奥にあるにしては、いささか気味が悪いほどに文明的で清潔だった。四角い長方形の建物はツタやコケのいっさいを寄せ付けずに、まるで機能掃除されたばかりのようにまったく薄汚れてもいなかった。

 メタルの壁は無感情で、鏡のように周りの景色をきちんと映していた。

 しかし、この不思議な水面と並べられると大変に無粋に感じた。


 そんな清潔な建物には一箇所だけ巨大な亀裂が入っていて、それは大の大人が3人は肩を並べて入れるほど大きく、暗い個室につながっていた。

 中央の壊れた機械椅子以外には何も無い部屋で、入り口から椅子の周辺には新鮮な血の道がべっとりと残っている。椅子のそばには大小の骨が転がっていた。

食べかすだろうか。

骨も血の痕も、不思議と腐っていない様子だった。

 血の道は部屋を汚した犯人の足跡もしっかりと残していた。

 足跡の間隔から二足歩行のようだが人のものではない。

 足幅は28センチほどで指の先は一本一本がとがっている。

 その足の持ち主は今も椅子で眠っていた。

 椅子には動物の毛皮が何枚もかぶせられていて、座ると少し見上げるようにもたれることができる。死臭をがまんすればなかなかの座り心地だろう。

 椅子に座り穏やかな寝息を立てている彼はやはり人ではなかったがシルエットだけで言えば人間にとてもよく似ていた。

 一糸まとわぬ肉体は滑らかな流線型の筋肉が健康的についている。乳房はなく、性器のあるべき部分には男性の特徴も女性の特徴も見えない。皮膚は無く、うっすらと光沢を持ったカーマインの骨と滑らかなボルドーの筋肉が露出している。

 肩やヒザや指先といった、攻撃に使う箇所と、頭や胸部や脊椎といった、守らなければならない箇所を分厚く盛り上がった骨と筋肉が補強していて、頭にはあごの先から頭のてっぺんまで、頑丈そうな頭蓋骨が露出していた。


 ピタリと彼の呼吸が止まる。

 カッと見開いたアーモンド形の目は獲物を狙う猛禽類を思わせた。

彼は2、3度瞬きをしながら亀裂の方を見るとすべるように椅子から降りて、しゃがみながらそっと穴に近づいていく。

血の海をわずかな音も立てずに歩きぬけるその姿は重力が感じ取ないほどにしなやかで、亀裂に近づくと差し込んでくる月明かりの影からジッと左り前の空を見つめた。

 しばらくするとその方角からバサリ、バサリと大きな羽ばたきが聞こえてきた。

近づいてくる黒い影はゆっくりと肥大化し、その正体を現した。

それは巨大なカブトムシだった。

 大きな大きな三本角とダークグリーンのヨロイ。クジラほどの大きさでゆっくりと池のそばに滑空している。

 真ん中の角の下側は刃のように鋭く、刀のようになっていた。

 巨大な6枚の羽を大きく羽ばたかせながら、池のほうへと滑空している。

 動けば誰でものどが渇く。

 水を飲まなければ干からびてしまう。

 長く飛び続けたおかげでこのカブトムシの喉はカラカラだった。

この巨体で、なれない飛行を長時間続けることはここ20年ほど無かったので、目の前にある樹液のような水溜りにカブトムシは黒真珠のような眼をきらめかせていた。


 だが持ち主は「干からびて死ね」というだろう。


 ゆっくりと、風を撒き散らしながら泉のほうへ滑空していく。

 突然の突風で周囲の木々は悲鳴を上げて葉をまきちらし、小動物たちが逃げ惑う。有象無象の悲鳴と足音で夜の静寂がすっかりと失せてしまった。

 その様子を、彼はじっと見つめていた。

大切な居場所がよそ者になぶられている。脳みその使い方も知らない害虫ごときのために。

 その瞳は列火のように燃え上がっていた。

 彼は稲妻のように外へと駆け出した。

 木々の間をすり抜け、足元で逃げ惑う小動物を踏み潰しながら駆け抜ける。

 カブトムシの少し手前で、必死に風に耐えていた木の枝を踏み台にしてへし折り空中に飛び跳ねた。

両手両足を広げてカブトムシの下っ腹に取り付くと、彼はヨロイの隙間に指を突っ込んで力任せに引き剥がした。

 突然の激痛にカブトムシが体制を崩してゆれる。

 かまわず、彼は斜めに剥がれた隙間にもぐりこみ、そのまま中身を引きずり出しながら内側にもぐっていった。

 生命力のあふれる真っ赤な血があたり一面の景色にまき散っていく。

『ギイイイイィイギギイィイイイイ、ギギギギギギィイイイイ!』

 さびた機械のような声を上げながらカブトムシの体がこわばり、羽ばたくのをやめた。

 重力にひかれて落下したのは泉から1キロほど離れた場所で、あと5回も羽ばたけたどり着けたであろう、水は残った木々にさえぎられてもう見ることは出来なかった。

 わき腹から『激痛の原因』が飛び出す頃には、カブトの体内はサナギのように液状になってしまっていた。

 真っ赤に濡れた彼はゆらゆらと、手に持った腹の中身の匂いをかぐと忌々しげに地面に叩きつけた。そしてカブトムシのつぶらな瞳へと向かっていった。

 だが、このカブトムシは悪魔であり、王の名を飾る立派な悪魔の一角でもあった。

 虫けらにも意地の一つもあるのだ。

 額から伸びた刀のように鋭い一本角を勢いつけて振り下ろした。

 が、刃が振り切る前に、刃の届かない安全な場所。つまりカブトムシのつぶらな瞳の側へと一瞬で駆け寄ると、彼は自分を見つめる目障りな球体を殴りつぶした。

『ギュギイッギイギギギギィィィィィ・・・・・・』

 もはや戦意のひとかけらも無い。

 カブトは少しでも相手の怒りに触れないように、静かに呼吸をするだけになった。

 そんな彼の口元には美しい金色のブラシがあった。

 近づいて匂いをかいで見ると、芳醇な甘酸っぱい樹液の香りがした。

 うっとりと体をひねりながら彼は優しくそれをつかむと一息に引き抜こうとした。だがしっかりと筋肉でつながったカブトムシの口は簡単にとることは出来なかった。

 なので根元を爪で削り、引きちぎった。

 カブトは小さく呻き声を上げたが、決して悲鳴を上げようとはしなかった。

 散らばった中身。薄赤く染め上がった森。かすれた命にすがる害虫。手に持った美しいブラシ。もう十分だろう。


 こいつはもう助からない。


 目的を果たした彼は自分の縄張りへと帰っていった。自分の居場所を守り、ストレスも発散できて、すばらしい芳香剤も手に入れた。きっと良い気分で眠りにつけるだろう。

 死を目の前にしたカブトムシは最後の力を振り絞って、本能の示す方向へとはいずっていった。

 彼の側で死にたくは無いのだろう。


   (ω` )


 巨大な森の一角に小さな集落があった。

 周辺を照葉樹林に囲まれた村には丸太を精密に組み上げて作ったロッジがたくさん建っていて、村のあちこちには遠くの山から引いてきた川が掘り広げられている。川のそばには大小の岩石を積み上げて作った防波堤と花壇がある。

 地面はきれいに整えられ、集落の外側では野菜やフルーツが栽培されていて、家畜小屋には豚や牛が何十頭も飼育されていた。

 とても文明的で、自然との調和を感じる。


『ここは良いところであっただろう』

 ゴロゴロと雷のように低い声が暗がりから聞こえてくる。

 とても女性的で艶やかな発音で、心臓の裏側をなぜられているような錯覚を受ける。

「うん。疲れたときには、きっと故郷よりも先に思い浮かぶ場所だ」

『フフフッ、そうかそうか。そなたが言うのならきっとそうなのだろう』

 愁いを帯びた声が答えた声を惜しむようにつぶやく。

『残念だ。私ではそなたの子は生めなんだ。しかし、楽しいひと時であったぞ。女の喜びなぞ、落ちぶれたときから一度として思い出すことすらなかったのだからな』

「そんなにうまくなかったでしょうに」

『上手い下手ではないのだ、所詮な。私の心はとても満足したのだ。浅ましいつながりではない。二つの命が交わり、溶け合う瞬間を、私に思い起こさせてくれたお主にな……』

 外から差し込む朝日で白く照らされた部屋には、巨大な真っ白な羽の塊があった。

 乳白色の羽からのぞく黄色いクチバシはまるで鶏のようで、研いだ包丁のように鋭かった。そのクチバシの奥から、濡れた女の声が漏れる。

『だが、同時にとても寂しい思いを残していくのだ。こういった喜びはな』

「そんなこといわれても、僕は行きますよ」

『フフフッ。だろうな。おぬしはそういう男じゃ』

 彼女は寝そべっていた巨大な別途の上で寝返りを打つと仰向けになった。

 とても豊満な胸と、むっちりとしたグラマラスなボディが白い羽に覆われながらもはっきりと主張してくる。

―― 私を抱きたくなったろう? ――

 彼は、彼女の額のトサカに自分の額を当てた。

「行ってきます、クーリ。さようなら」

『………。そうじゃな、さようならじゃ。のう、もう一度、名を呼んでおくれ』

「クーリ」

『もっとじゃ、もっと、愛しむように、よんでおくれ』

「クーリ、クーリ、……ねぇ、クーリ、僕は行くよ」

『……………。あぁ、さよならじゃ』



 集落の一角にハーレムができていた。

「タロン様! きっと、きっと再びお会いできると信じています!」

「もう戻ってこられないなんて! そんなことを言わないでください!」

「でていくんなら死んでやるからぁ! 死んでやるんだからああぁぁ!」

「みんなやめな! もともとそう決まってたじゃないか。これ以上タロンに迷惑かけんじゃないよ。・・・・・・グスン」

「せめてひと時だけでも情けをいただけま――」

『私が先よ!』

 出発の早朝。

 半年以上も滞在した集落とのお別れだった。

 親しくなれば別れを惜しみたくもなるだろう。しかし目の前に集まった女性たちは、30人は軽く超えているだろう。押し合いへし合い、最後のアピールをしていた。

 ほかの住人たちは遠くから哀れむように『愛しの君』を眺めていた。

「みなさん、この半年の間、本当にお世話になりました。また必ず会いに来ます。行きたい場所がまだまだたくさんあるので、いつ来れるかは解りませんが必ず会いに来ます」

『約束ですよ!?』

「はい」 (死ななかったらだけどね)

 これほどの女性をたぶらかし、もとい、愛された彼はタロン・マッカートンという。

 背丈は170cmほどで、知性と優しさを感じる目をしていた。なかなか色気のある筋肉をしている。顔は部分的に体毛で覆われて頭からは大きな耳が生えている。

その顔は猫に酷似していた。

 いわゆる獣人。彼は猫と人間の特徴を持った生き物だった。

 目の前にいる女性たちも、背中や腕や頭には鳥の羽毛が生えていた。


 獣人は【混合主】とも呼ばれている。

最高の知性を得た人間と種族交配(セックス)することによって、肉体の特徴を取り込み、独自の進化をした種族のことを総称する言葉で、彼らはその一種だった。

 タロンから離れたところでは、ほかの村人たちに謝辞をのべている二人のお連れがいたが、彼らにも猫の特徴がっきりと現れている。

 今は村人たちとあきれたように笑いながら哀れな女たらしを眺めていた。

「やれやれ、すごいもんですなぁ。私たちもあやかりたいものです」

「いやいや、まったくおっしゃるとおりです。タロンさんはそうは思っていないようですが」

「ここじゃぁ外に出ない限りは、ああはなれないからなぁ、俺もそろそろかなぁ」

「お前じゃ野垂れ死にがオチだって!」

 鳥の特徴を持った男たちと談笑する彼は180ほどの背丈で、体毛の色は茶色。大きなバックパックを背負っていた。彼は村の男性の愚痴を一身に受けながらも、タロンの姿を誇らしく思い、また同情しいた。

 その後ろではもう一人のお供で彼の妹である茶トラの獣人が、愛のベテラン『主婦』たちから最後の教鞭をもらっていた。

 ありがた迷惑な話だ。

だが悪意のない信頼の表れでもあった。

 三人の旅人が村人から愛されているという証明なのだ。

「あんたも大変だねぇ。獣人とはいえ、あれならほかの国でも似たようなもんだろう?」

「ここほどではないですが、まぁ、そうなんですよねぇ」

「そうなんですよねじゃないよ? ああいうタイプはそりゃ堅実さね。でもコレといった女性が現れたらコロっといっちまうものよ」

「いまのうちに惚れさせておかないと、あとで後悔するわ!」

「そういうものですかねぇ、やっぱり」

『そういうものよ!』

「あはは、努力します」

 160ほどの背丈。彼女は苦笑ぎみにうなずいた。

 うなじをぼりぼりとかきながら実に頼りない雰囲気をかもし出していた。

 まるで尋問のようだったが主婦たちは満面の笑みを浮かべていた。

「既・成・事・実。一つや二つ作っといたら? あんた、ただでさえ子供っぽいんだから実力を見せ付けないとどうしようもないでしょうに」

「そうよね! 子供さえいたら、ああいうタイプは絶対に裏切らないから」

「えー、でも嫌々はちょっと」

『なら惚れさせなさいな』

「ウッ。はい、がんばりまぅ」

 彼女は実に頼りない女性だった。

 だがとても美しい目をしていた。

 華奢ながら胸と無駄がないスリムなボディ。

 厚手の服ではあるが、ピンクや紫を主体とした色使いで女性らしさを忘れてはいない。腰から伸びる尻尾は足元でイライラとゆれている。

 その瞳はオパールのようにブルーの瞳を中心に七色の輝きを持っていた。


 20ほどの村に囲まれた『コカトリア』と呼ばれる集落に半年以上滞在し、その生態系を調査していたタロンたちは、この集落独自の常識に翻弄されていた。


『優れた遺伝子を生むことが女としての最高の喜びである』


 逆に言えば売れ残る男の数が半端ではないのだ。

 タロンの名誉のために言うならば、彼は仕事のために多くの女性と会話をしなければならなかったのである。

 断じて色目は使ってはいないし、一人を除いて肉体関係も持っていない。

 しかし、知的で肉付きの良いオスを『優れた遺伝子』と感じることは別におかしなことではないと思う。外界の猫獣人というところもブランド製を上げているのだろう。

 妥協するようにお供に手を出す者もいたが、皮肉なことに片手で数えられる程度しかいなかった。

 弱肉強食。弱きものは絶え、強きものが栄える。

 この集落の男はとても不遇だ。

 モテれば別だが。


 タロンは律儀な男で、お世話になった人たちに3日かけて挨拶して回り、その度に数名の女性が泣きついてきた。最後の日には男女含めれば100人以上の人だかりになっていたのは彼の人格と気遣いのなせる技なのだろう。

 出発するころには予定時刻を3時間近くも経過していた。



 空の曇が、覆い隠した太陽の光で白く発光していた。

 三人は森の外へと続く一本道を歩いていた。道の両端には一定の間隔で小さな石の祠が設置されていて、中には乳白色の羽根が収められている。

 この祠はコカトリアの結界で『敵の逃走本能を刺激する』という特性があった。

 逆に敵意がなければ怪獣でも通ることが出来る。

 つまり、この道を通っている最中にケンカでもしようものなら自発的に森に『自殺』しにいくことになるだろう。そういった場合は仲間で協力して落ち着くまで縛り上げておくのが良い。

実際にタロンのお供は何度か縛り上げられている。

 灰色の照葉樹林を歩きながら、タロンは集落の人たちと森を探索した日々のことを思い出して物悲しさを覚えていた。思い出の空は快晴で、太陽の明かりであたり一面がエメラルドに輝いていたが、残念なことに、旅立ちの景色はさびしい灰色に染まっていた。

(まぁ、雨が降らないだけましだと思わなきゃな)

 村を出発してからすでに1時間ほどが経過しようとしていた。

 踏み慣らされた道を歩いていると、茶トラの彼女が話しかけてきた。 

「マスター、ほんとに何もしなかったんですかぁ?」

「だ~か~ら~! 悪かったって何度も誤ったろう! いい加減しつこいぞ」

 出発してから10分ほど、二人にしつこく文句を言われていたので、タロンは実にいやいやでこたえた。

「いえいえ、違いますよ。ちょっとした興味といいますか。あれだけ美人に言い寄られて、眠るたびに夜這いかけられて、挙句の果ては村総出の告白タイムですから。マスターの好みのタイプが一人や二人いてもおかしくないかな~、なんて」

 口調こそ丁寧だったが、会話の端々にストレスがはっきりと感じられた。

 振り返って見ると、妹は兄の方を横目で睨みつけていた。タロンの視線に気づいて、とても愛らしい笑顔を作ってみせた。

 まだ森に前進しないところを見るとそこまで怒ってはいない様子だった。

「もちろん、マスターがそんな方でないことは一ファンとして信頼しています」

 兄は実に申し訳なさそうに妹とタロンを見比べている。

(あぁ、そういえばノンナは隠し事が出来なかったな)

 彼女の兄ノンナ、は大きな体を申し訳なさそうに縮こめている。

「あ~、うん。彼らには彼らの暮らしがある、僕はそれを調査するのが職業で、旅先で立ち止まることは絶対に無いだろう。だから特定の女性を旅先でつくろうとはこれっぽっちも思わないよ。わずかな間とはいえ、そこに深くかかわるのは正直、いろいろ思いもするが、相手への礼儀のためなら僕としてはつまらない偽善は張らないように勤めている」

「……? もう少し分かりやすく出来ませんか」

 つぶらなまなざしに頭をかきながら、タロンは続けた。

「要するに、無責任な親にはなりたくないのさ。子孫は自分で育てたいからね」

「なるほど、やっぱりマスターは良識ですね!」

 妹はうれしそうに目を輝かせた。が、タロンは続けて言った。

「といっても、これは僕個人の考えだから、村の女性には申し訳ないことをしてしまった。彼女たちからしてみれば、技術を提供するよりも僕の遺伝子を提供したほうが喜んだだろうし、生まれた子供も母親も、村の流儀や最後の歓迎会を思えば幸せにはなれたのかもしれない」

「えっ! だっ、だめですよそんなの、絶対にしちゃだめなんですからね!」

「そういうニーナはどう思っているんだい? 結構もててたじゃないか」

 ノンナの妹、ニーナは申し訳なさそうにしっぽを揺らした。

主婦の前ではたじたじだったが、彼女は彼女でタロンの手伝いをしっかりとこなしていたので、その献身とも取れる働きぶりは村の人たち、特に男性からの評判はとても良かったのだ。

しかし彼女は男性からのアプローチに答えたことは一度も無かった。

「わ、私はマスターのお供です。それが今は幸せなんです。だから今のところ旅に支障をきたすような結婚は考えていないんです」

 しっぽを揺らしながら悩ましげに彼女はじっとタロンを見詰めた。

 だがタロンは気づかないフリをして続けた。

「それで、学者としての考えはどうなのかな」

 彼女は肩を落とすと、しっぽをいらいらと振った。

「……私は、文化が違うとか、生態系が違うとかで納得したくないだけなんです。父親がどんな人かって大人になれば関係ないですし、あの村にはそんな悩みを持った子供はいませんでした。けど、見えないからって何も思ってないとは、私には思えないんです」

「そうか、なら僕の心がけは間違いじゃなかったね」

「はい! 私はそんなマスターだからお供しようと思ったんですから。ファンをガッカリさせないでくださいね」

「あぁ、そうだね」

 にこやかに笑いあう二人の前を追い越しながら兄は静かに震えた。

(まったく、末恐ろしい妹だ。将来のためとはいえ、俺をだしに使うのもいい加減にしてもらいたいね)

「ですって、兄さん。よかったですね」

「……、まぁ、俺もそうでしたけど、熟睡してたらわかんないでしょうなぁ」

 ちょっとした仕返しのつもりで言ったノンナの一言。

 だが、経験者の一言にはとても説得力があった。

「いやまさか……」

「ちょっと、兄さん……」

「冗談ですよ……」


あの女たちなら、やりかねん。


 その時、左手の薬指にはめていた指輪が強く締まったのを感じて、タロンはぴたりと足を止めた。

 その少し先を歩いていたノンナがタロンの前に腕を伸ばして進行をさえぎった。

「マスター、止まってください。この先から死臭がします。それと、何やら花の蜜のような、甘ったるい匂いも」

 顔をしかめながら警戒するノンナは死臭する方向を見定めていた。しかし甘ったるい匂いのせいで、いまいち鼻が効かない様子だった。タロンも何度か鼻をヒクつかせてみたものの何も感じない。

 だがニーナも何かを感じたのか同じように眉をひそめる。

「まだかなり距離がある。少し危険ですが、森の中を迂回して進みましょう」

「まて、ノンナ。僕が調べてみよう、大まかでいい。方向は分かるかい?」

「いえ、風のせいではっきりとは分かりませんが……」

 振り向いたノンナはタロンの表情を見て忌々しげにがっかりした。

 タロンは笑っていた。

 目は鋭く、欲に満ちて静かにきらめいている。まるでいたずらっ子が新しいいたずらを思いついたように。

その横でニーナはうっとりしている。

「…。おそらく通路の右手のほうです」

 タロンは一度大きく深呼吸をすると左手を強く握って念じた。

(シャクス)

 タロンはゆっくりと目を閉じた。とたんに、視界が真っ暗なまぶたの下から飛び出して森の奥へと飛び込んでいった。

色も影も持たない実体の無い鳥が木々の間を縫うように猛烈な勢いで飛んでいく。

 しばらくしてタロンは目玉の前の物体に息を呑んだ。

巨大な、とてつもなく巨大な虫の死骸が横たわっている。

木々を踏み折り、その幹で腹を裂いて絶命していた。

その巨体は半透明な黄色に変色して蜜のように溶けだしていた。流れた血と中身で染まったた道も同じように照り輝いている。

 その姿をタロンは心得ていたので心底がっかりした。

「はぁ、なんてことだよ。こんな形で見ることになるなんてな。死んでいるのは【神樹の主】だ」

その名前にノンナは首を傾げたがニーナは目を向いて驚いた。

「それって、国境沿いにあるあの神木のことですか? ファゴートから見た、あの」

「あぁ、だが死んでるよ」

 このときのタロンはまるで親しい友人が堕落して腐っていたような、思い人の成れの果てを見せ付けられるやるせなさを感じていた。


 【うごめく森】 それが本来のこの森の名前だった。

 数多くの規格外のケダモノが、食らい食らわれながら絶えず進化する恐ろしい森。

 コカトリアが住み着くときに強烈な結界を通路と集落の周辺に作ったので、現在ではそれほど危険ではないがそれでもこの森に入ろうとする者はほとんどいない。

 今ではコカトリアがこの森の支配者のように思われている。

 だが、彼らは砂漠にオアシスを作っただけで森を支配したわけではない。

 コカトリアはあくまで、中立を維持することで生活を安定させていただけで、その周辺には決して立ち入ってはならない場所しかなかった。結界の外を10分でも歩けば何が起こっても不思議ではないほどにこの森の生物は絶えずうごめいていた。

 その中でも最も危険とされている場所がある。そこに近寄ることは生物としての終わりを意味していた。

 死ぬことの出来ない永遠、それがか神樹だった。

 その幹は雄大で気高く、見る者の生命に自信を与える。

 その葉はガラスのように透き通り、差し込む日差しを黄金の光にして下界を照らす。

 直径は二千kmを軽く上回る。枝の広がりは4千kmを超える。

 透き通った葉から見える空の模様は高価なステンドグラスを見るようで、不規則かつ幻想的に風に揺られてエメラルドとの光と心地のいい波音を生み出していた。

 そして最も素晴らしいのは、その幹から流れる湖ほどの大きさの樹液溜まりである。

 黄金の湖と呼ぶにふさわしく、日の光を浴びたそれは自分の黄色で光を染めて反射し、下界を黄金郷に変えるほどだった。

その蜜をひとたび口にすれば万病は治り、老いることも死ぬことも無くなる。

樹液は細胞の一個一個にまで浸透し、驚異的な速度で細胞を再構築する。

つまり傷は無くなり、ちぎれた部分は生え直る。


 その樹液には『不老不死』と『強化再生』という二つの毒性があったのだ。


 それを飲んだ者は世界が見えなくなる。

 それを飲んだ者は樹液そのものになる。

 樹液には飲んだ者の肉体を強化し、依存させるという副作用があった。

 樹液によって強く、たくましい化物になった彼らは樹液を取りあって殺しあう。そして木の足元に肉片を飛ばす。それが養分になって幹が広がる。幹が広がるたびに周りの土地は取り込まれていった。

活性化した細胞の新陳代謝のために、しばらくすると古い皮が剥がれ落ちて、溶けて、幹の養分になる。

 周辺にはおこぼれの肉片で凶暴になった化物の群れが樹液漬けの肉をむさぼる。

まともな生物はそこを避けて密集するので必然的に生態系は弱肉強食になっていく。

うごめく森の最大の名所であり、もっとも危険な場所。

遠くの首都『ファゴート』の特別展望台から観光できる。

 それが神樹。彼はその王であり、この森の最強でありその伝説は国境の外側ではではマイナーだったが内側では絵本にもなっていた。

 半年前、首都から見たときは数十キロ離れているにもかかわらず、その巨体を捉えることが出来てタロンとニーナは感激した。

 それが今、虫けらのようにくたばり、成れの果てはハチミツのようにとろけていた。

「つまり、新しい王が現れたということでしょうか」

「いや、それはおかしい。樹液を飲めば少なくとも死ぬことは無いし、彼らは樹液を飲み続けなければ死んでしまう。それがどうしてこんな遠くまで……」

 タロンは視界を亡骸と反対のほうへと飛ばした。

 踏み荒らされた黄金の道の行き止まり。

まだ折られていない森を、そのまままっすぐに進むとそこには小さな桃色の泉と、不釣合いな研究所があった。

 泉のそばには真っ赤な『化物』が小動物をかじりながら泉の水を飲んでいた。

 ふと、化物が見えない視線に気づいてその方向をじっと見つめた。

 その瞳を見た瞬間、タロンはこいつが神樹の王を殺したのだと理解した。

 おそらくはこの研究所を守るために。

 しかしそのどちらも、通路から数キロはなれた地点のことで、道を通る分には何の問題も無かったのだ。

 すくっと立ち上がるとタロンは二人に向き直った。

「二人とも、危険を避けるために大きく迂回して進もう」

「……迂回、ですか。それはよけていくということですか?」

「なんだ改まって、ノンナの提案でもあるだろ。通路は危険だ」

「本当に迂回なのですね?」

「あぁ、死体は道の右にあった。だがその通り道には神樹の樹液があふれている。あれには毒性があるので右に大きくよけていく」

「大きくとはどのくらいでしょうか」

「往復で1時間はかかるだろう。道は悪くない。ニーナ、少し長く歩く。辛くなったら直ぐに言いなさい。僕がおぶって行くからな」

 突然の提案にニーナはしっぽをピンと立てた。

その横でノンナが顔をこれでもかとしかめる。

「えっ! いえ、そんな! そんなの、だめですよ。だって私、ぉ、ぉ、重いかもしれませんから」

「僕なら大丈夫だよ。嫌ならノンナに――」

「嫌じゃないです! あっ、えっと、ぉ、お願いします」

「そっか、よかった」

「はい、よかったです」

 尻尾をくねらせる妹を横目に見ながら、ノンナは了解せざる終えなかった。

 目をきらめかせるこの男にノンナは黙って従うことにした。

少なくとも自分も妹もタロンにしたがってさえいれば死ぬことは絶対に無いという核心から来るものだったが、それでも不安はぬぐいきれない。

(何があっても、妹だけは家に帰すんだ)

 三人は真っ直ぐ泉のほうへと向かっていった。

 しばらくすると三人の目の前に異様な光景が映った。

 開けた場所で巨大なイノシシのガイコツが植物のコロニーになっていたのだ。

 周囲には倒れた木々の後があり、今まで大きな木の陰で光合成できなかった苗たちが、このときを待っていた、といわんばかりに無数の根をむくろの上に這わせていた。

 ドクロの奥で子ぎつねがじっとこちらをのぞいている。

 ひらひらとニーナが手を振るとシュッと奥に引っ込んでしまった。

 一匹の死体の周りに、新しい命が無数に芽生えていた。

 三人はいったんそこで昼食をとることにした。

 タロンとニーナは昼食のベリーパイを一切れ持つと、すぐにイノシシのほうへと走っていった。パイを少しかじっては亡骸を細かく調べて、それがどれくらい以前のものなのか、なぜ死んだのか、何が育っているのかな、その影響を調べていた。

 二人とも実に生き生きとしている。

 その後ろでノンナは子ぎつねと遊びながらパイの番をしていた。

「二人とも! お茶が出来ましたよ!」

「取りに行くから入れといて!」

「ありがとうノンナ!」

 しかし二人ともちっとも戻ってくる気配が無い。

 仕方なしにノンナはパイを一切れ砕くと子ぎつねにくれてやった。夢中で子ぎつねがかぶりついているその間にコップとパイを持って妹のところに持っていってやった。

 妹はあばら骨の内側に寄生して生える花を必死でスケッチしていた。

「ニーナ、パイと紅茶だ」

「あー……」

 口を大きく開いたニーナの口にパイを近づけると歯を突き立てて咥えた。

「あいがほ」 (ありがと)

「お茶、ここ置いとくからな」

「んん」 (うん)

 あきれながら骨の隙間から這い出ると、子ぎつねの横でタロンがお茶をすすっていた。

 ざわりとノンナの心に怒りが燃えた。

 つかつかとノンナはタロンの横に座ると、腕を強めに小突いた。

「何だ、ノンナ」

痛みに顔をしかめながら忌々しくうなったが、妹思いの兄の眼がそれを許さなかった。

妹に気づかれないよう、声を落として話し始めた。声を落とすといっても妹の位置から考えれば聴覚の鋭い猫獣人でもまったく意味は無い。気遣いをあえて見せ付けようとしているのが目に見えて分かる。

タロンは妹が集中してスケッチを撮っていることを知らないのだ。

実に女々しい。

「通路が本当に危険なら、一度コカトリアに戻るべきです。彼らの唯一の貿易手段でもあるんですから。しかしあなたはそれをしなかった」

 タロンは無表情にじっとりとした視線を妹思いの兄に向けた。

 この先に出る言葉を何度も聞いた彼は、このやり取り自体が非常にいけ好かなかった。

「妹を守ってください」

 それだけ言うとノンナはお茶を軽くすすった。

 お互いに敵意があるわけではない。

 しかしニーナがいなければ絶対に分かり合えない二人だった。

「相変わらず貧乏な考え方だな」

「もともと貧乏が染み付いていますから。頭のいい生き方がしたいと思ったことなど一度もありません。それにそんな頭には一生なれないでしょう。でも妹は別です」

「分かってるさ。パラディーゾに戻ったら大学にいかせるんだろ? だが何度も言うが彼女は間違いなく研究員になるだろう。それも僕と同じような行動派にね。何度も言うが、こういった経験は彼女の無事を思えば重要なことなんだ。ああ、この言い方は卑怯だな、うん。何度も言うが僕は君たちを雇っている。君たちの安全は保障するが、それは、君が力で、彼女には知恵で答えてもらえる限りでの話だ。分かるね」

「もちろんです。確認がしたかっただけです」

「いつもじゃないか、今度からこのやり取りを『あ・うん』で終わらせたいね」

「なら私しか『あ』は使わないでしょうな」

「うんうん」

 なんだか急にバカらしくなって二人とも吹き出して笑った。


 イノシシの死骸がここ数ヶ月中に出来たもので、死因は頭蓋骨の骨折とわき腹の裂傷だと判明し、その周辺もすっかり調べ終わると三人は泉の方へと歩き出した。

 しかしそれらが無意味だと知った。

 泉へ近づけば近づくほどに死骸の数が増えていく。

 それらの特徴もさまざまで、調べだしたらきりが無い。

 動物園か水族館のように2人はもったいなさそうに周囲の怪物を眺めながら進んだ。

 イノシシから十分も歩くと木々の隙間から美しい桃色の光がはっきりと見えてきた。

「わはぁ……、きれーい」

「これは……、宝石が浮かんでいるせいなのか」

 ニーナもノンナもオーロラのように輝く泉をうっとりと眺めていた。

 だがタロンは泉の横で寝そべっている彼をじっと見つめていた。

 その体は曇り空の下でも美しく滑らかに光を放って見えた。

 力なく寝そべって泉の水に手をくゆらせたりしながら愛でている。

 彼はゆっくりと首を左に向ける。

 首を動かすのも面倒、といった様子だったが、タロンと視線がぶつかった瞬間にカッと目を見開いて首を上げた。

タカのようなギョロリとした視線ををタロンの目に突き刺していた。

 泉にしか目が行っていなかった二人も、ゆっくりを見渡して、彼を見つけて戦慄した。

「ッ! な、なにかある……、し、死骸?」

 震えるニーナをノンナが自分の背後にやってかばった。次にタロンをと思って手を伸ばしたがその手は軽くはたき落とされた。

 いらだち混じりにノンナが小声でうなった。

「マスター、下がってください! あれが何なのか、分かりませんが、いますぐにこの場から離れましょう! あれがもし悪魔ならどんな呪いをつけられるか分かったもんじゃありませんよ!」

 タロンは右手を強く握り締めた。

 しかし不安になることは無かった。

むしろ目の前にいる彼に対して、親近感を覚え始めてさえいた。

「悪魔ならとっくに手遅れさ。彼は悪魔じゃない。ただの危険な動物だろう。でも敵意は無い。まったく怯えていないな。脅威とも思っていないのか、それとも……。こちらに興味を持っているが何かに警戒している。二人とも泉から離れてみるんだ。ゆっくりと、後ずさりするように」

 二人は言われたとおりに半歩ずつ後ずさりした。

 するとゆっくりと彼が立ち上がって、いよいよしっかりとタロンの目を見据えた。

 朝焼け色に染まった二つの目がゆっくりとタロンに歩み寄っていく。

「マスター……! あぁ、マスター、やめてください!」

 たまらずにニーナが声を漏らしたが、タロンも彼も気にも留めなかった。

 二人だけの世界。

 実にロマンチックで血なまぐさい瞬間だった。

 彼の体から漂う腐臭とわずかに残る甘酸っぱい樹液の匂い。見れば地面のいたるところが金色に反射している。彼の体が金色になっていないところを見ると、一度樹液にまみれたが洗い落としたのだろう。

 タロンがハッとした時にはすでに二人の距離は一メートルも無く、彼は立ち止まってタロンの右手をじっと見詰めていた。

(左手に興味を持たずに、右手……。まさかな)

 目の前の化け物を見ていると、自分が次の瞬間にはあっさりと死んでしまうのだと思えてくる。現実味の無い恐怖がゆっくりと頭の中にもぐりこんでくる。

 じっとりとした汗がひたいから、首から、脇から、背中から、手のひらから、わき腹から、またぐらから、足の先から、ぷちり、ぷちりと皮膚を突き抜けてあふれていくことが嫌に鮮明に分かった。

 タロンはそっと右手の甲を上にして彼の前に差し出した。

 すると彼は半歩下がると少しだけ頭を下ろして目を閉じてかしこまった。

(ははっ、死ぬかと思った。だがこれではっきりしたな)

 タロンは左の指先をのどに当てると念じた。


『カイム』


 それは相手に絶対に通じる言葉への翻訳を意味していた。

「おまえは、っ!」

 ところが、語りかけたその声は普段ニーナたちと話すときに使うソーレ語のままだった。

 恐る恐る左の薬指にはめた指輪を見つめる、指輪の彫刻の隙間でかぼそい光が点いたり消えたりして脈打っていた。

(指輪が、怖気づいてしまっている? ってなると、コイツぁ)

 タロンは仕方なく右手をのどにはめて念じた。

 本当にとても嫌だったが仕方がない。

(主よりたまわりし奇跡を持って命じる。我が声、明らかとなりて万民への励みとせよ)

 ギリギリとのどの奥がかきむしられるように痛んだ。

― お前は、何者か。見たところ、インフェルノの住人ではあるまい、名はなんと申す ―

 キーンと耳の奥で反響する音とともに、頭の中にハッキリと意味がひらめく。

 思い違いが絶対に出来ないその言葉に彼はより深く頭を下げて答えた。

― 恐れ多くも、わたくし私はお答えすることが出来ません ―

(やっぱりだ。こいつはそんじょそこらの天使よりも間違いなく位が高い。有り余る連中よりもはるかに崇高な存在か。まさか『神話』が話せるとは恐れ入る。おそらく堕天使だろうが名前が分からないんじゃ縛れないしなぁ。カマかけてみるか)

― お前の罪はココにいることですでに確定している。名を語る際には主の御名をふせよ。それでも答えられぬのか。主より与えられた業を疎むのか ―

― お答えいたします。わたくし私の名そのものが主の御名を汚すため、唱えることができないのです。わたくし私のような者が、いまだ恥知らずにもこの世にあること、それを自ら認めることは、わたくし私が主に対して悪意を持っていることの証明になってしまうのです。なにとぞお許しを ―


 彼はひざを折って深くひざまずいた。

 すると指輪が激しく震えた。

 まるで「なんと恐れ多いことを」とあわてているようだった。

 それは目の前にいる彼が、自分たちの故郷の最も位の高い存在のそばにいて、なおかつ強大な力を持った天使であったことを意味していた。

 指輪がそれを教えてくれる。


 所詮、タロンに気づかせるための冷めた三文芝居でしかない。


 ふと、右手に建つ建物に目がいく。

 一目見て、それがパラディーゾの技術で作られた建物だと解った。

(監獄かな。……こいつから聞き出すよりははるかに安全か)

― もうじき雨が降る。あの建物はお前のものか ―

― いえ、ですが持ち主はおりません。中には何もございませんし、わたくし私以外、何者も寄り付くこともございません。どうぞ汚れのないところをお使いください ―

― ありがとう ―

 タロンのお礼の言葉に彼はさらに深く頭を下げた。

― よろしければ、一つだけ、お願いがございます ―

― なんだ? ―

― みんなには、この泉には、何もしないでいただきたい ―

 表所にとぼしい化け物の顔に、確かな悲しみを感じた。


「二人とも、許可が下りた。ささっと調べて、ささっと逃げよう」

 足早に歩み寄ってきた二人に、タロンは声を震わせながら言った。

 そんなタロンをノンナは眉間にしわを寄せ、牙をむき出しにして睨んだ。今にも牙をむき出してタロンののど笛を噛み千切りそうだった。

「……あんた知ってたな? 知ってて来ただろう? 中央は通れたんだろう?」

「言葉に気をつけろ、考えがあってのことだ。彼は『上級天使』なんだ。しかも主にあっている」

 その一言がノンナの顔から怒りと血の気を抜き取った。

 とっさに挨拶に行こうとしたニーナの手をタロンがつかまなければ二人は自分の意思で挨拶に行き、殺されていたかもしれない。

(まぁ、あの様子じゃその可能性も薄いけど)

「二人とも、今日はあの建物に泊まる。あれはパラディーゾの首都の建物と同じ技術を持っている。おそらく、あの天使が知らないスペースがいくつもあるはずだ。その情報を彼に提供する。解ったね?」

 事の重大性におびえながら、二人は何度も頭を縦に振った。

 嘘は言っていない。


 建物の側面には巨大な亀裂が入っていて、そこから個室に入れるようだった。

 しかし三人はきちんと玄関から入ることにした。

 建物には扉も、窓も見当たらなかったが一箇所だけ、壁に向かって登る幅広の階段があった。


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