第四章 最初の配送
翌朝、誠一は日の出とともに出発した。
装備は最小限だ。水筒と、干し肉と、リーネから借りた簡素な地図。武器は持たない。持っていても、使い方を知らないからだ。
「本当に行くのね」
リーネが門まで見送りに来た。目の下に、隈ができている。一晩中、眠れなかったのだろう。
「ああ。行ってくる」
「気をつけて。魔物に囲まれたら、無理に戦わないで。逃げて」
「分かってる」
誠一は軽く手を振った。
「帰りに、塩を持ってくる。期待しといてくれ」
「うん……期待してる」
リーネは小さく微笑んだ。
誠一は王都の西門を出て、カルム港へ続く街道に足を踏み入れた。
「さて——」
深呼吸をする。
「行くか」
走り出した。
視界の端に、ステータス画面が表示される。
【スキル発動:無限走破Lv.1】
連続運転時間:0分
残り時間:4時間0分
四時間のカウントダウンが始まった。
誠一は速度を上げた。風が耳元で唸る。景色が流れていく。石畳の街道、木々の間、丘の上、谷を越え、川を渡り。
速い。信じられないほど速い。
体感では、時速百キロ近く出ているのではないか。トラックの速度に匹敵する。いや、それ以上かもしれない。
「すげえ……」
自分の能力に、改めて驚く。
一時間が経過した。残り三時間。
街道は次第に荒れてきた。石畳はところどころ崩れ、雑草が生い茂っている。放置された荷馬車の残骸が、道端に転がっていた。
「ここで襲われたのか……」
馬車の側面には、爪痕が刻まれている。大型の魔物の仕業だろう。
誠一は足を止めなかった。走り続けた。
二時間が経過した。残り二時間。
前方に、集団が見えた。
人間ではない。四つ足の獣——狼に似ているが、体は二回りほど大きい。毛皮は灰色で、目は赤く光っている。
「魔狼……」
リーネから聞いていた魔物の一種だ。群れで行動し、旅人や馬車を襲う。街道の脅威として、最も警戒されている存在。
魔狼の群れは、十頭以上いた。彼らは誠一を見つけると、一斉に牙を剥いた。
「来い」
誠一は減速しなかった。むしろ、加速した。
魔狼たちが飛びかかってくる。鋭い爪が、誠一の体を引き裂こうとする。
だが——。
「効かねえよ」
爪は、誠一の体に触れる寸前で弾かれた。まるで透明な壁があるかのように。
無敵。走っている限り、あらゆる攻撃が無効化される。
誠一は魔狼の群れの只中を駆け抜けた。振り返ることなく、ただひたすら前へ。
魔狼たちは呆然と立ち尽くしていた。獲物を仕留め損ねたことへの困惑。理解を超えた現象への恐怖。
だが、誠一はそんなことを気にしていなかった。
三時間が経過した。残り一時間。
地形が変わってきた。丘陵地帯を抜け、平野に出た。遠くに、海が見える。青く輝く水平線。
「あれがカルム港か」
目的地は近い。だが、時間も残り少ない。
三時間三十分。残り三十分。
港町の外壁が、はっきりと見えてきた。あと少し。あと少しで——。
三時間五十分。残り十分。
外壁まで、あと数百メートル。
三時間五十五分。残り五分。
門が見えた。開いている。人の姿も見える。
三時間五十九分。残り一分。
「間に合え……!」
誠一は全力で駆けた。体中の筋肉が悲鳴を上げる。肺が焼けるように熱い。
四時間〇分〇秒。
【スキル強制停止】
【休息期間:30分】
体が急に重くなった。足が動かない。誠一はつんのめり、地面に倒れ込んだ。
「が……っ」
息が上がる。心臓が破裂しそうだ。視界が暗くなる。
だが——。
「やった……」
顔を上げると、目の前にカルム港の門があった。
到着した。四時間ちょうどで、七日分の距離を走り切った。
「やったぞ……」
誠一は仰向けに転がり、空を見上げた。青空が、目に眩しい。
「俺……本当にやったんだ……」
笑いが込み上げてきた。涙も出てきた。
十八年間、トラックを運転してきた。数え切れないほどの距離を走った。でも、こんな達成感を味わったことは、一度もなかった。
いつも、ただ言われたから走っていた。怒鳴られるのが嫌だから走っていた。自分の意志で、自分の目標のために走ったことなど、なかった。
だが、今は違う。
「俺の意志で……走ったんだ」
それが、たまらなく嬉しかった。
「おい、大丈夫か?」
声がした。顔を向けると、門番らしき男が心配そうに覗き込んでいる。
「ああ……大丈夫だ。ちょっと疲れただけで」
「疲れたって、お前、どこから来たんだ。こんな朝早くに、しかも徒歩で」
「王都から」
「王都? 馬鹿言うな。王都から七日はかかるぞ」
「いや……本当に、今朝出発したんだ」
門番は信じられないという顔をした。だが、それ以上は追及しなかった。
「まあいい。とにかく中に入れ。倒れられても困る」
門番は誠一に手を貸し、立ち上がらせてくれた。
「ありがとう」
「礼はいい。それより、何の用でカルム港に?」
「塩を買いに来た」
「塩? なるほど、商人か」
「まあ……そんなところだ」
誠一は門をくぐり、カルム港の街に入った。
潮の匂いが鼻をくすぐる。港町特有の、魚と海藻と塩の入り混じった匂い。
「さて、塩を買うか」
三十分の休息時間。その間に、塩を仕入れなければならない。
誠一は市場を目指して歩き始めた。
カルム港の塩市場は、活気に満ちていた。
王都とは対照的だ。ここでは、塩は「普通の商品」だった。山のように積まれた塩袋が、あちこちで売られている。
「安いな……」
誠一は値段を見て驚いた。王都の三分の一以下だ。
「そりゃそうだ。ここは塩の産地だからな。問題は、王都まで運ぶ手段がないことさ」
声の主は、塩商人らしき男だった。恰幅が良く、人の良さそうな顔をしている。
「あんた、よそ者だろう? 商売か?」
「ああ。王都から来た。塩を仕入れて、持ち帰りたいんだが」
「持ち帰る? どうやって? 馬車を雇ったのか?」
「いや。自分で走って運ぶ」
塩商人は目を丸くした。
「走って? 塩を? どのくらいの量を?」
「できるだけ多く」
「……正気か、あんた」
「たぶん正気だ。試してみないと分からないが」
誠一はステータス画面を開いた。
【スキル:積載無制限Lv.1】
効果:所持可能な重量・体積に制限なし
使用方法:対象に触れ、「収納」と念じることで異次元空間に格納
「収納……」
誠一は塩袋に手を触れた。
「収納」
塩袋が、光に包まれて消えた。
「な……っ!」
塩商人が飛び退いた。
「消えた! 塩が消えた!」
「大丈夫、ちゃんと保管されてる」
誠一はステータス画面を確認した。
【所持品】
・塩(10kg)×1
「おお……本当に入ってる」
「あ、あんた、何者だ……」
塩商人は恐怖と驚愕の入り混じった表情で、誠一を見つめていた。
「ただの運び屋だ。ちょっと変わったスキルを持ってるだけで」
誠一は淡々と答えた。
「この塩、買い取りたい。値段を教えてくれ」
「あ、ああ……銀貨三枚だ」
「銀貨三枚か」
誠一はポケットを探った。リーネから渡された軍資金——銀貨二十枚。
「じゃあ、同じものを十袋くれ」
「十袋?」
「できれば、もっと欲しいくらいだ。いくらでも運べるからな」
塩商人は呆然としていた。だが、商売人の本能が働いたのだろう。すぐに表情を引き締め、商談モードに入った。
「分かった。十袋で銀貨三十枚だが——まとめ買いなら、銀貨二十五枚でいい」
「助かる。それで頼む」
取引は成立した。
誠一は次々と塩袋を「収納」していった。十袋、二十袋、三十袋。リーネから預かった資金では足りなくなったが、塩商人が「後払いでいい」と言ってくれた。
「次に来た時、必ず払う。約束する」
「ああ、信じるよ。あんたみたいな奴は、約束を破らない顔をしてる」
塩商人は笑った。
休息時間が終わった。
【休息完了】
【スキル使用可能】
「よし、行くか」
誠一は港町の門に向かった。
「おい、運び屋!」
背後から、塩商人の声がした。
「次も来いよ! いい塩を用意しておく!」
誠一は手を振って応えた。
そして——走り出した。
帰り道は、行きよりも楽だった。
道を覚えているし、危険な場所も把握している。魔狼の群れがいた場所は、大きく迂回した。無敵とはいえ、無駄な消耗は避けたい。
三時間半で、王都の城壁が見えてきた。
「おかえりなさい!」
門の前で、リーネが待っていた。目を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな顔で。
「ただいま」
誠一は立ち止まった。四時間ぎりぎりではなく、余裕を持って戻ってきた。
「本当に……本当に帰ってきた……」
リーネは誠一に駆け寄り、その胸に顔を埋めた。
「待って。泣くな。成功したんだ」
「だって……だって……」
「ほら、見ろ」
誠一はステータス画面を操作し、塩袋を一つ取り出した。
「塩だ。カルム港から持ってきた」
リーネは目を見開いた。
「嘘……本当に?」
「嘘じゃない。全部で五十袋ある」
「五十袋……!」
リーネは塩袋を抱きしめた。そして、とうとう声を上げて泣き始めた。
「できたのね……本当にできたのね……」
「ああ。できた」
誠一は空を見上げた。夕焼けが、地平線を赤く染めている。
「これが、最初の配送だ」
物流なき世界に、一筋の血流が通った瞬間だった。




