第九章 鉄血帝国の影
北への道は、南とは全く異なっていた。
緑豊かな農地は徐々に減り、代わりに灰色の岩肌が目立ち始める。空気は冷たく、乾いている。風には、かすかに硫黄の匂いが混じっていた。
「ここから先が、国境地帯か」
誠一は街道の脇に立つ石碑を見た。「王国領北限」と刻まれている。
背後から、馬車の音が聞こえた。振り返ると、リーネが御者台に座っていた。
「私も来たわ」
「おい、危険だと言っただろう」
「だから来たのよ。一人で行かせるわけにはいかないでしょう」
リーネは頑として譲らなかった。
結局、誠一が折れた。リーネの馬車に軍事物資を積み、誠一が先導する形で、二人は国境地帯へと進んだ。
街道を進むにつれ、緊張感が増していった。
所々に、王国軍の検問所がある。兵士たちは警戒心を剥き出しにして、通行人を厳しく調べていた。
「物々しいな」
「帝国との小競り合いが、頻発しているらしいわ。正式な開戦はまだだけど、事実上の戦争状態よ」
検問を通過するたびに、誠一たちは身分証を提示し、荷物の中身を確認された。王女エレノアの署名入りの許可証がなければ、通過は不可能だっただろう。
「目的地はどこだ」
「ノルド砦。国境最前線の拠点よ」
「あとどのくらいだ」
「馬車で半日。セイの足なら——」
「俺一人なら一時間だな」
「でも、荷物はこの馬車に積んでいるから」
「分かってる。俺が先に行って、道の安全を確認してくる。お前は、後からゆっくり来い」
「気をつけてね」
誠一は走り出した。
スキルを発動し、街道を北へ疾走する。風景が流れていく。荒野、岩山、小川。人の姿はほとんどない。
三十分ほど走ったところで、異変に気づいた。
「……何だ、あれ」
前方の空が、黒く染まっている。煙だ。大量の煙が、上空に立ち上っている。
火事か。それとも——。
誠一は速度を上げた。
煙の発生源が見えてきた。小さな村だった。いや、「だった」というべきか。今は、炎に包まれている。
「くそっ——」
誠一は村に飛び込んだ。
家々は崩れ落ち、あるいは燃え盛っている。路上には、倒れた人々の姿。生きているのか、死んでいるのか、遠目には分からない。
「誰かいるか!」
叫んだ。返事はない。
誠一は走り回った。瓦礫の下を調べ、倒れている人を揺り起こし、生存者を探した。
一人の老人が、壁にもたれて座っていた。かろうじて息があった。
「何があった?」
「……帝国軍だ」
老人はかすれた声で言った。
「突然、やって来て……村を焼いた……」
「帝国軍が?」
「ああ……将軍が……銀髪の将軍が……笑いながら……」
「銀髪の将軍……」
誠一の背筋に、悪寒が走った。
「村人は?」
「逃げた者も……いる……南へ……」
「分かった。お前も逃げろ。すぐに救援を呼ぶから」
「……ありがとう……」
老人を安全な場所に移動させてから、誠一は再び走り出した。
リーネのところへ戻り、状況を伝えなければ。そして——。
「銀髪の将軍……」
その言葉が、頭から離れなかった。
「ひどい……」
リーネは、焼け落ちた村を見て、絶句した。
「帝国軍がやったんだ。銀髪の将軍が率いる部隊らしい」
「銀髪の将軍……聞いたことがあるわ。ガルド・シュバルツ。鉄血帝国の新星。残虐非道で知られている」
「ガルド・シュバルツ……」
誠一は、その名を噛みしめた。
シュバルツ。ドイツ語で「黒」を意味する。
黒崎。
偶然か。それとも——。
「セイ? どうしたの? 顔色が悪いわ」
「……何でもない」
誠一は首を振った。今は、確証がない。憶測だけで動くわけにはいかない。
「とりあえず、ノルド砦へ急ごう。状況を報告しないと」
二人は、焼け跡を後にして北へ向かった。
ノルド砦は、想像以上に大きな拠点だった。
石造りの城壁が、北の荒野を睨みつけるように聳えている。城壁の上には、無数の兵士が配置され、弓や投石器が並んでいる。
「ここが最前線か」
「ええ。国境を越えたら、そこはもう帝国領よ」
城門で身分確認を受け、中に入った。
砦の中は、戦争の準備で慌ただしかった。武器を運ぶ兵士、馬に鎧を着せる騎兵、訓練に励む歩兵。緊張感が、空気を重くしていた。
「ようこそ、カートライト運送ギルドの方々」
出迎えたのは、砦の司令官だった。ヴェルナーと名乗る、五十代の武人。歴戦の勇者という風格を漂わせている。
「王女殿下から、連絡を受けている。物資輸送、感謝する」
「いえ。仕事ですから」
「謙虚だな。だが、この状況で国境まで来てくれる運送業者は、あなた方だけだ。商人ギルドは、全員撤退してしまった」
「撤退……」
「ああ。危険だと判断したのだろう。彼らは金にならないことはしない。いや、損する可能性があることは、絶対にしないと言うべきか」
ヴェルナーは苦笑した。
「だから、あなた方は貴重だ。今後も、輸送を依頼したい」
「お任せください」
誠一は頭を下げた。
「ところで」
ヴェルナーの表情が、急に険しくなった。
「道中、何か異変はなかったか」
「……焼かれた村を見ました」
「やはり、そうか」
ヴェルナーは深いため息をついた。
「帝国軍の襲撃だ。ガルド・シュバルツ将軍の部隊が、国境を越えて村々を焼き討ちしている」
「……」
「奴は、化け物だ」
ヴェルナーの声に、恐怖の色が滲んだ。
「剣で切っても、矢を射ても、魔法を放っても、奴には効かない。触れるものすべてを支配する力を持っているという」
「触れるものを支配……」
「ああ。剣を向ければ、その剣が自分に向かってくる。兵士が近づけば、その兵士が味方に剣を向ける。まさに、悪夢のような能力だ」
誠一の脳裏に、黒崎の顔が浮かんだ。
ガルド・シュバルツ。銀髪の将軍。触れるものを支配する力。
そして——シュバルツという名前。
「……奴は、何者なんですか」
「分からん。一年ほど前に、突然、帝国軍に現れたらしい。出自は不明だが、圧倒的な力で次々と昇進し、今や帝国軍の筆頭将軍だ」
「一年前……」
誠一がこの世界に来たのも、約一年前だ。
偶然の一致。そうであってほしい。だが——。
「司令官」
誠一は口を開いた。
「その将軍の顔を、見たことはありますか」
「遠目にだが、ある。銀髪で、鋭い目つきの男だ。年齢は四十代半ばといったところか。妙に人を見下すような態度で——」
「その将軍に、会わせてください」
「何?」
ヴェルナーは驚いた表情を浮かべた。
「正気か? あの化け物に会うだと?」
「どうしても、確認したいことがあるんです」
「……」
ヴェルナーは、誠一の目をじっと見つめた。
「お前、何者だ」
「……ただの運び屋です」
「運び屋が、敵の将軍に会いたがる理由は何だ」
「……」
誠一は黙った。理由を説明するには、自分が「転生者」であることを明かさなければならない。それは、できれば避けたかった。
「いいだろう」
ヴェルナーが口を開いた。
「明日、国境で帝国との交渉が予定されている。両軍の代表が顔を合わせる機会だ。お前も、同席させてやる」
「ありがとうございます」
「礼は、生きて帰ってきてから言え。あの将軍と対面して、無事で済む保証はないぞ」
「分かっています」
誠一は、拳を握りしめた。
明日、すべてが分かる。
銀髪の将軍、ガルド・シュバルツ。
その正体が、黒崎剛史なのかどうか。
その夜、誠一は眠れなかった。
砦の一室で、天井を見つめながら、考え続けていた。
もし、ガルド・シュバルツが黒崎だとしたら。
自分は、どうすればいい?
日本で受けた仕打ちを、思い出す。
「お前の代わりなんて、いくらでもいる」
「使えない奴だな」
「辞めたければ辞めろ」
何度も、何度も、浴びせられた言葉。眠れない夜、食べられない朝、震える手、ぼやける視界。
「……俺は」
誠一は呟いた。
「あいつが、怖いんだ」
認めたくなかった。でも、認めざるを得ない。
十八年間、逃げ続けてきた。言い返すこともできず、反抗することもできず、ただ黙って耐えてきた。それが、習慣になってしまった。
「セイ」
ノックの音と共に、リーネの声がした。
「起きてる?」
「ああ」
ドアが開き、リーネが入ってきた。手に、湯気の立つカップを持っている。
「眠れないと思って。温かいお茶、持ってきたわ」
「……ありがとう」
誠一はカップを受け取った。ハーブの香りが、鼻をくすぐる。
「明日のこと、考えてた?」
「ああ」
「……将軍のこと、何か心当たりがあるのね」
「どうしてそう思う」
「分かるわよ、これだけ一緒にいれば」
リーネは、誠一の隣に座った。
「話してくれない? 私、力になりたいの」
「……」
誠一は黙った。どこから話せばいいのか、分からなかった。
「俺は——」
やがて、口を開いた。
「この世界に来る前、別の世界に住んでいたんだ」
「知ってるわ。異世界から来たって、最初に聞いた」
「その世界で、俺は……トラックの運転手だった。荷物を運ぶ仕事だ」
「運び屋ね。今と同じ」
「ああ。でも、今とは全然違う環境だった」
誠一は、カップの中の液体を見つめた。
「俺には、上司がいた。黒崎という男だ。配車係長で、俺の直属の上司だった」
「……」
「そいつは、最悪の人間だった。毎日怒鳴る。人格を否定する。無理なスケジュールを押し付ける。休みを取らせない。それでいて、自分の成果は上に横取りされる」
「ひどい……」
「俺は、十八年間、そいつの下で働いた。逃げ出すこともできず、ただ耐え続けた」
「なぜ、辞めなかったの?」
「……分からない。いや、分かってる。怖かったんだ。辞めた後のことが。新しい環境で、また一からやり直す勇気がなかった。だから、悪い環境でも、慣れた場所にしがみついていた」
リーネは何も言わなかった。ただ、静かに話を聞いていた。
「最後の日、俺は——死んだんだ」
「死んだ?」
「ああ。トラックを運転中に、事故に遭った。過労で、意識が朦朧としていて……気づいた時には、もう遅かった」
「それで、この世界に……」
「そうだ。目覚めたら、ここにいた。最初は、何が起きたのか分からなかった。でも——」
誠一は顔を上げた。
「もしかしたら、黒崎も同じなんじゃないかと思うんだ」
「同じ?」
「ああ。奴も、過労で死んだんじゃないかって。そして、この世界に転生したんじゃないかって」
「それが……ガルド・シュバルツ将軍?」
「分からない。だから、明日、確かめたいんだ」
リーネは、誠一の手を取った。
「怖い?」
「……ああ」
誠一は正直に答えた。
「怖い。奴の顔を見るのも、声を聞くのも。体が勝手に竦む。十八年分のトラウマが、全身に染み付いてるんだ」
「でも、行くのね」
「行かなきゃいけない。逃げ続けてきた自分と、決着をつけるために」
リーネは、誠一の手を強く握りしめた。
「私も、一緒に行くわ」
「危険だぞ」
「知ってる。でも、あなた一人で行かせたくない」
「リーネ……」
「私たちは、仲間でしょう? 一人で背負い込む必要はないのよ」
誠一は、リーネの目を見つめた。その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「……ありがとう」
「さて、もう寝なさい。明日は、長い一日になるわ」
「ああ」
リーネが部屋を出て行った後も、誠一はしばらく起きていた。
窓の外には、北の空が広がっている。星が、冷たく瞬いていた。
「黒崎……」
呟いた。
「お前が、本当にあいつなら——」
拳を握りしめた。
「俺は、もう逃げない」




