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攻略対象外の魔王と、世界を書き換えるまでの365日

作者: 佐新
掲載日:2026/02/18

沢山の作品から選んでくれてありがと!

第一章 死亡フラグは玄関マット

不在票は、人生を変える。比喩ではない。断言する。これは事実だ。

その日、私は自室のベッドの上でごろごろしながらスマホを眺めていた。

特に何をするでもなく、ただSNSを眺め、動画を流し、気づけば時間が溶けていく――休日の模範的な過ごし方である。

そして通知が一件、画面上部に滑り込んできた。


【不在連絡票:本日再配達最終日】


一瞬、脳が情報処理を拒否した。

次の瞬間、理解した。


「今日まで!?!?!?」


部屋に絶叫が響いた。推しの限定グッズ。受け取り期限、本日。つまり今日受け取れなければ、送り主に返送される。


返送=終わり。

世界の終焉である。


「待って無理無理無理!!」


私はベッドから飛び起きた。制服でもない、外出着でもない、部屋着のまま。

だが問題ではない。今は時間との戦いだ。

人は推しの前では愚かになる。いや、正確に言うなら――推しの前では理性が沈黙する。

階段を全力で駆け下りながら、冷静な自分が頭の片隅で囁いた。

危ないよ。走るな。

しかし別の私が叫ぶ。

急げ。

結果、本能が勝った。

私は高校二年生。運動神経は平均。短距離走は得意でも不得意でもない。だがその日は、人生で一番速く階段を降りていた自信がある。

そして――事件は玄関で起きた。

足が、滑った。

たったそれだけのことだった。

玄関マットの端。ほんの数センチの段差。

それが、人生の分岐点になった。

次の瞬間、世界がスローモーションになった。本当に、映画みたいに。

視界の端で、揺れるカーテンが見えた。廊下に差し込む光が、やけにきれいだった。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。


あ、これ転ぶ。


冷静な思考が浮かぶ。

頭打つ。

さらに続く。

死ぬ。

結論が出るのが早すぎる。


「いや待って」


声が出たかどうかは分からない。でも、止まらなかった。身体は前に倒れ、視界が回転し、床が近づいてくる。

人生って短いな。そんなことを、妙に冷静に思った。

もっと勉強しておけばよかった、とか。もっと友達と遊べばよかった、とか。普通ならそう思うのかもしれない。

でも私の脳裏に浮かんだのは――


推しの笑顔だった。


ああ、受け取れなかった。悔いは、半分ある。


衝撃。


暗転。


そして――


目を開けた。青空が広がっていた。


あまりにも青かった。絵の具をそのまま塗りつけたみたいな、現実離れした青。

風が頬を撫でる。少し甘い匂いがした。花の匂いだろうか。鳥の声が聞こえる。

やたら元気で、やたら近い。

ゆっくり瞬きをする。


「……え?」


起き上がった。知らない森だった。木々が高く、葉が光を透かし、地面には柔らかそうな草が広がっている。空気が軽い。肺に入る感覚が、妙に澄んでいる。頭の中で警報が鳴った。

ここ、どこ?

いや違う。

五秒で理解した。


「異世界だ」


根拠?ない。

でも確信があった。その確信は、次の瞬間、確定へ変わる。

視界の端で、何かが動いた。ゆっくり顔を向ける。

そこにいた。巨大な黒い狼。

軽トラサイズ。現実逃避したくなるサイズ。

黒い毛並みは光を吸い込むようで、赤い瞳が静かにこちらを見下ろしている。

息が白く揺れ、牙がわずかに覗く。


終わった。


私は人生の総括を三秒で終えた。

そのとき。

狼が、口を開いた。


「……目覚めたか」


低い声だった。落ち着いた声だった。そして――驚くほど、いい声だった。イケボだった。

恐怖と混乱の中、なぜか口が動いた。


「あなた……攻略対象ですか?」


沈黙。

森が静まり返る。風が葉を揺らす音だけが響く。やがて狼は、長く息を吐いた。


「違う」


一拍置いて、言った。


「私は魔王だ」


終わった(2回目)


※※※


第二章 未知ルート開幕

ここは乙女ゲームの世界だ。それは直感ではなく、確信だった。巨大な狼が喋った時点で現実ではない。

だが「魔王」と名乗られた瞬間、記憶の奥底に眠っていた知識が一斉に目を覚ました。

――この世界、知ってる。

脳内でパズルのピースがはまる音がした。


『聖剣と七人の王子』。


私が中学生の頃にハマり、高校生になっても周回を続け、ついには全ルート・全エンディング・隠しイベントまで回収した乙女ゲーム。

王都を舞台に、七人の王子と恋をしながら魔王討伐を目指す王道ストーリー。友情、裏切り、運命、涙、そしてハッピーエンド。プレイヤー評価も売上も高かった名作だ。

つまり。

私はモブだ。

王子でも勇者でも聖女でもない。イベントの背景で歩いている村人A。名前すらない存在。

そして目の前にいるのは――ラスボス。

本来なら、物語の終盤で勇者と王子たちに討伐される存在。

ここまでは理解できる。問題は、その先だった。

私は狼――いや、魔王を見上げながら、頭の中の記憶を必死にめくっていた。

黒髪長身の魔王。赤い瞳。低い声。狼耳。

……知らない。

知らない知らない知らない。

攻略本のページを頭の中でめくる。ファンブックのキャラクター一覧を思い出す。隠しルート、裏設定、開発者インタビューまで思い出す。

でも――いない。


「え、待って」


思わず声が漏れた。


「どうした」


低い声が返ってくる。私は慌てて首を振った。


「いえ、その……」


混乱しているのは事実だ。だが口に出せるわけがない。あなた、公式に存在しません。なんて言えるはずがない。

つまりこれは――

未知ルート。

攻略情報ゼロ。セーブデータなし。完全初見プレイ。難易度、地獄。魔王は静かに私を見下ろしていた。

赤い瞳は怖いはずなのに、不思議と威圧感は少ない。むしろ、観察されているような視線だった。

しばらくして、彼が口を開いた。


「行く場所はあるのか」


シンプルな質問だった。けれど私は言葉に詰まった。あるはずがない。元の世界には戻れない。この世界に知り合いはいない。お金も家も身分もない。

つまり。


「ありません」


自分の声が、驚くほど小さく聞こえた。森の空気が一瞬だけ重くなった気がした。魔王は何も言わず、私を見つめている。沈黙が長く続く。風が葉を揺らし、遠くで鳥が鳴いた。

時間の感覚が曖昧になる。やがて、彼は小さく息を吐いた。

そして言った。


「城に来い」


一瞬、意味が分からなかった。


「……え?」


間抜けな声が出た。


「城に来い」


もう一度、同じ言葉。それだけだった。理由も説明もない。普通なら断る。

だって相手は魔王だ。ラスボスだ。世界を滅ぼす側の存在だ。

でも――

私は乙女ゲーマーだ。未知ルート。隠しキャラ。イベント未回収。

その単語が頭に浮かんだ瞬間、選択肢は一つしかなかった。

危険?もちろんある。でも好奇心が勝った。

私は深呼吸した。そして、はっきりと言った。


「行きます」


その瞬間、物語が動き出した。


※※※


第三章 魔王城の現実(改稿・増量版)

魔王城を見た瞬間、私は思った。思っていたのと違う。

森を抜け、丘を越え、霧の向こうに現れた城は、確かに巨大だった。黒い石でできた壁。高い塔。空を切り取るような尖塔。外観だけ見れば、完璧な「ラスボスの城」である。

問題は、中だった。

重厚な扉がゆっくり開いた瞬間、私の脳内にあった魔王城のイメージが音を立てて崩壊した。

ドクロがない。炎が燃えていない。不気味な笑い声も響かない。

代わりにあったのは――

観葉植物。


「え」


思わず声が出た。玄関ホールの隅に、やたら元気な緑が置かれていた。日当たり良さそうな位置に、丁寧に配置されている。その奥には暖炉。さらに奥には、ふかふかそうなソファ。

完全に「おしゃれな大きい家」である。


「思ってたのと違う」


正直な感想が口から漏れた。魔王――改め、レオンは少しだけ首を傾げた。


「何がだ」


「もっとこう……炎とか、闇とか……」


「掃除が大変だ」


現実的すぎる回答だった。私は言葉を失ったまま城の中を歩いた。

廊下は広く、床は磨かれていて、埃ひとつない。窓から光が差し込み、空気は驚くほど澄んでいた。

そして、ある部屋の前で彼が立ち止まった。扉を開ける。

次の瞬間、私は固まった。

そこにあったのは――

書類の山だった。

机の上。棚の上。床の端。整然と積み上げられた大量の紙。


「え……」


思考が追いつかない。


「魔王って書類仕事するんですか」


恐る恐る聞いた。レオンは当然のように答えた。


「国家運営だ」


夢が壊れた。

世界征服とか、魔法とか、そういう派手なものを想像していた。でも目の前にあるのは、完全に事務仕事の光景だった。彼は書類を一枚手に取り、真剣な表情で目を通している。


「関税の調整だ」


「関税」


「国境警備の予算配分」


「予算」


「農地の収穫報告」


「魔王って何?」


思わず呟いてしまった。レオンは少しだけ考え、言った。


「王だ」


それは確かにそうだった。私は改めて彼を見た。


黒髪。赤い瞳。高い背。静かな声。確かに「魔王」なのに、やっていることは完全に「国王」だった。

勇気を出して聞いてみる。


「世界征服とか、しないんですか」


彼は即答した。


「しない」


あまりにも迷いがなかった。


「戦争は赤字だ」


現実派すぎる。


「勝っても復興費がかかる。負ければ終わる。割に合わん」


私は完全に言葉を失った。魔王、超現実主義者。そしてもう一つ、気づいたことがあった。

城が静かすぎる。人の気配がない。足音が響く。物音がない。


「……あの」


「何だ」


「他の人は?」


沈黙。


「いない」


「え」


「全て私がやっている」


完全ワンオペ魔王だった。想像以上にブラック環境である。その夜、私は客室として用意された部屋のベッドに座って考えていた。

広い城。大量の仕事。誰もいない生活。

ふと、彼が一人で書類に向かっている姿が頭に浮かんだ。

胸の奥が、少しだけ痛んだ。気づけば、立ち上がっていた。書斎の扉をノックする。


「入れ」


中では、彼がまだ書類を読んでいた。私は深呼吸して言った。


「料理、作ります」


沈黙が落ちた。彼はゆっくり顔を上げた。驚いたような表情だった。

しばらく何も言わず、私を見ている。やがて、小さく言った。


「……頼む」


そのとき、彼の耳が少し赤くなっていることに気づいた。


※※※


第四章 初めての笑顔(

料理を出した日、彼は固まった。

湯気の立つ皿を前に、まるで時間が止まったみたいに動かない。

さっきまで書類に追われていた手が、宙で止まったまま。

静寂。

城の広い食堂は、やけに音が響く。暖炉の火がぱち、と小さく弾けた。

やばい。失敗した?

私の頭の中に、料理漫画でよく見る最悪の展開が流れ始めた。

塩入れすぎた?

火加減?

異世界の野菜って毒あったりする?

魔族って人間の味覚と違う?

不安が全力疾走し始めたその瞬間。レオンはゆっくりとフォークを持ち上げた。

一口。噛む。止まる。

沈黙。

そして――


「……美味い」


たったそれだけ。

でも。その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。

顔は無表情。でも、わずかに眉が緩んでいる。それが分かった瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。

よかった。本当によかった。


「ほんとですか!?」


思わず身を乗り出してしまう。彼は小さく頷いた。


「温かい料理を食べたのは、久しぶりだ」


その言葉は、まるで独り言のようだった。私はその意味をすぐ理解できなかった。

けれど、胸のどこかが少しだけ痛んだ。

それから、毎日料理を作った。最初は緊張していた。

味付けは?

量は?

食材は?

魔王の胃袋という未知のダンジョンに挑む気分だった。でも、少しずつ変化が現れた。


三日後。


「今日は何だ」


食堂に入るなり言った。驚いた。向こうから聞いてきた。


「今日はシチューです!」


「……そうか」


その一言なのに、ほんの少しだけ声が軽い。たぶん気のせい。でも、嬉しかった。


五日後。


「昨日のスープが好きだ」


心臓が止まりかけた。リクエスト。魔王からリクエスト。

これはもう事件だ。


「じゃあ明日も作ります!」


「……期待している」


短い言葉なのに、破壊力が高い。


十日後。


食堂の扉が開く前から足音が分かるようになった。書類仕事が終わる時間も覚えた。好きな味も少し分かってきた。

野菜は多め。肉はしっかり焼く。スープは濃いめ。

そしてその日。


「……楽しみにしている」


小さく、確かに言った。手に持っていたお玉を落としそうになった。

魔王が。魔王が「楽しみ」って言った。

私はその場でくるっと背を向けた。顔を見られたくなかったから。絶対に、ニヤけていた。

ある日、ふと思った。この人、食べる時いつも静かだ。誰かと食卓を囲むことに慣れていない。

食べ終わると、少しだけ安心した顔をする。

まるで――

今日一日が無事終わったことを確認するみたいに。

その瞬間、理解した。この人、ずっと一人だったんだ。

魔王。王。支配者。

肩書きはたくさんあるのに。食卓には、ずっと誰もいなかった。

それに気づいた日から。私は料理を作る理由が変わった。

生きるための食事じゃない。楽しみに帰ってきてほしいから。

「今日もお疲れ様」って言える場所を作りたかった。

この城に。この人に。

その夜。

食事のあと、レオンが珍しく席を立たなかった。暖炉の火が静かに揺れている。

沈黙。

でも、不思議と気まずくない。


「……なぜ、ここまでしてくれる」


ぽつりと聞かれた。私は少し考えた。そして答えた。


「ご飯は、誰かと食べた方が美味しいからです」


レオンは何も言わなかった。けれど。

ほんの少しだけ。ほんの少しだけ。笑った気がした。


※※※


第五章 魔王の仕事

魔王の一日は忙しい。想像していた「玉座で高笑い」は存在しなかった。

代わりにあるのは――

書類。書類。そして書類。

机の上に積まれた羊皮紙の山は、もはや山脈と呼んでいい。しかも毎日増える。減らない。


「魔王ってこんな仕事するんですか」


私が恐る恐る聞くと、レオンはペンを止めずに答えた。


「国家運営だ」


夢が壊れた。

朝。私は書類運び係として正式採用された(自称)。

朝食後、彼は執務室へ直行する。そして座った瞬間から、世界が静かになる。

カリカリカリカリ。

羽ペンの音だけが響く。


「えっと……これ全部今日分ですか?」


「午前分だ」


絶望した。最初に任された仕事は、封蝋押しだった。丸いスタンプを赤い蝋に押すだけ。

簡単。楽勝。余裕。

そう思っていた時期が私にもありました。


「失敗したら?」


「最初から書き直しだ」


手が震え始めた。魔王のサイン入り外交文書を、私は今、握っている。責任が重すぎる。

午前中は税の報告。午後は国境警備の報告。夕方は外交文書。夜は……まだ書類。


「休憩しないんですか」


「今は必要ない」


嘘だ。必要だ。絶対必要だ。私は机の横にカップを置いた。


「お茶です」


レオンは手を止めた。少し驚いた顔。


「……ありがとう」


その言葉を聞いただけで、なぜか胸が温かくなる。


数日後。

私は書類の種類が分かるようになっていた。税報告は厚い。外交文書は長い。苦情は多い。

特に苦情。

「橋が壊れた」

「魔物が畑を荒らした」

「隣国の商人がぼったくった」

王って大変すぎる。


ある日。


私はずっと気になっていたことを聞いた。


「なんで世界征服しないんですか」


レオンのペンが止まった。

沈黙。

少しだけ考える仕草。そして。


「征服後の統治が面倒だ」


現実派すぎる。私は思わず笑ってしまった。


「もっとこう、野望とかないんですか」


「ある」


即答だった。私は目を輝かせた。ついに魔王らしい発言が来る?

レオンは静かに言った。


「全員が普通に暮らせる国」


予想外すぎた。


「戦争は負債だ。平和は投資だ」


彼は淡々と言う。


「征服は一瞬だが、統治は永遠に続く」


重い。すごく重い。

でも――

妙に納得してしまった。


「だから戦争しないんですね」


「必要ならする。だが、最終手段だ」


その横顔は、王そのものだった。私は思った。この人、魔王向いてない。

でも――王には向いている。

その日、夜。書類の山がやっと半分になった。

私は思わず拍手した。


「終わりが見えましたね!」


レオンは少し考えてから言った。


「違う」


嫌な予感。彼は新しい箱を机に置いた。

中身。書類。増えた。


「今日届いた分だ」


絶望した。私は机に突っ伏した。


「国家運営って終わらないんですね……」


レオンが小さく笑った。本当に小さく。


「終わらない。だから国は続く」


その言葉は不思議と優しかった。私は顔を上げた。この人はずっとこうやって。

終わらない仕事を。終わらない責任を。一人で抱えてきたんだ。


「一緒にやります」


思わず言っていた。レオンがこちらを見る。驚いた顔。


「書類運びでも、お茶でも、何でも」


少し間があって。彼は小さく頷いた。


「……助かる」


その瞬間。

執務室の空気が少しだけ変わった気がした。一人の部屋が、二人の部屋になった。


※※※


第六章 小さな事件

その事件は、静かな夜に起きた。魔王城の夜はとても穏やかだ。風の音と、遠くの森のざわめきだけ。

だからこそ。その物音は、はっきり聞こえた。


――ガシャン。


金属が落ちる音。私はベッドから飛び起きた。


「なに今の!?」


心臓が暴れている。異世界生活で一番聞きたくない音ランキング堂々の一位。

侵入者だ。廊下に出ると、城の奥から足音が近づいてきた。

重く、静かな足音。レオンだった。

既に剣を持っている。表情はいつも通り無表情。でも、空気が違う。静かな威圧感。

王の顔だった。


「部屋に戻れ」


低い声。命令だった。

でも。

足が動かなかった。


「何が起きてるんですか」


レオンは少しだけ沈黙して言った。


「侵入者だ」


やっぱり。心臓がさらに速くなる。城の奥、倉庫の前。

そこには――

五人の男たちがいた。

汚れたマント。痩せた体。怯えた目。盗賊だ。

私は思った。

終わった。戦闘だ。血だ。暴力だ。RPGイベントだ。

でも。

レオンは剣を抜かなかった。代わりに言った。


「何を盗みに来た」


え?


会話?


盗賊たちは戸惑った顔をした。一番年上らしい男が前に出る。


「……食料だ」


私は耳を疑った。宝でも金でもない。食料。


「村が干ばつでな。子どもが腹を空かせてる」


嘘かもしれない。でも、声が震えていた。長い沈黙。

私はレオンを見た。

怒る?捕まえる?追い払う?

どれだろう。レオンは静かに聞いた。


「盗み以外の方法は考えなかったのか」


男は苦笑した。


「仕事がねえんだよ」


その一言が、やけに重かった。さらに長い沈黙。空気が張り詰める。

私は怖かった。この沈黙の先に、何が来るのか分からなくて。

でも。

レオンは剣を鞘に戻した。


「働く気はあるか」


盗賊たちは固まった。私も固まった。


「……は?」


「城の警備が足りない」


沈黙。

理解が追いつかない。盗賊の男が震える声で言った。


「俺たちを……雇うのか?」


「生活が安定すれば盗まない」


あまりにも静かな声だった。

でも。

その言葉には確信があった。

数分後。

盗賊たちは床に額を擦り付けていた。


「働かせてください!」


展開が早い。

翌朝。

城の前に並ぶ元盗賊五人。新品の制服。ぎこちない敬礼。私はまだ理解できていない。


「雇ったんですか!?」


レオンは普通に答えた。


「人手不足だ」


確かに。完全ワンオペ魔王だった。元盗賊たちは真面目に働いた。

真面目すぎるくらい働いた。門番。見回り。荷物運び。

城に、初めて人の声が増えた。笑い声が聞こえるようになった。

城が少しだけ“城”になった。

夕方。

私は城壁から外を見ていた。


「怖くなかったんですか」


レオンが隣に立つ。


「何がだ」


「裏切られるとか」


彼は少し考えて言った。


「信じなければ何も始まらない」


その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっとした。

この人は。強い。剣じゃない。信じる強さ。

私は思った。

この人、やっぱり魔王向いてない。

でも――

王には向いている。

そして。少しだけ。誇らしかった。


※※※


第七章 季節が巡る

春が来た。気付いたら、城の庭に花が咲いていた。白い花。小さくて、風に揺れる。

名前は知らないけれど、毎朝見るのが習慣になった。異世界に来てから、どれくらい経ったんだろう。

最初は毎日が事件だった。全部が未知だった。全部が怖かった。

でも今は――

それが日常になっていた。

朝。

キッチンで朝食を作る。パンを焼く音。スープが煮える匂い。窓から差し込む光。

最初は借り物だったこの場所が、少しずつ自分の居場所になっていく。食堂の扉が開く音。

振り向かなくても分かる。レオンだ。


「おはようございます」


「……おはよう」


短いやり取り。でも、それだけで一日が始まる。

夏が来た。

城は前よりずっと賑やかになった。元盗賊たちはすっかり警備隊だ。庭では誰かが訓練している。廊下では笑い声が響く。あの静まり返った城は、もうない。


「変わりましたね」


私が言うと、レオンは窓の外を見た。


「そうだな」


少しだけ目が柔らかい。その表情を見るのが、好きだった。


秋が来た。

紅茶の季節だ。執務室の窓際に小さなテーブルを置いた。仕事の合間に、少し休憩するため。

最初は戸惑っていた。


「休憩は必要です」


「……そうか」


今では当たり前になった。午後の紅茶の時間。私がカップを置くと、彼は自然にペンを置く。

それが、なんだか嬉しかった。

ある日。

窓の外では、落ち葉が舞っていた。静かな午後。紅茶の湯気がゆらゆら揺れる。レオンがぽつりと言った。


「城が静かではなくなった」


私は少し慌てた。うるさかった?騒がしかった?迷惑だった?


「うるさいですか?」


恐る恐る聞く。レオンは首を振った。


「違う」


そして。ほんの少しだけ微笑んだ。


「良い意味だ」


心臓が止まりそうになった。

その瞬間。

何かが胸に落ちた。

静かに。

確かに。

ずっと一緒に過ごしてきた時間。

一緒に食べた食事。一緒に飲んだ紅茶。一緒に過ごした日常。

全部が、一本の線になった。

気付いてしまった。

私は。


この人が好きだ。


恋に落ちた。

怖かった。

嬉しいのに、怖かった。

だって。

私は異世界の人間。いつか帰るかもしれない。未来は分からない。

でも。

それでも。

この時間が続いてほしいと思った。

初めて。

この世界に残りたいと思った。


※※※


第八章 魔王の過去

冬が来た。城の外は雪だった。窓の外で白い粒がゆっくりと落ちていく。世界が静かになる季節。

夜は特に冷える。だからその日、私は暖炉に薪を多めに入れた。パチ、と火が弾ける音。

揺れる橙色の光。

レオンは執務室ではなく、珍しく食堂で過ごしていた。仕事は早めに切り上げたらしい。それだけで、少し特別な夜だった。沈黙が心地いい夜だった。紅茶の湯気がゆっくり揺れる。

外は雪。中は暖炉。

時間がゆっくり流れていた。

その時、レオンがぽつりと話し始めた。


「私は恐れられて育った」


唐突だった。でも、声は静かだった。まるで、ずっと胸の奥にしまっていた言葉みたいに。

私は何も言わず、続きを待った。


「幼い頃から力が強かった」


火が揺れる。彼の横顔が影になる。


「同年代の子どもは近づかなかった」


想像できた。遊びたい盛りの子どもが、ひとりで立っている姿。近づけば傷つくかもしれない。

そんな恐怖を向けられる子ども。


「教師も、兵も、使用人も」


少し間があく。


「皆、敬語だった」


胸がぎゅっと痛んだ。それは尊敬じゃない。恐怖だ。


「強すぎる王は孤独だ」


暖炉の火が揺れた。その言葉は重くて、静かだった。


「友人も家族もいない」


私は何も言えなかった。軽い言葉なんて出てこない。ただ、隣に座っていた。それしかできなかった。


「誰も近づかなかった」


その言葉のあと、長い沈黙が落ちた。外では雪が降り続いている。私はゆっくり聞いた。


「今は?」


声が震えないように気をつけた。レオンはすぐには答えなかった。暖炉の火を見つめている。

長い沈黙。心臓がうるさい。

そして。

小さく言った。


「……お前は例外だ」


世界が止まった。胸が苦しくなった。嬉しい。でも、痛い。

この人は。

こんなにも長い間、ひとりだったんだ。

私はゆっくり言った。


「例外、嬉しいです」


レオンは何も言わなかった。

でも。

少しだけ。ほんの少しだけ。耳が赤かった。

その夜。

部屋に戻ってから、私はしばらく眠れなかった。


例外。


たった一言なのに。心の奥で、何度も何度も繰り返された。私は知ってしまった。

この恋は。もう戻れないところまで来ている。


※※※


第九章 物語が動く

その報告は、朝一番に届いた。執務室の空気はいつもと同じ。机の上には書類の山。窓の外は晴れ。

いつも通りのはずだった。

けれど。

一通の封書が、すべてを変えた。


「王都からの急報です」


警備隊の一人が差し出した封書。

王都。

その言葉だけで、胸がざわついた。レオンは無言で封を切る。羊皮紙を開く。目が動く。

そして――止まった。

ほんの一瞬だけ。でも、確かに止まった。嫌な予感がした。


「どうしたんですか?」


私が聞くと、彼は紙を折りたたんだ。少しだけ間を置いて、言った。


「勇者が誕生した」


世界が静かになった。頭の中が真っ白になる。

勇者。その単語を、私は知っている。嫌というほど知っている。


『聖剣と七人の王子』


この世界の元になった乙女ゲーム。

その物語は――

勇者が魔王を倒す物語だ。

つまり。これは。物語の始まり。


「王子が出発した」


追い打ち。王子。攻略対象。ヒーロー。ルート開始。ゲーム開始。

心臓が、嫌な音を立てた。ゲームの記憶が一気に蘇る。

勇者誕生。王子の旅立ち。仲間との出会い。魔王討伐。

そして。

最後。

魔王は死ぬ。

必ず。どのルートでも。絶対に。逃げられないエンディング。死亡フラグ。

視界が揺れた。椅子に座り直す。手が冷たい。

レオンはいつも通りだった。表情も声も変わらない。


「そうですか」


それだけ。それだけなのに。胸が締め付けられた。怖くないの?不安じゃないの?死ぬかもしれないのに?

その夜。

眠れなかった。

ベッドの中で天井を見る。何度も寝返りを打つ。頭の中は同じ言葉で埋まっていた。

勇者。王子。旅立ち。討伐。魔王死亡フラグ。最初はゲームの世界だった。他人事だった。

でも今は違う。

これは物語じゃない。

現実だ。

そして。

魔王は。レオンだ。涙が出そうになった。

どうして。

どうして今なの。

やっと。日常ができたのに。やっと。恋を自覚したのに。

私は布団を強く握った。決意が胸に生まれる。

ゲーム通りにはさせない。

絶対に。

レオンを死なせない。

この物語の結末を、変える。


※※※


第十章 逃げよう

翌朝。

私は決めていた。考えて、考えて、考えて。結論は一つしか出なかった。執務室の扉の前に立つ。

ノック。


「入れ」


いつも通りの声。扉を開けると、いつも通りの光景。書類。机。窓。レオン。

でも。

今日はいつも通りじゃない。私は深呼吸した。

そして言った。


「逃げましょう」


沈黙。

ペンの音が止まる。空気が凍る。レオンがゆっくり顔を上げた。


「断る」


即答だった。一秒も迷わない。その速さが、胸に刺さる。


「どうしてですか!」


声が大きくなる。止められなかった。


「勇者が来るんですよ!?王子も来るんですよ!?」


レオンは静かに答える。


「知っている」


「じゃあ!」


机に手をつく。涙が滲む。


「死んじゃうんですよ!?」


言ってしまった。言葉にしてしまった。引き返せない。

長い沈黙。

レオンは椅子から立ち上がった。ゆっくり歩いてくる。

一歩。また一歩。逃げたいのに、足が動かない。

目の前で止まった。

そして言った。


「私は王だ」


低く、静かな声。でも揺るがない。


「国から逃げる王はいない」


胸が痛い。正しい。分かってる。でも。


「でも……!」


言葉が続かない。涙が溢れる。

その時。

頭に手が置かれた。優しく。大きな手。

驚いて顔を上げる。レオンが少しだけ困った顔をしていた。初めて見る表情だった。


「お前は逃げろ」


息が止まった。


「城を出ろ。人間の国へ行け」


声が震えている気がした。


「ここにいる必要はない」


違う。違う。そうじゃない。

涙が止まらない。次から次へ溢れる。


「嫌です」


声が震える。


「嫌です……」


子どもみたいな声だった。自分でも分かった。でも止められない。


「一人で残らないで」


言った瞬間、胸が壊れそうになった。

私は怖いんだ。彼がいなくなる未来が。想像するだけで息ができない。レオンは何も言わなかった。

ただ、頭に置いた手を少しだけ強くした。その温もりが、余計に涙を溢れさせた。

私は知っていた。この人は絶対に逃げない。

だから。余計に。

涙が止まらなかった。


※※※


第十一章 告白

決戦前夜。城は静かだった。

嵐の前の静けさ、という言葉があるけれど。今ならその意味が分かる気がした。

昼間はいつも通りだった。警備隊は巡回をして、厨房では夕食の準備が進み、執務室では書類が増え続けていた。でも、皆どこか落ち着かない。誰も口にしない。けれど全員が知っている。

勇者が来る。

物語が終わりに近づいている。

夜。

私は眠れなかった。ここ最近ずっと眠れていないけれど、今日は特にひどかった。

窓の外は星空。雪は止んでいた。静かすぎて、心臓の音がうるさい。

気付いたら、廊下を歩いていた。足が勝手に向かう場所は決まっている。

執務室。

扉の前で立ち止まる。灯りが漏れている。まだ起きてる。ノックする手が震えた。それでも叩いた。


「入れ」


いつもの声。いつも通り。それだけで泣きそうになった。部屋に入ると、レオンは机に向かっていた。

書類。ペン。いつもの光景。

でも今日は違う。

これが、最後の夜かもしれない。その可能性が、喉を締め付けた。


「どうした」


レオンが顔を上げる。私は答えられなかった。

言葉が喉につかえて出てこない。

胸がいっぱいで、苦しくて。それでも。言わなきゃ。今言わなきゃ、もう言えない。


「明日」


声が震えた。


「戦いになりますよね」


レオンは少しだけ目を伏せた。


「そうだ」


短い答え。でも、それで十分だった。現実だった。逃げられない現実。沈黙が落ちる。

何度も言葉を飲み込む。

怖い。怖い。怖い。

でも。

このまま終わる方がもっと怖い。私はぎゅっと拳を握った。

そして。言った。


「好きです」


空気が止まった。時間が止まった。世界が止まった。

レオンは動かなかった。まるで石像みたいに固まっている。心臓が壊れそうだった。

やっぱり迷惑だった?困らせた?今じゃなかった?

後悔が一気に押し寄せる。逃げ出したくなった、その瞬間。

レオンが小さく言った。


「……困る」


胸が落ちた。

やっぱり。やっぱり。でも。私は聞いた。


「困ります?」


震える声だった。レオンはしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。


「嬉しい」


理解が追いつかなかった。


「え」


思わず声が漏れる。レオンは少しだけ視線を逸らした。そして小さく続けた。


「言葉に困るだけだ」


私は呆然とした。心が追いつかない。嬉しい?今、嬉しいって言った?

その時。

気付いてしまった。レオンの耳が赤い。はっきり分かるくらい赤い。魔王が。魔王が照れている。

心臓が爆発しそうだった。


「私も」


レオンが小さく言った。一瞬、聞き取れなかった。


「え?」


聞き返すと、彼は小さくため息をついた。

そして。


「好きだ」


世界が輝いた。本当に、そう感じた。明日、戦いがある。明日、未来は分からない。

それでも。

この瞬間だけは、確かに幸せだった。


※※※


第十二章 決戦

その日、空は異様なほど青かった。皮肉みたいな晴天。

城の上空には雲ひとつない。まるで世界が「今日は特別な日だ」と知っているみたいだった。

門の前が騒がしい。警備隊の声。馬の嘶き。鎧の音。

勇者が来た。

物語が、ここまで追いついた。私は震える手を握りしめていた。玉座の間の扉の前。

隣にはレオンがいる。黒いマント。王の装い。いつもの無表情。

でも分かる。緊張している。ほんの少しだけ、呼吸が深い。

それだけで胸が苦しくなる。扉が開いた。重い音が響く。光が差し込む。

そして――

勇者一行が入ってきた。眩しいくらいの光の中。金色の剣。輝く鎧。真っ直ぐな目。

物語の主人公たち。

ゲームの画面で何度も見た光景が、目の前にあった。現実として。

勇者が剣を構える。勇者が前に出る。

空気が張り詰める。剣が抜かれる音が響いた。

終わりが近づいている。胸が壊れそうだった。

でも。

私は前に出た。レオンの前へ。

心臓がうるさい。怖い。怖い。怖い。

でも。

言わなきゃ。ここで言わなきゃ、全部終わる。私は勇者たちをまっすぐ見た。

そして言った。


「好きな人なので」


世界が止まった。本当に、止まった気がした。勇者が固まる。レオンが瞬きを忘れる。

後ろの仲間たちが顔を見合わせる。

想定外。完全に想定外。

物語にない展開。


「……は?」


勇者の声が裏返った。

分かる。私も同じ気分だ。でも止まれない。もう止まらない。

レオンの手が少し動いた。横を見ると、彼はわずかに目を見開いていた。

たぶん、彼にとっても想定外。

でも。

次の瞬間。静かに一歩前に出た。

王として。魔王として。そして言った。


「提案がある」


玉座の間の空気が変わった。剣ではなく。

言葉の戦いが、始まろうとしていた。


※※※


第十三章 三日三晩の交渉

玉座の間に、静寂が落ちた。剣は抜かれたまま。でも、誰も動かない。

レオンの一言が、空気を止めていた。


「提案がある」


勇者は眉をひそめた。そのまま剣を構えたまま動かない。物語ではあり得ない展開。

普通なら、ここから戦闘だ。必殺技だ。エンディングだ。

でも今日は違う。

戦いではなく――

交渉が始まった。


「魔族と人間の戦争を終わらせたい」


レオンの声は静かだった。けれど、玉座の間の隅々まで届いた。

勇者が驚いた顔をする。


「……罠か?」


当然の反応だ。魔王が戦争終結を提案する。誰が信じる?レオンは首を振った。


「戦争は赤字だ」


私は思わず目を閉じた。ここでその理論出すんだ。

でも、彼らしい。

王子が一歩前に出た。


「なぜ今だ」


レオンは迷わなかった。


「戦う理由がない」


短く、真っ直ぐな答え。


「我々は土地を持ち、人間は技術を持つ」


彼は続ける。


「奪うより、交換した方が利益が大きい」


玉座の間が静まり返る。勇者一行が顔を見合わせた。誰も、この展開を予想していない。

その日、戦いは起きなかった。代わりに長い机が運び込まれた。紙。ペン。地図。

戦場が、会議室になった。交渉は簡単ではなかった。


一日目。


互いの不信感がぶつかる。


「信用できない」

「前例がない」

「裏切りは?」


怒声が飛ぶ。机が叩かれる。夜が更けても終わらない。


二日目。


少しずつ変わる。食事を共にする。休憩中に雑談が生まれる。勇者が言った。


「このスープ、美味しいな」


私は心の中でガッツポーズした。世界平和、胃袋から。


三日目。


空気が変わった。誰も剣に手をかけない。誰も声を荒げない。代わりに、未来の話をする。

交易。国境。共存。

そして――

最後の書類にサインがされた。

戦争終結。魔族と人間の交易開始。歴史が変わった瞬間だった。城の外では歓声が上がっていた。

泣いている人もいた。笑っている人もいた。世界が、少しだけ優しくなった。

私は空を見上げた。青い空。あの日と同じ空。

でも、世界は違う。物語の結末が変わった。

運命を書き換えた。

そして私は思った。

この人となら。未来はきっと、大丈夫。


※※※


第十四章 すれ違い

平和は、静かに世界を変えた。戦争が終わった日から、城の空気は一変した。

来客。使者。外交官。商人。王族。

毎日のように誰かが訪れる。

玉座の間は戦場の代わりに会議室になった。執務室の書類は三倍になった。廊下には常に人の気配がある。

城は、かつてないほど賑やかだった。

そして――

私は、かつてないほど寂しかった。朝食を一人で食べる日が増えた。昼は会議。夜も会議。

紅茶の時間は消えた。窓際の小さなテーブルは、いつの間にか書類置き場になっていた。

以前なら必ず聞こえた足音も、今は聞こえない。忙しいのは分かっている。

平和になった証拠だ。分かっている。

でも。

寂しいものは寂しい。

夜。

城の廊下は静かだった。灯りも少ない。こんな時間まで起きているのは、きっと私だけ。

そう思っていた。

執務室の扉の前に来るまでは。

灯りが漏れていた。まだ働いている。

胸が少し痛んだ。ノックするか迷う。

迷って。結局、叩いた。


「入れ」


疲れた声だった。扉を開けると、書類の山の中にレオンがいた。

目の下に薄い影。疲れているのが分かる。胸が締め付けられる。

でも。

同時に。少しだけ、腹が立った。


「最近、全然話してないです」


言葉が勝手に出た。言うつもりじゃなかったのに。レオンは少し驚いた顔をした。


「忙しい」


短い答え。それが余計に胸に刺さる。


「紅茶も飲んでないです」


沈黙。


「一緒にご飯も食べてないです」


沈黙。


「前は毎日会ってたのに」


声が震えた。止められない。レオンがゆっくり立ち上がった。こちらに歩いてくる。

近い。近すぎる。

心臓がうるさい。

そして言った。


「平和を望んだのはお前だ」


思考が止まった。


「え?」


理解が追いつかない。責められている?

そう思った瞬間。胸が冷たくなった。

でも。

次の言葉は違った。


「お前の家を守りたかった」


息が止まった。


「人間の国。お前が生まれた場所」


静かな声だった。


「戦争が続けば、いずれ巻き込まれる」


言葉がゆっくり胸に落ちていく。


「だから終わらせた」


涙が溢れた。止まらない。止められない。

この人は。忙しくて会えなかったんじゃない。私の世界を守るために、走り続けていたんだ。

レオンは少し困った顔をした。


「泣くな」


優しい声。それが余計に涙を増やす。

私は思った。

この人は不器用だ。言葉が足りない。全部行動で示している。

だから、涙が止まらなかった。


※※※


第十五章 寿命

その夜、眠れなかった。理由は分かっている。幸せだったからだ。

平和になった。戦争は終わった。未来は続いていく。

それなのに。

胸の奥に、小さな不安が生まれていた。幸せなほど、怖くなる。失う未来を想像してしまう。

気付けば、屋上に立っていた。夜風が冷たい。空には星が広がっている。

この城の屋上は、いつ来ても静かだ。城の喧騒が遠くなる場所。

足音が聞こえた。振り向かなくても分かる。レオンだった。隣に立つ。何も言わない。

夜風がマントを揺らす。星が瞬く。沈黙が心地よかった。

でも。

レオンが先に口を開いた。


「人間は寿命が短い」


胸が少しだけ痛んだ。来ると思っていた話題だった。逃げられない現実。


「はい」


小さく答える。魔族は長命だ。何十年。何百年。人間とは違う時間を生きる。

私は知っている。いつか必ず訪れる未来。置いていく未来。置いていかれる未来。


「それでもここにいるのか」


風の音に混ざる声。少しだけ低い。少しだけ不安そう。初めて聞く声だった。私は少し笑った。震える声で。


「います」


即答だった。

迷いなんてなかった。私はこの世界に来た日を思い出す。怖かった日。泣いた日。笑った日。

全部、この城で過ごした。全部、この人の隣で過ごした。


「帰る場所は、もうここです」


胸が温かくなる。怖さより、確信の方が大きかった。

しばらく沈黙。

夜風だけが流れる。

そして。

レオンが言った。


「私の隣にいろ」


その言葉は短かった。

でも。

今まで聞いたどんな言葉よりも重かった。

涙が滲む。

嬉しくて。

少し怖くて。

でも、幸せで。

私は笑って答えた。


「最初からそのつもりです」


夜空の下。二人の影が並んでいた。長い時間の中で。短い時間の中で。

それでも。

一緒にいると決めた夜だった。


※※※


最終章 365日後

一年が過ぎた。たった一年。でも、人生が丸ごと変わるには十分な時間だった。

魔王城は、今や観光地になっていた。

本当に。最初に聞いたときは冗談かと思った。

でも現実だった。城門の前には長い列。人間も魔族も並んでいる。

子どもがはしゃぎ、商人が屋台を出し、旅人が写真を描いている。


「元・魔王城見学ツアー開催中」


看板を見たとき、私はしばらく笑いが止まらなかった。戦争の象徴だった城が、今は平和の象徴。

世界は本当に変わった。城の中も変わった。玉座の間は式典会場になった廊下には絵画が飾られた。

庭にはベンチが置かれた。

そして。

執務室の窓際。あの小さなテーブルは、元の場所に戻っていた。紅茶の席だ。

朝。

私は紅茶を淹れていた。湯気がゆらゆら揺れる。窓から光が差し込む。鳥の声が聞こえる。

変わらない朝。一年前と同じ朝。でも、全部が違う朝。


「いい香りだ」


後ろから声がする。振り向かなくても分かる。レオンだ。


「今日は早いですね」


「今日は休みだ」


王に休みができた。それだけで世界が平和だと分かる。二人で窓際に座る。紅茶を飲む。

静かな時間。この時間が、一番好きだった。

レオンがぽつりと言った。


「帰る場所はここでいいのだな」


カップを持つ手が止まる。一年経っても、この質問は胸に響く。私は笑った。


「はい」


迷いはなかった。もう、迷う理由もない。レオンは少し視線を逸らした。

そして、珍しく言葉を選ぶ。

沈黙。

数秒。

そして。


「ずっとここにいろ」


小さな声。でも、はっきり聞こえた。私は笑った。最初に出会った日を思い出す。

巨大な黒い狼。イケボ。「私は魔王だ」。

あの日から、すべてが始まった。攻略対象外の魔王。ゲームには存在しなかったルート。

でも。

人生の最終攻略対象。


「はい!攻略完了です」


レオンは意味が分からない顔をした。でも、少しだけ笑った。窓の外は青空。紅茶の湯気が揺れる。


物語は終わった。


そして。


人生は、これからも続いていく。


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