第8話 国家未満
宰相追放から三日。
城の空気は、驚くほど軽くなっていた。
廊下を歩く兵士の足取りが違う。文官たちの視線に、妙な怯えがない。
「いやー、空気って変わるもんですね」
快人は窓辺で伸びをした。
「……お前のせいだ」
フィリアが腕を組む。銀髪が揺れ、蒼眼が冷たく光る。
「感謝はする。だが、油断はしない」
「怖いなあ」
「お前がこの城を掌握しようとしていない保証はない」
真正面からの疑念。
普通なら動揺する。だが快人は笑ったままだ。
「掌握? いやいや」
ひらひらと手を振る。
「この規模、旨味ないっす」
「なっ……!」
フィリアの目が一瞬赤みを帯びる。
「我が国を侮辱する気か!」
「侮辱じゃないです。現状分析です」
さらりと言い切る。
「歳入は細い。軍は強いが疲弊気味。交易路は三本中二本が死にかけ。これ、国家というより延命中の砦ですよ」
言葉は柔らかい。内容は容赦がない。
フィリアは黙る。図星だ。
ややあって、彼女は静かに口を開いた。
「……この国の名は、アストレア王国」
声は誇りを含む。
「建国三百二十年。北方の蛮族を退け、王家は星を導く血と称されてきた」
窓の外を見やる。
「かつては交易都市だった。だが海路を失い、周辺諸国に圧され、今は内陸の小国だ」
「なるほど」
快人は顎に手を当てる。
「防衛特化型の縮小国家」
「何だその言い方は」
「でも筋は悪くない」
フィリアが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「城壁は堅い。騎士団は精鋭。つまり守り切る力はある」
彼は机に広げた紙へ視線を落とす。
「問題は、攻める意思がないこと」
沈黙。フィリアは唇を噛む。
「……攻める余力がないのだ」
「違います」
即答。
「攻め方を知らないだけ」
彼は地図に印をつける。
「アストレアのインプリケーションは三つ」
「いん……何だ」
「示唆、です」
苦笑して言い換える。
「一つ。軍事力はブランドになる。
二つ。小国だから意思決定が速い。
三つ。周辺国はあなた方を脅威未満と見ている」
フィリアの瞳が細まる。
「それの何が利点だ」
「油断されている、ってことです」
にやり、と笑う。
「市場は空いている」
「……お前は戦を商いに例えるな」
「同じですよ。勝つために何を削るか、何を伸ばすかの違いだけです」
フィリアはしばらく快人を見つめた。この男は危険だ。国家を構造として見る。感情ではなく、効率で測る。
だからこそ――疑わしい。
「お前は何が目的だ」
静かな問い。快人は一瞬、天井を見上げる。
「面白いから」
「ふざけるな」
「本気です」
真顔。
「潰れかけの組織が、立ち上がる瞬間。あれ、最高に楽しいんですよ」
言葉は軽い。だが瞳は冷静だ。
「あなたは守る人だ。俺は、増やす人間です」
フィリアの胸がわずかにざわめく。守ることしか考えてこなかった。増やす、という発想。
「……だが私は、お前を完全には信用しない」
「知ってます」
即答。
「だから振り回します」
「は?」
「疑ってる間は、全力で働きますから」
勝手な理屈だ。だが、どこか理にかなっている。フィリアは溜息をつく。
「まず何をする」
「食堂改革」
「は?」
「兵の満足度が低い。甘味が足りない」
「それは……財政が」
「分かってます。だから回すんです」
彼は指を鳴らす。
「小麦の副産物、余ってますよね?」
「……あるが」
「それで甘味を作る。騎士団限定販売。売上は兵站改善へ回す」
フィリアは目を瞬く。
「……そんな小さなことで、何が変わる」
「士気が上がる。士気が上がれば訓練効率が上がる。訓練効率が上がれば、防衛コストが下がる」
彼は笑う。
「国家は、甘味から変えられます」
沈黙。
やはり、危険だ。だが、この男の言葉には、妙な説得力がある。
「……失敗したらどうする」
「責任は取ります」
即答。
「どうやってだ」
「甘味係に降格します」
「意味が分からん!」
思わず声を荒げるフィリア。快人は肩をすくめる。
「まあまあ。小さく試しましょう。アストレアは小国。だから実験向きです」
実験。
その言葉に、わずかな恐れと期待が混ざる。
窓の外、城壁の向こうに広がる町。吹けば飛ぶような国家。
いや。国家未満。だが。未満なら、伸び代はある。
フィリアは静かに息を吐いた。
「……好きにしろ。だが監視は続ける」
「光栄です、団長代理」
軽く頭を下げる。
その背を見ながら、フィリアは思う。この男は城を奪うのではない。構造を奪う。そして作り替える。
それが恐ろしい。
だが――
「……面白い」
無意識に、呟いていた。
アストレア王国。建国三百二十年。
今、その歴史は。
甘味とともに、動き始めようとしていた。




